神能人離エール

れあ

1話:奇妙な出会い

 不幸は人生のスパイスだって、誰かが言っていた。

 一振りかければコク深く、濃厚なうまみに変わる――らしい。

 けれど僕にとって、それはまやかしだ。

『さあお食べ』と出されたのは、ドラム缶いっぱいの不幸スープ。

 それを毎日、浴びるほど飲まされている。

 ……おかげで、お腹はもうたぷたぷだ。


「わんっ!」

「う、うわああっ!」


 住宅街。両脇をコンクリート塀に囲まれた細い道を、僕は必死に駆け抜けていた。

 背後を振り返れば、体長三十センチはある黒と茶の犬が尻尾をブンブン振りながら、こちらを執拗に追いかけてくる。


「ぜぇ……ぜぇ……!」

「わんっ! わんわんっ!」

「や、やめろっ! くるな、あっちいけ!」


 息も絶え絶えになりながら、それでも一生懸命走った。

 捕まれば一巻の終わり。

 必死の逃走劇の最中、視界に高層マンションが映った――僕の家だ。

 あそこまでたどり着ければ……!


「わんっ!」

「あと五十メートル……もらった!」


 勝利を確信した瞬間――足が浮いた。

 頭の中が真っ白になる。

 そして最後に聞こえたのは、カランッという軽い金属音だった。


「ぐはっ!」


 後頭部に衝撃。世界がぐるりと回る。

 放り出された視界の端で、宙を舞うアルミ缶。

 ……ああ、僕はそれで滑ったのか。


 そんなバカみたいな事実に、なぜか笑いが込み上げた。

 缶で滑って転ぶ高校生がどこにいる?

 

 ……ここにいた。


 ひとしきり回転した缶は、ゆっくりと落ちてきて――


「いてっ!」


 頭に直撃した。


「いっ、痛ぇ……」


 額を押さえながら上体を起こす。

 缶で滑って転び、その缶が頭に当たる。……世界広しといえど、そんな不幸、きっと僕だけだ。


「うぅ……帰ろう……」


 足を引きずりながら、なんとか八階の二号室に辿り着く。

 鍵を回し、重い体を引きずりながら中へ。


「……つぅ」


 首は痛いし腕も痛い。体を支えるのがやっとだ。

 部屋の中は、沈む夕日が橙色に染めていた。


 扉を入ってすぐにキッチン。

 ステンレスのシンク、その奥に一人暮らし用の小さな冷蔵庫。

 右手には八畳ほどの居間。黄色い水玉の絨毯とローテーブル。

 ……これでも一応、インテリアには気を遣っている。


 ふと、冷蔵庫の方を見て――違和感に気づく。


 ……ん?

 冷蔵庫、開いてないか?


「な、なんで開いてるんだ……」


 身に覚えがない。

 僕は毎朝、戸締まりも電気もきっちり確認してから出ていくタイプだ。

 空き巣? まさか。

 いや、でも開いてる……。


 恐る恐る部屋の電気を点ける。

 明るくなった室内で、僕の目がシンクに止まった。


 ファミリーサイズのアイスのカップ。

 食べた覚えは、ない。

 中を覗くと――溶けたチョコアイスの海で、何かが泳いでいた。


「んー、やっぱりアイスは、ばにらよりもちょこなのですー。

まったく、ばにらなんて買うこの住人、センスがないのですよ」


 小さな何かが、アイスの海でぷかぷかと浮かびながら喋っていたのだ。


 ……夢じゃないよな?

