整いすぎる

野村絽麻子

***

 その店との出逢いは深夜だった。煌々と輝く灯りが窓から漏れていて、嘘だと思った。雨だった。そして、疲れていた。疲弊だった。

 私の身体は何をするにもまるでギシギシと音を立て、硬質で融通の効かない我儘な暴君のように振る舞っていた。とは言え我がことゆえに縁を切るわけにもいかず、しかしながら巷に出回る数多のストレッチや栄養ドリンクなどで易々とコントロールもされることも無く、右にも左にも進めない行き止まりの通せんぼうで、自分で自分の体たらくに困り果てていたのだった。

 吸い寄せられるように灯りの前に立つと、硝子扉には凡庸な黄色のカッティングシートで屋号が貼り付けてあった。整体院、と読めた。整体かぁ、と脳の表面で受け止める。

 硝子の向こうでゆらりと人影が揺れたように見えた。あ、と思ったか思わないかで物音がして、目の前の扉が音もなく開いていた。中から男が顔を出す。

「入って行かれますか?」

 眼鏡の奥の目は穏やかなカーブを描き、声のトーンは限りなく落ち着いている。例えばドリップコーヒーとか、ウイスキーのコマーシャルなんかに出てきそうな。そう連想するのが先か、不器用な愛想笑いを浮かべるのが先か。足の裏が玄関マットを踏み締めたことを自覚した時にはもう、その整体院に足を踏み入れているのだった。


 問診票をそこそこに記入して、勧められた診察台の上に身体を横たえる。こんな時間に予定外の整体なんかに立ち寄って一体何をしているんだろうと自問する間もなく薄手のタオルが背中に広げられ、程なく施術が開始される。

 硬いベッドの上に伏せた格好のままで数秒後、私は思わず目をかっ開き、そしてうっとりとろんと瞼を下ろす。心地良かった。指の圧そのものが、それのかかる場所が、的確な施術が。

 まるで宇宙に放り出されたように手脚が脱力し、血流の滞っているらしいポイントを明確に刺激されて、身体の中を温かなものが駆け廻る。

 私の身体はほぐされ、伸ばされ、あちらこちらを細々と調整され、板と槌でこつこつ繊細に整えられていく。

 整体、とは言うけれど、体が整うってこういう事なのかと思う。トクトクと心臓が軽快なリズムを刻み、筋肉は柔らかくしなやかに弾み、呼気は丸く滑らかに体内を循環し、血液が温かな熱を身体の隅々まで巡らせながら身体を包み込む。

「凝ってますね」

「……そうだと思います」

「こうやってほぐしていくとね、身体が本来あるべき形を取り戻すんですよ」

「本来……」

「そうです」

 分かったような分からないような気持ちで聞きながら、それでもいいやと思う。自分の身体が解き放たれて、静かに、でも確実に変えられていくのを感じる。

 そうだ、むしろ生まれ変わったんだ。そんな風に感じた。衝撃だった。

 ——革命だった。


 あくる朝から、私の身体はどんどんと活気を取り戻していった。筋肉はバネのようにしなり、肌は生まれたばかりを思わせる新鮮さ、関節は健やかに保たれて思い浮かべた通りの心地良い動きを実現する。

「身体が隅々まで夢のように楽だ!」

 歓喜した私は整体院に通い詰めた。予約は常にいっぱいだったけれど、その週のどこかの曜日になんとか予定をねじ込んで、一週間をワクワクして過ごし、仕事が終わると一目散に駆け込んだ。通えば通うほど身体は解放されていき、痛みや軋みからは遠のいていくのだった。


 その晩、いつものように整体院を訪れると、施術を終えた男が「実は」と声を落とした。聞けば、現在の地では施術している患者が皆とてもしまいこれ以上の整体を必要としないため、店を畳んで新たな場所で開院することになったのだと言う。

「残念です」

 もちろん本心からそう思ったし、だからそう答えた。けれど実のところ私の身体も既にとんでもなく健やかな状態にいたので、もうこれ以上の施術は意味がないのではと感じ始めていた所でもあった。

 男に礼を言って整体院を出た。背後で扉の閉まる音がして、振り返ると、整体院の灯りは跡形もなく消されていた。さようなら。そして、ありがとう。心の中でもう一度礼を言うと前を向いて歩き出した。


 翌朝からも身体は絶好調に整っている。思うままに動くしなやかで健やかな身体はまるで疲れることを知らない。何でも出来る。何でもしたい。

 調子の良い身体を持て余した私は、仕事を終えてからスポーツジムに通うようになる。それでも飽きたらず休日はサークル活動に精を出す。バスケットボール、バレーボール、スカッシュ、ヨガ、ボルタリング、パルクール、富士登山。何でも出来る。どれだけ動こうが疲れない。身体が疲れを感じない。どこまででも行ける。まるで私が私ではないみたいだ。次は何をしようか。何をすれば良いだろうか。私は常に何かを探し求めるようになる。


 ある晩、懐かしい夢を見た。ベンチに座り込む夢だった。もうヘトヘトに疲れて、どことは言えないほど全体的に身体が重くて、何をするのも億劫で、何処へも行きたくなくて座り込む。木製のベンチはひんやりと心地よく、身体に籠った熱源を吸い取ってくれるかのようだ。疲れた。肩が痛い背中が痛い脚が浮腫む胃がすくむ。

 目が覚めると頬を涙が伝っている。

 身体は相変わらず快調で、起き抜けからフルマラソンして走り高跳びでゴール、そのままエベレストに弾丸登山しても差し支えなさそうな程に整っている。それなのにこの涙は何だ。どれだけ動こうが疲れないし何処もかしこも痛まない。快適すぎるほどに快適で、それは疲れた身体を引き摺りながら望んでいた状態のはずなのに。でもこれは、本当の本当に私の身体なのか。

 壁に立てかけたサーフボードが目に入り、思わずそれを抱えて走り出す。海だ。海へ行こう。今日はどこまででも波に乗ってやろう。もう二度と味わうことの出来ない疲労感のことを想って、私は呆然と涙を流しながら、海を目指して走り続けた。

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