『第一話・4 : 灰の祈り、まだ終わらぬ炎』


「女神さま……」


その呟きはやがて群衆全体へと伝播し、

ひざまずく者、天に祈る者、子を抱いて涙する者へと広がっていった。


「ぎゃぁぁぁぁっ!? ちょ、ちょっと待てぇぇ!!」

ブッくんの頁が透け、表紙がじりじりと光に溶けかける。


「や、やばいっ……! ワイまで浄化されるやんかぁぁ!!

ケーキに誓って無害やのにぃぃ!!

なんでや!? ワイ悪役枠ちゃうやろ!?」


その瞬間──

ワン太が“ぽふん”と前に飛び出した。


ぬいぐるみの小さな体が、光の波とブッくんのあいだに立ちはだかる。

布の耳がふるりと揺れ、目の奥に炎を映す。


光はワン太の前で柔らかく弾かれ、ブッくんの身体をそっと避けて流れていった。

まるで光そのものが、小さな守護者に気づき、頭を垂れたかのように。


「な、なんやこれ……っ……お犬さまの……ご加護……?」

ブッくんは、喉の奥が震えたまま、目を離せずにいた。

「……ワ、ワイのこと……守ってくれたんか……?」


炎の明滅が、二つの小さな影を重ねていた。

言葉は、まだ誰の口にも生まれなかった。


(……ワン太。やっぱお前、ただのぬいぐるみじゃねぇな……!)


光が収束すると、広場からは先ほどの魔物の部隊の影が、跡形もなく消えていた。

ただ──煤けた本と、無言で佇むぬいぐるみが残るだけだった。


けれど、静寂は“終わり”ではない。

王城の方角に揺れる炎が、かすかに“息をしている影”を照らしていた。


(……これで全部じゃない。)

(まだ他の部隊がいる。油断したら、街ごと飲まれる。)


リリアは剣を下げず、視線だけで闇を探る。

足音も、呼吸も――侵されないように。


風が吹き抜ける。灰が雪のように舞い、焼け落ちた街並みに積もっていく。

立ちすくむ人々は声を失い、ただその光景を見つめていた。


やがて誰かが、震える声で囁いた。


「……女神さまだ……」


膝を折り、額を床に押し当てる者。

泣きじゃくる子供を抱きしめる母親。

残った人々はひとりまたひとりとリリアに祈りの視線を向けた。


リリアが剣を下ろした直後──

灰の舞う静寂の中で、ひとりの老人が震える手を差し伸べる。


「どうか……どうか、この街を……」


その声は、裂けた街のどこか奥底で、乾いた祈りに火を灯した。


「女神さま……!」「救いを……!」


声が、声を呼ぶ。

願いが、願いを連れてくる。


兵士上がりの男は折れた剣を差し出し、子供は花を抱えて駆け寄る。


広場は祈りと願いで満ち、炎の中にもかかわらず荘厳な神殿と化していた。


リリアは、息を飲んだまま立ち尽くした。

胸の奥で、何かがわずかに軋む。

“私は、女神じゃない”──その言葉が、喉まで上がっているのに、声にならない。


……声にした瞬間、すべてを壊してしまうと分かっていた。


セラフィーはその光景を見つめ、かすかに苦く笑った。


「……本当に、女神さまだと思われてるんだね。」

セラフィーは、息を静かに吐いた。

「信仰は、時に救いであり、重荷にもなる。……気をつけて。」


皮肉に聞こえるその声の底には――微かな畏れがあった。


リリアは答えられなかった。

胸の奥が、ゆっくりと熱くなっていく。


(……人々を助けられた。俺が。ちゃんと。)


颯太の胸の内側で、固く縛られていた何かがほどけていく。

苦しかった理由も、逃げていた日々も、もう今は関係ない。


ここに“いてもいい”と思えた。


喉がきゅっと締まる。

胸が熱くなる。

それは涙ではなく、ずっと置き去りにしていた心が――やっと戻ってきた証だった。


(……胸が、あたたかい。)


それだけで十分だった。


そこで、思考が途切れた。


胸の奥で、熱と冷たさがゆっくり混ざり合う。

炎の中で、心臓だけが静かに脈打っていた。

それは痛みではなかった。“追われ続けた心が、やっと安らいだ場所”の温度だった。


息が、ふっとほどけた。


祈りの視線は、重かった。

背中に、そっと手を置かれたような温度だった。

逃げる理由は、もうどこにもなかった。


焼け落ちた屋根、泣き叫ぶ子供、焦げた風に混じる鉄と血の匂い。

人々は救われた──だが、街はまだ炎に包まれ続けている。


リリアは、ゆっくりと姿勢を正した。

震えはあった。けれど、それは逃げるためのものじゃない。

その震えは、前に進むためのものだった。


――炎は、まだ終わらない。


灰が静かに降り積もる中──

遠く、城の方角から。低い“角笛”が一度だけ鳴った。


誰も、動かなかった。


その音が何を意味するのか。

ここにいる全員が、もう理解していた。


灰だけが、静かに降り続いている。


遠く、城の炎だけが、まだ息をしている。


リリアは、ただ一度まばたきをした。


それだけで、十分だった。

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