第3話 気にしない幼なじみ

 クラスメイトたちの視線から逃げるように、僕とユキは教室を飛び出し、階段を駆け上がっていった。


 屋上の手前にある踊り場で、ユキは周りを窺いながらシャツの背中をめくり上げる。


「よし、誰もいねーな。ハル、頼む」

「仕方ないなぁ」


 幼なじみのわがままに付き合うことぐらい、僕にとっては日常茶飯事だ。

 たとえそれが、ブラ外しの手伝いとかいう意味不明な行為だったとしても。


「……どした? 早くしてくれよ」


 視界を占領する白い背中に気後れを覚えつつ、僕はブラホックへ手を伸ばす。

 ふと、レモンとミルクの混じったような甘い香りが鼻先を掠めた。そのはずみで、狙いを外れた僕の指先が滑らかな肌に触れる。


「ん……っ」


 かすかに漏れたユキの声を、僕は聞かなかったふりをしたまま金具を外し終えた。

 ほんの数秒の出来事が、その何十倍もの余韻を僕の五感に残していた。


「いやー助かったわ。一人じゃ上手く外せなくてよ」


 背中越しでないユキの声が、僕を現実に立ち戻らせる。


「慣れるまでは大変そうだね」

「まあな。姉ちゃんには『家の外ぐらい我慢して着けとけ』って言われたんだけど、違和感半端なくてよー。午後までもたなかったわ」


 ユキは笑い混じりにバッグを開けて、中にブラを放り込む。さらには同じ手で弁当箱を取り出し、何食わぬ顔で昼食に取りかかろうとしていた。


 相変わらずの無頓着ぶりに、僕は思わず苦笑いしてしまう。女になってもやっぱりユキはユキのままだ。


「さすがに授業前には着け直すよね? そのままじゃ透けたりとか色々……」

「キャミ着てるし大丈夫じゃね? 家でも別に気になんねーし」


 気にするのはお前じゃない――たしなめようとした僕に、ユキからの先制攻撃。


「もしかしてハル、俺の気になる?」

「……! いや、そんな……」

「だよなー。こんなぺったんじゃ物足りねーよな」


 ユキは勝手に納得して弁当を食べ始めている。動揺した僕が馬鹿みたいだ。せめて何か言い返したかったけど、ろくな言葉が浮かばない。


「大きさは問題じゃない……と思う」

「他人事だと思ってよく言うぜ。しっかし神様のヤローも気が利かねーよな。どうせならもっと大盛りサービスしやがれってんだ」


 ひとしきり愚痴った後、ユキは再びご飯をかき込んでいた。


 僕も思い出したように自分の弁当を広げる。ただでさえユキより食べる速度が遅いんだし、ぐずぐすしていられない。


 しばらくは黙って食事に集中していた僕だったが、ふとユキの箸が止まっているのに気づいた。

 大きな弁当箱の中身は、四分の一ほどが手つかずのままだった。


「おっかしーな……女になって胃袋縮んじまったのかな」


 ユキは小さくつぶやいた後、苦しげに息を吐き出す。

 あの夜を境に一回り細くなった二の腕が、狭くなった肩幅が、うつむき加減な眼差しが、僕には心なしか寂しげに見えた。


 守ってあげたい――一瞬でもそんなことを思ってしまった自分を殴りたくなる。ユキが女になった途端、さも自分が男らしくなったかのように錯覚するなんて。


「ハル、そんな顔すんなって。落ち込んでるわけじゃねーから。逆に燃費良くなって助かるわー」


 眉尻を下げて笑うユキが、僕にはまぶしく見えた。


「ユキはすごいね。こんな大変な目に遭ってるのに、取り乱したりしないで今の自分を受け入れようとしてるんだもの」


 大げさな言い回しかとも思ったけど、不思議と気恥ずかしさはなかった。それが僕の正直な気持ちだったから。


 ユキが僕に返したのも、同じように素直な言葉だったはずなのに――


「ハルのおかげかもな。お前が今までどおり接してくれるから、俺も俺のままでいられるっつーかさ」

「……今までどおり……」


 思いがけずも、それは僕にとって呪いに等しかった。

 ユキが自分を見失わずにいられるのは、ユキが男だった頃と同じように僕が接しているから。


 もしも今後、僕がユキへの態度を変えてしまったとしたら。


 考えたくはなかった。

 だから僕は、何よりもユキと親友でい続けることを優先すると決めた。


 あの日、待ち合わせしたカフェで鎮痛剤を渡したときもそうだった。

 この気持ちは友情なんだって、自分に言い聞かせていたんだ。


 それなのに、ユキって奴は――



  *



 休み時間の喧騒を静まり返らせるのは、いつだってあいつだ。


「ハルー、今度デートしようぜ! こないだのリベンジな!」

「だから教室で言わないでってば!」


 ユキがユキである限り、僕はこの悩みから逃げられそうにないみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る