お休み前に読む、胸キュン短編集
ぷにこ
背中の温度
私は今日という日を忘れないだろう。
嬉しくて、恥ずかしくて、痛くて、そして、どうしようもなく、幸せだった日。
この、冬の日を――
「……ねえ、レン。ちょっと待ってよ」
「待ってる」
「待ってない! ぜんっぜん待ってないじゃん! 歩くの早い!」
私の抗議の声なんて、目の前を二歩先で歩く背中には届かない。
―― 私の幼馴染。
少し癖のある黒髪も、ランドセルを背負っていた頃は私より小さかったはずなのに、今は見上げるほど高くなった身長も、冬の寒さですら跳ね返してしまいそうな、ぶっきらぼうな横顔も。
全部、その全部が――私が好きな人。
冬枯れの通学路は、吐く息が白く染まるほど冷えている。
西の空には、私達と同じように帰路に着く太陽が、茜色と群青色のグラデーションを描き始めていた。
私、
(なんで、私だけこんなに必死なの……っ)
中学二年生。世間では「中二病」とかいう不名誉な称号が与えられるお年頃だけど、私にとっては「恋わずらい」の真っただ中だ。
あと数センチ。
少し手を伸ばせば届くはずのその距離が、縮まらない。
「れ、レン、今日の手袋、新しいんだ。可愛い……くない?」
「……知らねえよ」
「フン、ですよね!」
やはり空振り。
ちらりと見せたのは、お小遣いをためて買った、雪の結晶の刺繍が入った水色の手袋。
レンの好きな色だ。「似合う」とか、せめて「ふーん」くらいは言ってほしかったのに。
そもそも、レンは私の「好き」に気づいてすらくれない。
今日の私は、いつもと違う。「学校の帰り道」を「デート(仮)」にするために、綿密な(?)計画を立ててきたんだ。
「幼馴染の壁、突破作戦」
最終目標は、告白……なんてハードルは高すぎる。まずは「触れる」こと。
例えば、並んで歩く。
例えば、偶然を装って手が触れ合う。
例えば、「寒いね」って言って、レンのコートの袖をちょっとだけ掴んでみるとか。
(できるわけない……!)
想像しただけで顔に熱が集まる。
マフラーに顔をうずめても、冷たい空気が頬の熱を冷ましてくれない。
レンは、昔からこうだ。
そっけなくて、無愛想で、私が話しかけてもスマホをいじってるか、前を向いてるか。
でも、私は知ってる。
小学生の時、私が飼ってたインコが死んじゃって泣いてたら、何も言わずに隣に座って、夜まで一緒にいてくれたこと。
文化祭の準備で私が脚立から落ちそうになった時、誰より早く支えてくれたこと。
(その時も「ドジ」としか言われなかったけど!)
優しいくせに、不器用すぎるのだ。
だから、私から行かないと。
「……あ!」
私はわざとらしく、大きな声を出した。
レンの歩みが、やっと止まる。怪訝そうな顔でこっちを振り返った。
「なんだよ、うるせえな」
「い、石! 今、変な石につまずきそうに……あ、危なかったー」
「……そう、か」
白々しい。白々しすぎる、私。
レンは興味を失ったように、また前を向いて歩き出そうとする。
―― 待って、行かないで!
無意識だった。
歩き出そうとするレンのスクールコートの、その裾を――
指先が触れた。
ほんの、一瞬。
レンの体が、ピタリと止まる。
「……え?」
「……」
レンがゆっくりと振り返る。
その目が、驚いたように、少しだけ見開かれていた。
まずい。
何を考えてるか分からない、その目が怖い。
「何してんだよ」って、言われる? 軽蔑、される?
