第35話

 レフィラとの交渉を終えた後、イチタは気を失ったレナトを背負って第一部隊の元へと戻る。洞窟から帰還した二人を見て、みんな一斉に駆け寄ってくる。


「イチタ!」


 その中でも、真っ先に走ってきたセリカを先頭に、後からぞろぞろ集まりイチタを取り囲む。密集した団員たちの間を通って、ギルド長もやってくる。気を失ったレナトを見て、おおよその事態を察したのか、深く尋ねることはしなかった。レナトはその後、負傷した先遣隊と同じく救護隊に連れられて、戦線から離脱した。第一部隊は禁足地の調査を続行する。


 森のさらに奥へ足を踏み入れるアスター。ミーネアの予測によれば、魔物の発生源と思われる場所はこの先にある。より緊張感を持って、密集した木々の間を抜ける。


「待て……」


 ふと、ギルド長が立ち止まる。その瞬間、周囲の木々がざわめき始めた。段々と、自分たちの周りを囲むもの……。立ち込めてくるは、イチタのよく知るあの霧。


 もう何度目か、もはや驚くことはない……いや、この場においてはむしろ待っていたというべきか。ただ、見慣れていない者にとってはそれなりの心理的な脅威となる。現に、隊の中にも突如出現した霧を見て慌てふためく者は多い。奴らが現れる時は、大抵出てくるのだが……問題なのはその後だ。


 イチタは霧の中から何が現れるのか、神経を集中して観察する。その時、どこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「キュシシシシ……わざわざこんなところまでご苦労なこったなぁ」


 ゲニラ……。


「今日は仲良しのお仲間いーっぱいで楽しそうだなぁ。それで? お目当てのものは見つかったかい?」


 目の届かないところからこちらを嘲嗤うゲニラに、ガドロックが語気を強めた口調で言い放つ。


「世間話に興じている暇があるとは驚きだな。その首と胴がいつまでも繋がっていると思うなよ。青二才がっ!」


 ガドロックの重圧にもまったく動じず、ゲニラはさらに嘲笑染みた態度で話し続ける。


「いいねいいねぇ~オイラも早くキミたちとアソビたいところだけど、物事には順序ってのがあらぁ。それまではこの子たちがキミらの相手をするよ。せいぜいここでくたばらないでくれよな~」


 奴がそう口にしてすぐ、霧の中から魔物が現れる。王都に出たものと同じだ。一体一体はそれほど脅威ではないにしろ、この数が相手では……。


 魔物は次々と霧の中から現れる。団員達はそれぞれ自身の得物を構え、魔物に立ち向かう。


「はあっ」

「うおおっ」


 団員達は向ってきた魔物を軽々と迎撃していく。精鋭には及ばずとも、ここにいる皆それ相応の鍛錬を積んできた者たちだ。伊達に第一部隊に配属されているわけじゃない。


 彼らの多大な協力もあり、襲ってきた魔物はあっさりと討伐できた。当初の心配も杞憂に終わり、最後にはアスターの力強さに感心していた。追加で現れる魔物もいない。後はヤツを……ゲニラを追うだけだ。


 イチタは周囲を見回す。そして、ある違和感に気づいた。


 なぜだ……なぜ、霧が晴れない。いや、元々晴れると決まっていたわけじゃない。ただ、周囲に蔓延る魔物を倒し切った際は、ある程度見通しが良くなっていた。だが、今はどうだ? 霧は晴れるどころか一向に視界は不明瞭のまま。それどころかさっきよりも濃くなっているように感じる。


 違和感に次ぐ違和感……。直後に起こった出来事により、気のせいではなかったと知る。


「うわああああああああああああ」


 突如、団員の一人が叫びだした。周りの何人かが彼を落ち着かせようとするが、そうこうしている間に一人、また一人と、皆彼と同じように発狂した。


「く、来るなあああああああああ」

「やめろやめろやめろ! やめてくれええええええ」

「ひいいいいいいいいいい」


 この場にいる誰にも、その原因が分からない。ただ、共通しているものとしては、皆見えない何かに怯えているようだった。虚空に向かって剣を振るう者。頭を抱え込み、その場でうずくまる者。またある者は、その場にいることすら耐え切れず霧の中へと走り出してしまった。


「リュ、リュドさん」


 この状況を見て、イチタはリュドの指示を仰ぐ。リュドは眉間にシワを寄せると、歯を噛み締めた。


「やられたか……」

「やられた?」

「ミーネア」


 彼の隣にいるミーネアは既に魔法陣を展開していた。


「駄目です。幻惑潰しも効きません……」

「やはり……か。どうやら私たちは完全に向こうの手の上で踊らされていたようだな……」

「どういうことですか?」

「先ほど現れた魔物は、単なる時間稼ぎに過ぎない。ヤツらの目的は我々の隊を狂わせることだ。それも、幻惑よりさらに高度な術とみた。彼らを錯乱から解き放つには、こうなった元凶を打ち破るしかない」

