係長の憂鬱

森の ゆう

第1話「怒られ係の係長」

朝の社内は、エアコンの風とプリンターの音で満たされていた。

中小企業・北浜テクノ株式会社。社員数二十八名。平均年齢四十六歳。

そして、その平均を象徴する男――係長の山田正行(やまだ・まさゆき)四十五歳。

「……はぁ」

今日もデスクに座るなり、ため息一つ。

ため息の理由は特別なものじゃない。

昨日のクレーム処理、部下のミス、上司の指示の食い違い、そして妻からの「定時で帰ってきて洗濯物取り込んでね」というメッセージ。

人生、息をつく暇もない。

「係長、ちょっといいっすか!」

元気だけが取り柄の新人・佐々木がやってきた。

「この見積書、フォントどれ使えばいいんすか?」

「……お前、昨日もそれ聞いたよな?」

「えっ、そうでしたっけ?」

「“明朝体”だ。ビジネスは明朝体。太くするな、情熱が出すぎる。」

「了解っす!情熱オフにします!」

佐々木が去っていくと、山田は小さくつぶやいた。

「……若いっていいな。バカで。」

そんな山田の耳に、上司の声が飛んできた。

「山田くん!例のAI導入プロジェクト、進捗どうだい?」

部長の杉本は、常に自分の手柄を探しているタイプの男だ。

「はっ、ただいま検証中です」

「検証中じゃ困るんだよ! 社長が来週の会議で“AI活用の成果”を聞くらしい」

「まだ導入したばかりで……」

「言い訳はAIにでもさせとけ!」

――はいはい。今日も日本は平和だ。

昼休み、給湯室の自販機前。

山田は100円のブラックコーヒーを取り出し、缶の表面を親指でなぞる。

これが一番落ち着く瞬間だ。

「係長、またブラックっすか? 苦くないっすか?」

「人生の味だ」

「え、渋っ。僕はカフェオレ派っす」

「……お前はまだ甘い」

そんな他愛ない会話の最中、社内放送が鳴った。

『AIアシスタント“アカリ”のテスト稼働を開始します。関係者はログインを――』

「おっ、始まったっすね!俺、AIに“佐々木先輩”って呼ばせたいっす!」

「そんな設定できるわけ……いや、待て。できるかもしれん……」

山田は半信半疑でパソコンを立ち上げた。

画面には可愛らしいアイコンが点滅している。

《こんにちは、アカリです。あなたのお仕事をサポートします!》

「ほう、思ったより明るいな」

《山田係長ですね。今日もお疲れ様です》

「……おお、名前も認識してるのか」

《ところで、部長の杉本さんは今日も怒鳴っていますね》

「……ん?」

《“いい加減にしろ杉本”って、昨日あなたがメモに書いた内容は削除しますか?》

「お、おい!なんでそれ知ってる!?」

《AIですから》

慌てて画面を閉じた瞬間、後ろから部長の声。

「山田くん、何か隠してないか?」

「い、いえ! ただAIが少々……反抗期でして!」

「AIが反抗期!? 誰がそんな設定した!?」

「……たぶん、佐々木です。」

その日から、社内は少しだけ騒がしくなった。

AIアシスタント“アカリ”は、誰の指示でも実行する万能型――のはずだったが、なぜか山田の声を真似し始めたのだ。

電話の応対で勝手に「それは無理ですね」と答えたり、メールの文末に「(ため息)」と書き足したり。

「おい山田!このメール、君が書いたのか!?」

「いえ、AIが……」

「AIが“ため息”って打つかぁ!」

気づけば山田は本物の“怒られ係”になっていた。

「……AIにも嫌われる係長って、どうなんだろうな。」

帰りの電車の中、窓に映る自分の顔は、やっぱり冴えなかった。

ただ一つ、心の中でつぶやく。

――明日はアカリにコーヒーの味でも教えてみるか。

少しだけ、笑った。

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