第37話
鋭く美しい白銀の刃は、持ち主の意志に応え、見事戦いを終わりへと導いた。胴体を斬られたゲニラは、完全に動かなくなった。
終わってみれば、直前の脅威も過去のもの。今、この場には、穏やかな風と、やさしい月明かり。これを実感するには、もう少しだけ無言で空を見上げる必要があった。
静寂の中、イチタはリュドに尋ねる。
「リュドさん。体は大丈夫ですか?」
「ああ。幸い、持っていた解毒剤が効いたようだ」
「それはよかったです」
二人の会話を追うように、ガドロックが口を開いた。
「それにしても、本当にオレの出番は来なかったな」
中盤以降、戦いに参加できずに終わったことが、どうにも心残りのようにガドロックは言う。
「まぁでも、最後だけですし……」
「あともう一発……いや、もう二発コイツをぶん殴ってやりたい気持ちはあったが……」
「勝てたんだから良いじゃない。ガドちゃん」
「そうか? まぁ……そうだな」
イチタはここで、気になっていたことをセリカに尋ねる。
「なぁ、セリカ。その、ガドちゃんってのは……何なんだ?」
「え? う~ん……なんだろ?」
「何だろって……ふぅ、まぁいいか」
こんな他愛もないやり取りですら、今はとても愛おしい。会話に花を咲かせていると、奥で休んでいたミーネアも戻ってきた。
「おっ来た来た。大丈夫か? ネアちゃん」
「あまり良いとは言えないが、ここでのんびりしてる訳にもいかないのでな」
「無理すんなよ。今回はすごい頑張ったんだし。ネアちゃんも、帰ったらちゃんと休もうな」
「ねぇ、イチタ」
「うん?」
「ネアちゃんって……なに?」
「え?」
事の元凶を打ち破り、一件落着……と、いきたいところだが。まだ一つだけ残っている。目の前にある巨大な繭。コイツをどうするかだが……こんなもの、扱い方なんて分かるはずない。じっくりと観察に観察を重ねた結果、リュドは口を開く。
「ひとまず、下手に刺激を加えるのだけはよそう。今のところは大人しくしているからな。一度撤退して、後は宮殿の魔術師に任せるのが無難だろう。これらを生み出しているのが、魔術の類ではない可能性もあるが……こればかりはどうにも言えんな」
「ヘっ。オレたちが殴れば、そのまま叩き起こしちまうかもしれねぇしな」
「だが、あまり時間は残されてはいない。それに、王都の方も心配だ。急いで帰還するぞ」
リュドの判断に、全員は静かに頷いた。
禁足地での調査はこれにて終了。魔物もいずれ、沈静化するだろう。これで、王都に平穏が訪れる。
その……はずなのに……。
この心はどうして、こんなにもざわめいているんだ……?
何か……何か、重要なことを見逃しているような、そんな感覚。
いや、そんなものあるはずがない。確かに、後ろの繭は気になる。あれは早急に対処しなくてはならない。けど、今の自分たちにはアレをどうにかする手立てはない。ガドロックの言う通り、むやみに破壊しようとすれば、その刺激で覚醒することもあり得る。こういう時だからこそ、慎重にいくんだ。
それより、このざわめきが意味しているものは、もっと別の何か。何か、予期せぬ脅威が迫っている。放置すれば、取り返しがつかないと、心が自分に訴える。けど、イチタにはそれが何なのか分からない。
後ろ髪を引かれる気分のまま、イチタは皆と共にこの場を離れた。
ただ、この気持ちを誰かと共有したい。珍しく、そんな感情が芽生え、口を開いた。
「あの、リュドさ……」
ーードスッ。
探る必要などなかった。心のざわめきの正体は、自ら目の前に現れる。
リュドの体からポタポタと血が地面に流れる。彼の胸部から突き出た、長く鋭い爪。それは彼の心臓付近を貫き、そばにいたイチタたちの心を凍りつかせた
理解するのに、数秒の時間を要した。だが、次第にそれが取り返しのつかぬ事態であると気づいたとき、胸の奥から悲痛の叫びがあふれ出る。
「リュ、リュドさんっっ!!!」
「ゴフッ……」
リュドは一点を見つめたまま、口から大量の血を吐き出した。それから間もなくして、爪はズルリと彼の体から引き抜かれる。リュドは力なくその場で倒れた。爪から続く、長い腕をたどって犯人を突き止める。
案の定、腕は倒したはずのゲニラから伸びていた。それも、彼を貫いたその一本だけ。わずかに残った体力を絞り出して放ったのだろう。体を動かすほどの体力はもう底を尽きているようだが、奴の饒舌ぶりは顕在だ。心臓を一突きされたリュドを見て、ゲニラはひたすら嗤う。