「元凶……それって」


 そこまで言いかけた次の瞬間、霧の向こうから強烈に禍々しい空気が流れてくる。肌にピリつくどころではない。まるで心臓が焼け付くようだ。それを受けて、リュドは言った。


「始まったか……」


 彼の一言は、事のすべてを理解したと告げているようだった。


「ここで何もかも終わらせる。行くぞ」


 リュドの熱い意思を汲み取り、イチタ、セリカ、ガドロック、ミーネアは霧の先へ向かって走り出した。


 走り続けていると、霧を抜け出した。抜けた先は広々とした場所だった。記憶のどこかで、重なる景色。月明かりが差し込み、青い花が一面に咲き誇る。なんと癒しある光景だろう。


 だが、ここが安寧の地ではないことなど知っている。混乱の隣に立つ平穏など、ありはしない。それはこの場所そのものが十分証明してくれている。


 美しい花々の向こう側にある、神秘的な物体。中心の白い丸みを帯びたものを守るように、地面から生えた太いツルが囲ってある。


「あれは……」

「何かの繭でしょうか。しかし……」


 白い繭はよく見ると、薄っすら透けており、内側が淡く発光している。糸の網目を通じて中を確認できる。イチタたちはさらに近づいて繭を観察する。中にいる存在を見て、イチタは驚愕する。


「そんな、だって……あれは、あの子は……」


 繭の中で眠る、一人の少女。アズー村の森で会った、あの青いワンピースドレスの少女だ。膝を曲げてうずくまり、生まれたままの姿でじっとしている。


 以前とはまるで違う姿に、驚かずにはいられない。イチタだけじゃない。初めて見るであろう、リュドやミーネアもその事実に目を見開いている。


 繭を眺めていると、強い風が吹いた。花は揺れ、草木はざわつく。風に乗って黒い靄がこの場に流れ込む。靄は繭の前に集まるとカタチを変えて徐々に膨れ上がる。


 姿を見ずとも、イチタには分かっていた。いよいよ、奴のお出ましだ。


 時を待たずして、靄の中からゲニラが現れた。その表情には相変わらず不気味な笑みが浮かんでいる。


「キュシシシシ……会えて嬉しいよ。さぁて、今宵はどんな風に苦しみ、どんなふうに悶えてくれるのか」


 奴自身から漂う気味の悪さに、イチタたちはより注意深く身構える。


「それにしても、キミたちは運がいいなぁ……こうしてネメフィウラの開花に立ち会えるなんて……まぁ、その瞬間を拝めるかはキミたち次第だけどね。えへへ……えへへへへ……」


 その時、奥の草むらから誰かが飛び出した。出てきたのは一組の若い男女。見れば、二人ともギルドで支給された簡易装備を付けている。おそらく、はぐれた先遣隊の人達だ。


 この場にいる者の意識が彼らに向けられる。


「ひっ……」


 訳も分からずたどり着いたのだろう。二人組は視界に飛び込んできたゲニラの姿を見て、声にならない悲鳴を上げた。そんな彼らに、ゲニラは言葉を投げる。


「キュシシ……あ~ん? どうしたのかなぁ? もしかして迷子になっちゃったのかなぁ? いけないなぁ……ここにはこわ~い魔物がたっくさんいるからねぇ。ちゃ~んと気を付けないとだめだよ」


 ゲニラは体を傾けながら、ぎこちない動きをまじえて二人に忠告する。


「あ…ああ……」


 二人は恐怖のあまり、その場で立ち尽くしてしまった。それを見て、リュドは大声で二人を一喝する。


「早く行け!」


 その一言で硬直した体にスイッチが入ったのか。二人はおぼつかない足取りで何とかこの場から去っていった。去り行く彼らを、ゲニラは笑みを浮かべたままじっと目で追っている。二人の姿が見えなくなると、その視線はやがてこちらに戻った。


「さぁてさて……さてさてさて。そろそろ始めようか。と、その前に……」


 ゲニラは震えながら両腕を広げると、ミーネアを見ながら言った。


「いい加減に解いてくれないかな? これ……」


 気が付くと、いつの間にかミーネアは魔法陣を展開していた。


「くっ……」


 ミーネアが魔法陣を解除した瞬間、ぎこちなかった奴の動きが、途端にスムーズになった。首を鳴らしながら、ゲニラはその身の解放感に酔いしれている。技を中断したミーネアは思った以上に疲弊した様子で小刻みに浅い呼吸を繰り返している。彼女の姿を見て、リュドは礼の言葉を述べた。


「感謝する、ミーネア。君はそこで休んでいるといい」

「すみません、団長」


 リュドはゲニラをにらみつけ、背中の大剣を引き抜くと一歩前に出た。彼の後に続くように、イチタ、セリカも前に出る。視線を奴に固定したままリュドは小さな声でイチタたちに確認する。


「そう言えば、君たちは一度奴と顔を合わせているんだったな」

「ええ。前回は、かなりギリギリの戦いで……ガドロックさんのおかげで、なんとか退けることができました。けど、今回はいけるはずです」


 自信をもってそう言ってのけたものの……前回より、こちらの人数は増えているというのに、どうしてアイツは笑っていられるんだ。リュド、ミーネア、そして前回お前を追い詰めたガドロックもいる。それなのに、奴は依然として余裕綽々だ。何か、嫌な予感がする。


