『第一話・1 : 静夜、赤く裂ける』

夜は深く、古本店には静かな時間が流れていた。

棚を揺らす風もなく、紅茶の香りだけがまだ残っている。

リリアは、空になったカップをそっと指でなぞっていた。

静けさが、どこか深すぎた。


(……ミルフェリアへ行く。)


ワン太は肩に寄り添い、セラフィーは静かに本を閉じる。

店内には、ほんの小さな“温度”だけが灯っていた。


そのとき――かすかな震え。

古書棚が、わずかに、ほんの数ミリだけ揺れた。


「……地鳴り?」


カップの中の紅茶が、わずかに波打った。

店内の静けさが、薄い膜のように震えている。


外で、ばたばたと人の足音が増えていく。

砂利を蹴る靴音、荒い息、抑えきれないざわめき。


「……誰か、走っている……?」


店の前で誰かが叫んだ。

「……っ、で、伝令──! 道……あけて……!」


次の瞬間、扉が荒々しく押し開かれた。

冷たい夜気と、焦げた布と血の鉄の匂いが流れ込む。


煤と血に焼かれた鎧の兵士が、足元から崩れ落ちるように倒れ込んだ。


呼吸はもう声にならず、喉の奥でかすれた風が擦れるだけ。

その腕には、指の跡が白く残るほど握り締められた──急報の筒。

焦げた髪がぱち、ぱち、とまだ火の名残を鳴らしていた。


「……セラフィー様……っ! ……っ、い……っ……!」


セラフィーが姿を見せた瞬間、兵士の膝が崩れ落ちる。

リリアは反射のように手を伸ばし、倒れかけた身体を支えた。


兵士は唇を震わせながら、かすれた声を絞り出す。


「……王都……ミルフェリアが……」


ミルフェリア。

アルシェ王国の中心であり、セラフィーが護るべき都。


「……城が燃えて……魔王軍が……城門まで来ている……夜なのに、空が赤い……っ……!」


声に合わせて胸が上下するたび、息が漏れる音が掠れていく。

それでも、彼は使命だけは手放さなかった。


震える指が、急報の筒をセラフィーへ差し出す。


「アルシェ王国、国王……ミルド=レーヴ六世より……」

「聖女セラフィー殿……至急、王都へ……!」


「聖騎兵……隊列が……っ……崩れて……っ……!すでに半数を……!」


「……ザッハの神殿も……聖火が黒く染まって……」


「……誰も……止め……られ……っ……なくて……!」


「このままでは……王都が……落ちます……っ……!」


セラフィーの指先が、わずかに震えた。

胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる。


ザッハ――王都をそっと包む守りの結界。

“永い加護”であるはずのそれが、燃えている。


セラフィーは一度、まぶたを閉じた。

わずかに、吐息が滲む。


「……ええ。」

「行かなくては、なりませんね。」


その声は静かだったが、

言葉の端だけが、かすかに揺れていた。


その瞬間、兵士の瞳に微かな安堵が灯った。

その言葉を聞いた途端、兵士の身体から支えていた力がすうっと抜けていく。


指が、リリアの服の端をそっと離した。


セラフィーがすぐさま両手をかざし、淡い光で兵士を包む。


「《癒光(メリア・ヒール)》──!」


温かな光が兵士の身体を包む。

裂けた傷口は塞がり、血の流れも止まる。


息が少しだけ深くなる。胸が、かすかに上下した。

だが瞼は、まだ開かない。


「……大丈夫。命はつながっている。」

「ただ、限界を超えているわ。今は眠らせてあげて。」


セラフィーはそっと指を離し、目を閉じた。

その表情には、迷いも言い訳もなかった。


リリアはそっと兵士を横たえ、静かに拳を握りしめる。

その手の中で、震えはもう止まっていた。


その横で──ワン太が小さく動いた。

倒れた兵士のマントを“ちょい、ちょい”と前足で引っ張る。

だが、その仕草はただの無邪気さではなかった。


淡い光が、前足から滲んだ。

兵士の胸が、ふ、と深く息をした。


癒しではない。

もっと、はじまりの側にあるもの。


静けさの底で、かすかな息だけが続いていた。


その光景に、ブッくんはごくりと唾を飲む。


(あれ、癒し……いや、ちゃう……生かしとる。魂ごと、引き戻しとる……)

(こやつ……いったい、何者や……)


そのときだった。


──カン……カン……カン……!


塔の警鐘が、夜を切り裂いた。

最初は一度、ためらうように。

次に、強く。早く。起こすように。


「……警鐘……」

リリアは息を呑んだ。


通りのざわめきが膨らみ、戸口の外の影が走り抜けていく。

店の外の世界が、静かな夜から、一瞬で戦支度の色に変わっていった。


塔の鐘の音は、夜気を震わせながら街へ広がっていった。


リリアは、ゆっくりと息を吸った。

気づけば、もう立ち上がっていた。


ワン太が袖をくい、と引いた。

リリアは、その小さな手にそっと触れる。


塔の鐘は、まだ鳴り続けている。

夜空の向こうで、雲がひと筋だけ、赤く焦げていた。


静かな夜は、もうどこにもなかった。

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