 僕は無言でそれをつまみ上げる。


「……にゅ?」


 出てきたのは――手のひらサイズの女の子だった。

 透き通る羽を持った、まるで妖精のような小さな存在。


「あ、アイスごちそうさまですー」


 女の子がそう言った瞬間、僕の思考は一瞬フリーズした。


「……」

「……にゅ?」


 無言のまま、僕はそのまま脱衣所へ向かった。


 洗面器にお湯をためる。


 つまんだままの妖精をそこへ――ドボン。


「ぶふっ! ぶくぶく……おぼれるのですー! でずー!」


 必死にバタつく小さな手足。

 けれど僕は二十秒ほど、完全に無心で湯に浸け続けた。


「ぷはーっ! 殺す気ですか、あなたはっ!」

「……いや、だってさ。人の家で勝手にアイス食べてるうえに、妖精サイズの生物とか。見なかったことにしたいじゃん?」

「むうーっ! 私はカンカンなのですよ! ぷんすかっ!」


 まさかのセルフ効果音。怒り方まで独特だった。


「私は今すごーく機嫌が悪いのです!」

「……機嫌が悪いのはこっちだよ」

「私を怒らせると大変、ひじょーに怖いのですよ! えっへん!」


 腰に手を当て、どや顔で胸を反らす小さな女の子。


「何を隠そう、私はエールなのです! 神様の証を持つ、神様そのものなのです!」

「……はい?」


 ああもうダメだ。頭がおかしくなったかもしれない。


「あれ? 驚かないのですか? もっと“えっ、神様!?”ってリアクションを期待してたのです!」

「いや、無理でしょ。状況がもうキャパオーバーだよ」


 僕が冷静に突っ込むと、エールは『ちぇっ』と頬を膨らませ、

 わざとらしく肩を落とした。


「せっかく不幸なあなたの願いを叶えてあげようと思って、天から舞い降りてきたのに……」

「……え、今なんて?」

「だからっ、不幸続きのあなたを幸運な未来へ導くように、もっと偉い神様から頼まれたのです!」


 僕の呼吸が止まった。


「……願いって、なんでも叶えてくれるの?」

「はいっ! なんでもいいのです!」


 その目は真剣そのものだった。

 不幸続きの僕に訪れた、奇跡のチャンス。

 ごくりと唾を飲み込んで、僕は一歩踏み出す。


「じゃ、じゃあ……恋を実らせることも?」

「私に不可能はないのです!」


 期待が、爆発した。


「んん? 恋をしてるのですか?」

「う、うん。まあね」

「どんな子ですかー!」

「……すっごく、いい子なんだ」


 彼女の名は――東雲七しののめ ななさん。

 クラスの人気者で、明るくて優しくて、誰からも好かれる天使みたいな人。

 僕は、いつも遠くから眺めているだけだった。


 そんな彼女が、ある日僕にノートを貸してくれた。一ページを破り、にこりと差し出す。

 それだけの出来事で、世界が色づいた。

 手渡された紙の端を、いまだに財布に挟んでるほどだ。


「えへへへへ」

「うわ、気持ち悪いのです。にやにや顔で妄想してるのです!」

「ちょっ……! 違っ……!」

「やっぱりばにらを買うセンスなし住人は、恋のセンスもなしなのです!」

「アイスは関係ないだろ!」


 僕が全力で抗議する中、エールはふんぞり返って胸を張る。


「まかせるのです! 私はこれまで幾人もの恋を叶えてきた、通称“恋のキューピッド”なのですよ!」

「そんな神様、信用していいのかな……」


 エールは得意げに笑うと、冷蔵庫へスタスタと歩いていった。

 ペットボトルを両腕で抱えて取り出すと、そのままごくごくと乳酸飲料を飲み始める。


「それ、僕の……」

「細かいことは気にしないのです! これも報酬だと思えば安いのです!」

「神様って、倫理とかないの?」

「んぐんぐ……ぷはぁっ。ないのです!」


 あっけらかんと答えるエール。

 僕はもう疲れてきた。


「さて! 恋のお願いを成就させますか!」

「ほ、本当にできるの!? どうやって!?」


「ふっふっふ……聞いて驚くのです!」


 ババンッ! ――セルフ効果音がまた入る。


「人の身を“離れ”、神の“能力”を借りる――『神能人離じんのうじんり』の使い手なのです!」

「じんのう……じんり……?」

「そう! 簡単に言うと、神様レンタルサービスなのです!」

「雑!?」


 エールは詐欺師もびっくりな含み笑いした。


「ふっふっふ〜、私が担当するからには運気爆上がりなのです!」


 指を突きつけ、どこか通販番組の司会者みたいなテンションで叫ぶ。


「今ならなんと! あなたも独り身知らず! 恋愛神一柱おまけなのです!」

「すごーい。うさんくさーい」

「……スパンッ!!」


『ぶふっ!?』

 顔面に炸裂した金ぴかのハリセン。

 どこから出した、それ。反射的に頬を押さえる。

 じんじんと熱が広がるのがわかる。


「うさんくさいとはなんなのですか! ぷんすか! ぷんすかなのですよ!」


 腕をぶんぶん振って抗議するエールは、まるで駄々をこねる子供。

 痛みよりも、その必死な様子に思わず苦笑がこぼれた。


「ご、ごめんなひゃぃ……」


 ああもう、完全に主導権を握られている。


 そういえば、とエールが思い出したように僕の名前を尋ねた。

 僕は『薄幸すすき こう』と名乗る。

 案の定、笑われた。


「名前からして不幸なのです! あははは!」


 ……その通りだから何も言えない。


 けれど今はそれよりも――

 明日、彼女の力で東雲さんに告白する。

 神様がついてるなら、うまくいく……はず。


『神に不可能はない』って、そう言ってたもんな。


そう意気込んでいる僕の耳に、か細い声が届いた。

(……実は迷子になっただなんて、言えないですう)


……気のせいだよな。

うん、気のせいってことにしておこう。

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