「キュシ……キュシャシャシャシャシャッッ。やったやったやった。オイラやったよぉ! 褒めてくれる? ねぇ褒めてくれるよねぇ……こんなに頑張ったんだものねぇ。だって負けないもん。オイラ負けないもん! 嗤ってやるんだ! 最後には必ず! オイラが、このゲニラ様がっ……」
子供じみた口調で奴は自身の成果を称賛する。イチタは怒りのあまり、体を震わせた。彼の仕草に気付いたのか、ゲニラは煽り立てる。
「悔しいか? ねぇ悔しいよねぇ? そうだ! そのまま己の無力さに酔いしれるがいい!」
「このぉっ!」
イチタよりも先に、ガドロックはこれまでにない怒号を浴びせ、滾る怒りでもって奴に殴りかかる。だが、拳が届く寸前、別角度から新たな異変が起こる。
嗤う奴の背後、ここまでずっと大人しかった繭に変化が訪れる。繭の中の光が一層強まり、少女を包み込む純白の羽衣がわずかに胎動する。そして、繭の頭から徐々に亀裂が入りだした。それを見て、ゲニラは言葉、態度からすべて、陶酔の境地へと入り込む。
「ああ……お目覚めだ! 誕生する……瑠璃色の蟲姫。感動の瞬間だ!」
「な、なんだこれは……」
ガドロックは攻撃の手を止め、繭を見上げる。亀裂はさらに深く入り、ついにその中身が世界に誕生する。繭が割れる瞬間、強い光が周囲に放たれ、一瞬だけ昼が訪れた。
眩しさのあまり、イチタたちは目を瞑る。再び目を開けたとき、そこには驚きの姿が映し出された。
空を覆いつくすほどの青い羽根。羽衣のように伸びた半透明の触覚は、ヒラヒラと宙を泳ぐ。眼は青一色に染まり、体は人間をベースとしているが、ところどころ蟲の要素を形容している。これが本当にあの少女なのか?
美しさと禍々しさを併せ持つその姿。以前相対したワンピースの少女は、イチタの予想を遥かに超えた進化を遂げた。
ーーキュオオオオオオオオオオオオンッッッ。
「うっ……」
耳をつんざくような鳴き声を上げると、少女は空へと羽ばたいた。とうに人間の言葉を失ってしまった彼女にどこか悲しみを感じる。少女の飛んで行った方角を見て、イチタは何か察する。
「あっちは王都……まさか!」
それを聞き、ゲニラは笑う。
「さぁ……姫の宴が始まる。世界を彩る、開花の宴だ……もう止まらない。止められないんだよぉ……」
「気が済んだなら口を閉じろ。次はキサマの首が飛ぶ番だ」
ガドロックの宣告を耳にしても、ゲニラは余裕の表情を見せている。
「いいのかなぁ……オイラなんかに構っていて」
「何?」
「ネメフィウラは羽ばたいた。向こうで彼女が歌えば、国中に潜んだ魔物の卵が一斉に孵化する」
「なんだと……」
魔物の卵……初めて耳にしたその事実に、驚きを隠せない。
「彼女の卵は、魔を通しても感知はできん。非力なオマエたちに、一体どうやって見破ることができようか」
「こいつどこまで……」
奴の発言で、すべてが繋がった。なぜ、街中に突然魔物が現れたのか。なぜ、アスターの精鋭たちでも見つけ出すことができなかったのかを。
「だから言っただろう……もう止まらないと。そして、最後に嗤うのはオイラだと……キュシャシャシャシャシャシャッッッ!!!」
月夜に向かって笑い転げるゲニラ。すべては奴の思い通り。
悔しさをかみしめていると、セリカが前に出る。背中の剣を引き抜き、そのままスタスタと奴の元へ歩いていく。
「セリカ……」
彼女が近づいても、ゲニラは笑い続ける。
「キュシャシャシャシャシャシャ……」
ーーシュッ。
勝利の雄叫びとも言える奴の笑い声は、セリカの一太刀によって鳴り止んだ。彼女の振り払った剣先が、ゲニラの首を斬り落とす。
これで、本当に終わり。だが、もろ手を挙げて喜ぶことなどできない。イチタは振り返って、倒れたリュドの元へ駆けていく。
「団長……団長……」
リュドの手を握り、弱弱しい声で何度もその名を呼ぶミーネア。血を流す彼の瞳からは、すでに光が消えかけていた。イチタに続き、ガドロック、そしてセリカも彼の元へ集う。
集まってきた皆に、それぞれ目を配る。リュドは静かに口を開いた。
「これで……最後になる。その前に……伝えておきたい」
かすれる声で、リュドは続けた。
