藤崎自動車工場
ちくわぶ。
第1話
『八尾ライン』
朝七時。
スマホのアラームを止めた。
カーテンの隙間から、薄い光が部屋に差し込む。
天井を見つめたまま、三分ほど動かない。
隣の部屋から、台所の音がする。
母親が味噌汁を温めているらしい。
それでようやく、今日も同じ一日が始まったことを思い出す。
洗面所の鏡に映る顔は、どこにでもいる二十八歳。
髭を指でなぞって、剃る気も起きないまま顔を洗う。
冷たい水で、ようやく現実に戻る。
玄関で安全靴を履きながら、エナジードリンクの缶を開ける。
炭酸が喉に刺さる。
朝飯代わり。これで目が覚める。
外に出ると、曇っていた。
冷たい空気と、道路のアスファルトのにおい。
自転車をこぎながら、信号に引っかかるたびにトラックの列に挟まれる。
朝からみんな忙しそうだ。
七時五十分、八尾の藤崎自動車部品に着く。
正門の前で軽く伸びをして、いつものようにタイムカードを押す。
ピッという音。油のにおい。鉄の擦れる音。
これが毎朝の“日常の音”だ。
更衣室で作業着に着替える。
誰も喋らない。
ラジオのニュースと、古い蛍光灯の音だけが響く。
黙って靴ひもを結ぶ。
顔を上げると、窓の外の空が少し明るくなっていた。
八時十五分、朝礼。
工場長が言う。
「安全第一で、今日も頼むで」
みんな「はい」と言うけど、声に力はない。
俺も、口だけ動かす。
八時半、始業ベル。
フォークリフトに乗る。
キーを回す音、バックの警告音、金属が擦れる音。
耳に馴染んだ音ばかりだ。
午前中はひたすら部品を運ぶ。
エンジンのカバー、ブレーキ部品、ダンボール。
同じものを何度も積んで、何度も降ろす。
考えることはほとんどない。
ただ動いてるだけで、時間が過ぎていく。
十時を過ぎた頃、現場主任が声をかけてきた。
「佐藤くん、来週の週、夜勤入ってくれるか?」
一瞬、息が止まった。
嫌や、って言葉が喉まで出かけたけど、飲み込んだ。
「……ああ、はい」
主任が笑って、「助かるわ」と言った。
それで終わり。
フォークリフトを動かしながら、胸の奥が重く沈んでいくのを感じた。
断ったら、嫌な奴みたいになる。
でも、引き受けても別に誰も褒めてくれへん。
そんなことばっかりや。
昼になった。
休憩室のテレビでは、芸人が大声を出して笑っている。
おにぎりをひとつ。
緑茶で流し込む。
何年も同じ昼飯。
となりのベトナム人実習生が、「サトウさん、きょうアツイ」と笑った。
「せやな」
それだけ言って、窓の外を見た。曇り空。
午後は眠気との戦い。
単調な作業が続く。
別のラインでは、機械のトラブルが起きていた。
怒鳴り声が少し聞こえる。
でも、こっちの仕事は止まらない。
午後三時半。
コーヒーの自販機の前で、先輩がため息をついた。
「ほんま、辞めたいわ」
「っすね」
それで会話は終わる。
五時。終業ベル。
リフトのキーを抜く。
手袋を外すと、油のにおいが手に染みている。
タイムカードを押して、ロッカーを閉める。
「おつかれっした」
誰かが言う。
それに続けて、小さく「おつかれ」と返した。
外に出ると、もう薄暗かった。
空は鈍い灰色。
どこからか焼き魚のにおいがして、腹が鳴る。
自転車をこいで帰る途中、コンビニに寄る。
ペットボトルのお茶と、安い総菜。
レジの店員が「温めますか?」と聞く。
「そのままで」
いつも通りの答え。
家に帰ると、母親がテレビを見ていた。
「今日も遅かったな」
「うん」
その一言だけ。
電子レンジが動き出す音と、テレビの笑い声。
それがこの家の夜の音。
風呂に入って、布団に倒れ込む。
SNSを少し見て、特に何も感じずにスマホを置く。
眠くなったら、目を閉じる。
それで一日が終わる。
また、同じ朝が来る。
それでも、仕事には行く。
別に好きじゃないけど、嫌いでもない。
ただ、生きてるだけや。
そんなもんやと思う。
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