 静寂を切り裂いて、リュドはその大剣を振りかぶりながら、ゲニラに急接近した。何気に、彼の戦う姿を見るのは今回が初めてだ。少し、楽しみでもある。リュドは全身を使って大きく大剣を振る。しかし、ゲニラは上体を反らして攻撃を回避した。避けられることを想定していたのか、リュドの勢いはそれで止まることなく、二の太刀、三の太刀を放っていく。


 手数こそやや少ないものの、大剣ならではの重量感とリーチを兼ね備えた一撃は着実に奴を圧倒するための良い要素である。その証拠に、ゲニラはリュドの攻撃を受け止めることはせず、きっちりと見てから当たらない位置まで回避している。


 確かに、あの調子で逃げられたら、相性的に分が悪いかもしれない。けど……。


「おいおいおい……どうしたんだぁ? そんなんじゃ朝までかかってもオイラを仕留めることはできないぜ」


 ゲニラは笑いながらリュドの攻撃を回避すると同時に後ろへジャンプする。が、奴の跳躍に合わせて、上空からセリカが奇襲を仕掛ける。閃光のような鋭い剣撃が月夜に映る。ゲニラは腕を前に出し、すんでのところでそれを防ぎ切る。空中で身をひるがえすと、何事もなかったかのようにきれいに着地した。


 安心するのはまだ早い。奴の着地を予測していたガドロックが背後から拳を打ち込む。その強烈な一撃は見事に命中し、ゲニラは反対側の木々まで吹き飛ばされた。


 木にぶつかった衝撃で土煙が舞う。煙に紛れてゲニラの姿は見えなくなる。確認せずとも、この程度でくたばるわけないことは分かっている。イチタたちは次に奴が繰り出す動きに備え、全員で立ち込めた煙が散るのを待った。


 目を凝らすと、土煙の奥に何かが蠢いている。それも、一つじゃない。ゆらゆらと煙の向こうでそのシルエットが主張される。やがて煙が消えると、蠢いていたものがぬらりと姿を現した。


「キュシシ……危ない危ない」


 奴の背中から伸びた触爪。以前は二本だったが今回は四本に増えている。


「前はちぃ~っと油断しちまったが。今度はそう上手くいかないってこと。かわいいかわいいこの子たちを使って教えてあげるよ」


 ゲニラは四本の触爪を巧みに操り、そのすべてをこちらに向かって一斉に飛ばす。イチタは瞬時に羽虫を召喚すると触爪へと飛ばした。


「無駄だって分かんねぇのかなぁ!」


 触爪はイチタの飛ばした羽虫をすべて弾く。イチタはさらに羽虫を集わせると、陣形を組んで羽虫の防壁を生み出した。触爪は四本とも防壁によって防がれる。


「はあっ!」


 ガドロックは走り出し真正面から直接奴を狙う。打ち込んだ拳をゲニラは両腕でガードする。


「ちっ」


 防がれたものの、一発では終わらない。ガドロックは続けて拳を連打する。一発打ち込む度に奴の体がどんどん後退る。ゲニラは触爪を使って彼の動きを止めようとするが、向かわせた触爪はイチタとセリカによって叩き落される。


「はあああああっ」

「っ!」


 ガドロックが大きく拳を振り上げた一瞬の隙をついて、ゲニラはその場から離れる。直前まで奴の居た場所に強力な一発が放たれる。


 戦いは接戦を極めていた。両陣営は一度距離を取り、静かに互いを見つめ合う。そんな中、リュドが前に出る。


「貴様の首を取る前に、一つ聞いておきたいことがある」

「あん?」

「なぜ我々の国を襲う。ここまで大それたことをするからには、何らかの意義があるはずだ」

「意義……意義ねぇ。キュシ……キュシシシシ」


 リュドの問いに、ゲニラは笑いながらも答える。


「……清算の時が来た。それだけのことだ。オイラたちはただ、当然の権利を行使しているに過ぎない」

「清算? 一体何の話だ」

「とぼけたくなるのも無理はない。なんせここに来るまで……」


 ゲニラは話の途中で言葉を詰まらせると、再び不気味な笑う。


「ああ……そうか。そういうことか。キュシシシシシ……」

「何がおかしい!」


 ハッキリとしない奴の態度に、リュドも我慢の限界だ。だが、奴は奴でふざけているようにも見えない。場の空気がどうにも掴みようがない。


「何も……お前たちは何も知らない。いや……知らない方がシアワセというものだ。いいだろう。ちょっと早いけど、お披露目といこうじゃないか」


ーーピシッ……ピシッ、パシッ……。


 ゲニラの背中を覆う鱗が隆起する。鱗が逆立つに連れ、奴の形態が徐々に変化する。


「キュシシ……ああ、オイラはなんて優しいんだろう……何も知らないキミたちを、何も知らないまま終わらせてあげようだなんて!」


 触爪はより太くなり、小柄な体は逆立った鱗のせいか、やや大きく見える。目は血走り、発する声は所々ノイズ混じりとなる。


 新たに変貌したその姿は、さらに凶悪さを極めていた。

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