「ミーネア……いつも私の力になってくれてありがとう。キミが私を補佐してくれたからこそ……私はここまで来れた」
「団長……」
それを聞いて、ミーネアは声を抑えるように泣きじゃくる。
「ガドロック……団をまとめる者として、お前の奔放ぶりにはなかなかに手を焼いた。けど、そんなお前がいたからこそ、私も肩の力を抜いて調査に臨めた……感謝している」
「……」
ガドロックは腕を組み、険しくも悲しげな表情で彼の話を聞く。
「セリカ君……キミと並んで剣を振るえたこと、私は誇りに思う。本当なら、アイツにも自慢してやりたいくらいだ。キミにも深く感謝している。ありがとう」
セリカは彼の目をじっと見つめたまま、静かに頷く。最後、リュドの視線はイチタに向いた。
「イチタ君……キミの力にはいろいろと驚かされた。これまで生きてきた中で、これほど胸を打たれたものはない。キミの力があったからこそ……この戦いに勝つことができたのだ。感謝する」
「感謝しているのは俺もです。リュドさん。リュドさんが拾ってくれなければ、俺は毎夜、寒空の下で路頭に迷う羽目になってました。今の俺があるのも、リュドさんのおかげなんです。本当に、ありがとうございました」
リュドはさりげなく微笑んだ。彼の純粋な笑みを見るのは、これが初めてかもしれない。
「そうか……それは良かった。イチタ君」
「はい」
「最後に一つだけ、私の望みを聞いてもらえるかな?」
「……言ってください」
「王都を……人々を……ラスタルティアを救ってくれ。お願いだ」
「……はい、もちろんです!」
「ありがとう……。もう少し時間があれば、ユーゼット、アイシャ、ラシム、ベルファメラにもこの胸の内を伝えておきたかったが……どうやらここまでのようだ。では、皆……後は頼んだ」
そう言うと、リュドは静かに目を閉じた。
再び訪れる静寂……亡くなったリュドを前に、この場にいる全員が立ち尽くす。そんな中、ガドロックが言った。
「頼む、お前さん。奴を倒してくれ。これは、お前にしか託せない! 後の事は、オレたちがやる」
「イチタ殿……」
皆の熱い視線が、彼に注がれる。それは、カタチなき信頼の証でもあった。リュドの言葉、彼らの視線。イチタの答えは決まっている。
「もちろんです……俺は必ず、あの子を……」
「キシャアッシャッシャッシャ!」
「っ!?」
その間を打ち砕くように、視線の先に蠢く影はイチタたちを嘲笑う。眼前に映る現実は、彼らに休まる時間を与えない。
「これで終わりだと思ったかぁい? まだまだ続くさ。この途切れることのない絶望を! キシャアッ!」
「ゲニラ……」
なんと恐ろしい姿だろう……。切断された奴の首から生えた胴体は、凶悪さという点で、これまでに見たどの形態とも明確に一線を画している。
全身の筋肉が隆起し、背中の逆立った鱗は背中から腕にかけて広がっている。触手はないが、代わりにカマキリのような腕が脇腹と肩から数本伸び、刃先はまとわりついた謎の液体で光沢を帯びている。目元にはビキビキと浮き出た血管。口から剥き出した長い牙。下半身は獣そのもので、熊のような太い爪を地面に食い込ませている。
そして、何より無視できないのがそのサイズ。今まで、子供の背丈ほどだった奴の身長は周囲に伸びる木々の半分ほどにまで高く、奴の形状も含めたその威圧感は相対するものを震え上がらせる。
ゲニラの真の姿を見て、イチタたちは硬直する。が、ただ一人。セリカは剣を抜いて歩み出す。
「セリカ……」
「イチタはあの子を追って。ここは私が食い止める」
「……分かった!」
「おおっと! そうはいかないよぉ! そこの人間はオイラの体を二度も吹き飛ばしたんだ。一発くらいはお礼させてもらわないと……っねぇ!!!」
ゲニラは肩から伸びた鎌をイチタに向けて飛ばした。
ーーカァンッ。
しかし、満を持して放たれた初陣はセリカの目にも止まらぬ剣撃によって打ち返され、鎌は勢い余ったまま近くの木に突き刺さる。
「あなたの相手は、この私」
「キシャッ! 笑わせるな小娘!」
ーーカンッ! カァン!
続けて飛んでくる鎌をセリカは華麗に跳ね返し、奴の繰り出す攻撃のすべてを無力化する。
「急いで、イチタ」
「ああ、後は任せた」
イチタはただ一人、ネメフィウラを追って走り出した。
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