『第一話・3 : 女神さまと呼ばれた夜』


黒い軍勢の最前列――

その一体が、わずかにこちらへと顔を向けた。


ギィ……と、錆びた関節が鳴る。


次の瞬間。


全ての視線が、こちらへ向いた。


ざわり、と空気が反転する。

焚き火の熱すら、ひと呼吸ぶんだけ凍りつく。


リリアは息を呑んだ。


「……気づかれた。」


黒い軍勢が一斉に槍を傾ける。

刃が、月光を吸い込むように鈍く光る。


その動きは乱れていなかった。

まるで、一つの巨大な生き物が、形を変えたかのように。


大地が低く震える。


最初の一歩が――踏み込まれた。


ドォン。


大地が、心臓を打った。


ブッくんの声は、かすれ切っていた。

「……あかんやつや、これ。

 本気で“殺しに来とる側”や……」


ワン太は、首をほんのわずかに傾けた。

炎の明かりをその瞳に映したまま。


……それだけで、世界の重心が揺れた。


黒い軍勢が、槍を揃えて前進する。

炎に照らされた甲冑が、波打つ闇の群れとなって押し寄せてくる。


その中で――


ワン太が、一歩だけ前に出た。


 ぽす。


その小さな足音が、大地ごと「基準」をずらした。


黒い軍勢の足並みが、かすかに揺らぐ。

いや、揺らいだのは足ではない。


“世界の認識”のほうだ。


ワン太は、ただ首をかしげただけ。

いつもの、眠そうで、のんびりとした仕草。


……それだけで充分だった。


黒い軍勢の最前列が、揃って――

「一歩、後ろへ」退く。


リリアは息を呑む。


(……威圧じゃない。

 力でも、魔力でもない。

 “存在の前提”が、書き換わってる……)


炎の明滅の中。

ただのぬいぐるみが、戦場の中心に立っていた。


それは――

「この世界のほうが間違っていた」と言わんばかりの光景だった。


リリアの胸に、ひとつ呼吸が落ちる。


(……今しかない。)


(――チャンスだ。)


(……ワン太が、道を開いた。)


その事実だけが、背中を押した。


リリアは剣を掲げる。

炎に照らされた瞳に、祈りが灯った。

その祈りは、恐れごと抱きしめて、静かに形を結ぶ。


「──闇に沈みし亡霊よ。

 血と怨嗟に縛られし者よ。

 その影はもはや人ならず、

 その嘆きはもはや天に届かず。


 ならば光に還れ。

 穢れを焼き、魂を解き放つ。

 星々の誓約に従い、

 我が刃は清浄をもって汝らを裁く──!」


リリアは一度だけ息を吸った。

胸の奥の“痛み”と“願い”が、ひとつに重なる。


剣先がぱあっと白銀の輝きを帯び、

炎の赤さえ呑み込むように街全体を光で満たしていく。

祈りが、刃に「形」を持った。


「──帰天照命レディア・アポストル


それは滅びではなく、帰還だった。


放たれた瞬間、世界が呼吸を止めた。


それは殲滅ではない。

憎しみでも、力任せの破壊でもない。


――罪を祓い、魂を本来の座へ還す、“帰還の光”。


歴代の法王であっても、生涯に一度しか触れ得なかった秘儀。

その名を、今、リリア自身の声で呼び覚ました。


光は炎を押しのけるのではなく、

世界そのものの呼吸に滲むように降りた。


轟音とともに、閃光が奔流となって広場から四方へ駆け抜けた。

黒煙を裂き、瓦礫も炎も呑み込みながら押し広がる光の津波。


──だが、その光は“選んでいた”。


逃げ惑う人々に触れたそれは、刃ではなく、春の陽だまりだった。

泣きじゃくっていた子供は、頬に残る涙ごとそっと温められ、

老いた者の荒い咳も、光に撫でられるように静かに落ち着いていく。


焦げた皮膚には花弁のような痕が灯り、

乱れていた鼓動さえ、ゆるやかに整っていった。


だが、魔に堕ちた兵は違った。


ひび割れた仮面は、触れられた瞬間に音もなく崩れ、怨嗟は声になる前に光へと溶けていく。


叫びも苦痛もない。

ただ――存在の糸が静かにほどけていくだけ。


さっきまで広場を埋めていた“軍勢”は、もうどこにもいない。


ただ、光の余韻だけが、淡く空気に漂っていた。


黒煙が裂け、一瞬だけ夜明けの青がのぞく。

だが、それは朝ではない。

世界がほんの一瞬、“救いの色”を思い出しただけ。


そして――音が消えた。


風も、炎も、時間さえ息を止める。

“祈りが形を得た”ときにだけ訪れる、聖域の静けさだった。


「……おお……っ」


炎の中で逃げ惑っていた人々が、足を止める。

すすにまみれた顔で、震える声を上げた。


「……女神さまだ……!」


その言葉は、祈りでも歓喜でもなく――

ただ、静かな“事実”として降りた。


リリアだけが、炎と光の境目に立っていた。

その胸の奥には――静かな“ただ、役に立てた”という温度が灯っていた。


炎の揺らぎさえ、彼女を中心に呼吸しているように見えた。


誰も、否定しなかった。


ただ、リリアだけが。

胸の奥で、その重さを静かに受け止めていた。


肩が、かすかに震える。


それは恐れではない。

悲しみでもない。


――心臓が、ようやく自分の名を思い出しただけだった。


灰の降る音だけが、世界のすべてだった。

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