「……あ、あの、これは、その、レンのマフラーが、ちょっと、曲がってる、かなって!」
自分でも意味不明な言い訳を口走った瞬間。
――ガッ。
焦った私は、自分の足をもつれさせた。
視界が、ぐにゃりと傾く。
スローモーションの中で、レンが目を見開いて、手を伸ばすのが見えた。
でも、間に合わなかった。
冷たく刺さるような痛み――
私はアスファルトに手と膝を強く打ち付けていた。
「……いっ」
ジンジンと、残った痛みは鈍く骨の芯まで響く。
「おい、柚希! 大丈夫か!?」
慌てたレンの声が、頭の上から降ってくる。
大丈夫なわけ、ない。
破れた黒タイツ。
その下から、じわりと血が滲む膝。
さっき買ったばかりの手袋も、手のひらの部分が灰色に汚れて、擦り切れていた。
でも、一番痛いのは、膝じゃなかった。
もちろん手でもない。
(最悪だ)
なんで、私はこうなんだろう。
ちょっと触れたかっただけなのに。
ちょっと、意識してほしかっただけなのに。
結局、いつも空回り。
レンの前で、一番見せたくなかった。
こんな、格好悪いところ。
みじめで、恥ずかしくて、痛くて。
ぐっと唇を噛んだけど、無駄だった。
目頭が熱く、じんわりと目の前の景色が滲んでいく。
ぽたり――
アスファルトに、涙が落ちた。
「……泣くなよ」
「な、泣いて、ない……っ」
「泣いてるだろ」
レンが私の前にしゃがみ込む。その手が、私の頭に伸びてきて――。
優しく、しないで。
今、優しくされたら、止まらなくなる。
「ご、ごめん、レン。先、帰ってて。私、すぐ、行くから……っ」
「…… アホか。その足でどうやって行くんだよ」
呆れたような、ため息。
ああ、まただ。
私、またレンに迷惑かけてる。
俯いたままの私の前で、レンは何も言わずに背中を向けた。
「……え?」
「……乗れ」
「……へ?」
「いいから、乗れ。遅くなる」
え、乗れって。
え、おんぶ?
あの、レンが―― 私を?
呆然とする私を無視して、レンはもう一度、苛立ったように言った。
「早くしろ。寒い」
言われるがまま、私はおそるおそるレンの背中に体を預けた。
汚れた手袋で、レンの肩を掴む。
「……行くぞ」
「よいしょ」なんて掛け声もなく、レンは私を軽々と背負い、立ち上がった。
視界が、ぐっと高くなる。
(うわ……)
想像していたよりも、ずっと―― レンの背中は、広くて、大きくて、がっしりしていた。
首筋が、近い。
冬の冷たい空気の中に、レンの匂い……いつも使ってる、シャンプーの石鹸みたいな匂いが混じる。
私を背負う腕に、ぎゅっと力がこもっているのが分かる。
さっきまでの膝の痛みも、恥ずかしさも、全部どこかへ飛んでいってしまっていた。
胸が…… 心臓が、痛いくらい締め付けられる。
トクン、トクン。
レンの歩くリズムに合わせて、体が揺れる。
この鼓動、聞こえちゃったら、どうしよう。
「……レン、ごめんね」
「何がだよ」
「いつも迷惑かけて――」
「…… かけられた覚えなんてねぇよ」
ぶっきらぼうな口調は、いつもと同じ。
でも、耳が。
レンの耳が、夕焼けみたいに、真っ赤に染まっているのを、私は見逃さなかった。
ああ、なんだ。
レンも、緊張、してくれてるの?
嬉しくて、安心したら、また。
さっきとは違う種類の涙が、こみ上げてきた。
レンの背中に、制服の肩に、顔をうずめる。
冷たいマフラー越しに、レンの体温が伝わってくる。
―― あったかい。
このまま、時間が止まればいいのに……
ずっと…… ずっと、こうしていたい。
言葉は——
勝手にこぼれ落ちていた。
それは、告白なんて立派なものじゃなく、ただの本音だった。
「……好き」
消え入りそうな、小さな声。
(—— ヤバッ!)
思わず漏れ出た言葉に、一気に血の気が引いた。
変に思われたら――
身勝手なヤツだと思われたら――
レンに嫌われたら――
私たちの間には沈黙が流れ、しかし、レンの歩みは止まらなかった。
きっと、レンの耳に届かなかったのだろう。
大きな安堵と、小さな胸の痛み。
遠くの山並みの向こうに、夕日が沈みかけていた。
ザッ、ザッ、ザッ―—
学生靴の靴底がアスファルトを打つ音が響く。
レンの身体に、少し力が入った気がした。
そして——
「…… 俺もだよ」
冬の空に染み通るような声。
その空の色は変わり、煌めく星が瞬き始めていた。
― Fin —
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