第32話

 三人を見下ろす魔獣の赤黒い目は、まるで何人もの命が散る瞬間を見届けてきたかのように、狂気に染まっていた。そんな威圧をものともせず、アイシャは拳を構える。


「また出たね。何度来たって同じことだよ」

「魔獣か。だが、この感じは……」


 手足が震える。以前の借りを返すことができる喜びからか、それとも一度は自身を致命傷にまで追い込んだ張本人と再度巡り合ったことによる本能的な恐怖からか。


 ……どっちでもいいさ。どこまでやれるか分からないけど、ここだけは変わらない。以前よりも、鮮明に映る魔獣の姿。その脅威すら、己の闘志の糧にしてやろう。イチタはそう意気込んで魔獣と対峙する。それは向こうも同じのようだ。前回仕留め損ねたことをしっかり記憶しているのか。魔獣の視線は、迷わずイチタへと向いている。


 ……来る。


 強靭な爪の生えた太い腕をゆっくり振り上げた。そして、爪先を天にまで向けると予定通りに振り下ろす。


ーーギィンッッッ。


 鉄くずがぶつかる音がする。飛んできた剛腕を見事受け止めた精霊羽虫。火花が散り、羽虫との鍔迫り状態が続く。その間、ユーゼットとアイシャが奴の両サイドに回り込み、がら空きになった脇腹へ奇襲を仕掛けた。だが、二人の挙動をいち早く察知し、即座に後ろへと下がる。


 攻撃こそ外したものの、イチタはこの息の合わさった連携から勝機らしい勝機を感じ取った。


 いける……今回こそ、奴に勝てる。


 その自信は、次の行動への心強い手綱となり……三人の攻めは、単なるこけおどしとは違う、大いなる強襲へと導いた。それを今、証明する。


 魔獣が次の動きに移るよりも先に、ユーゼットが魔法で広範囲の風を生み出す。それ自体は特別、ダメージを与えることはない。しかし、荒れ狂う風に乗って乱れる足元の霧は少なからず奴の意識を揺さぶる。


 踊る霧の中から現れたアイシャは、追い風に合わせて一気に魔獣の懐へ潜り込むと、その無防備な腹部に強烈な一撃を打ち込んだ。ドスンと思い衝撃が奴の背中から抜けていく。魔獣はその一打で、苦悶の表情を浮かべた。が、すかさず反撃の構えに入り、間合いに飛び込んできたアイシャに爪を向けた。


 その一瞬を見逃さなかったイチタ。魔獣が腕を上げた瞬間、羽虫を複数飛ばして反撃を阻止する。飛ばした羽虫はすべて魔獣の体に命中する。軽くよろめいただけだが、目的そのものは無事達成できた。奴がひるんだ隙に、アイシャは魔獣から距離をとる。


 これを機に、流れは完全にこちらに来た。


 二人が魔獣の気を引いている間、ユーゼットはさらなる魔法を放つ準備を始めていた。それはまるで、嵐を手の中で飼いならしているかのような、凄絶極まりないものであった。槍を回すほど、嵐は膨れ上がり周囲に散乱していたガラクタを巻き込んでいく。


ーーグゴォッ。


 その大技を見て、魔獣は何か危機感のようなものを感じたのか、気が狂ったように彼のほうへ駆け出していった。


「させるかっ!」


 イチタは羽虫を飛ばして、魔獣の動きを止める。羽虫は高速で旋回しながら、奴の体に体当たりを繰り返す。歯を食いしばっては、羽虫の猛攻に苦戦を強いられている。上手いこと動きを封じられている。ここまで、順調に事が運ばれている。しかし、魔獣もこのまま黙ってはいない。魔獣は視線を羽虫から術者であるイチタへ移す。


 同時に、理性と狂気の入り乱れた目がこちらに向けられた。その瞬間、何かが嫌な感覚が猛烈に迫りくるのを感じた。


 この感覚……まさか。


 その感覚が何であるか認識する暇もなく、イチタは一瞬にしてのみこまれた。


 視界が激しくゆらぐ。


 踏みしめる地面の感触も分からない。


 音が次第に遠くなる……。


 ぐっ……クソ。


「イチタくん!」

「っ!?」


 突如、耳に響く声。鮮明な音色は再び彼の意識を現実へ呼び戻した。 


「大丈夫?」

「ア、アイシャさん」


 気が付くと、イチタの目の前にアイシャが立っていた。


「俺、何が……どうなって」

「よかった、目が覚めて。幻惑潰しで、どうにか奴の魔法を無効化できた」


 詳細は不明だが、彼女のおかげで無事に難を逃れることができた。


「ありがとうございます。アイシャさん」

「えへへ、さっきのお礼」 


 そこには、彼女の普段の笑みが溢れていた。頭の整理がつかぬまま、アイシャは流れるように言葉を投げた。


「もう十分でしょ? ユーゼット」


 彼女の言葉につられるまま、視線はユーゼットの方へ……なんと、自分があたふたしている間、彼の溜めに溜めた大技は極限にまで達し、いつでも発動できる状態であった。


「ああ、これで終わりだ!」


ーーシュゥッ。


 技を放つ瞬間、周囲の音が消えた。が、次の瞬間。激烈な轟音が周囲の静寂ごとのみこんでいった。螺旋の嵐は突き抜ける槍のごとく、魔獣の体を貫いた。避ける隙も、避けようと意識する猶予も与えない。


 技を撃ち終えてしばらく……土煙が消えると、そこには地面に横たわる魔獣の姿があった。


「……終わったようだな」

「やった」

「ふぅ……」


 これで、すべての問題が解決。十三区域は無事、解放される。アイシャも、嬉しそうに微笑んでいる。


 これで……本当に……。


「いやぁ、それにしてもユーゼットのあの技。久しぶりに見たよ~」

「うん? そうか? あの程度の技、特別珍しくもないだろう」

「ううん。ほんとしばらく目にしてなかったと思うよ。ユーゼットって、何かともったいぶるからね」

「そうかよ。んじゃ、貴重な機会に立ち会えてよかったな。サービスで上空にもう一発披露しようか?」

「いや~遠慮しとく。うるさいし、髪は乱れちゃうし」

「お前な……」

「きゃはっ」


 ユーゼットとアイシャの和やかな会話。勝利の余韻に浸るには、十分すぎるほどだ。しかし……。


 微かに残った胸騒ぎが、イチタに酔いしれることを許さない。戦いの終わりを知らせるベルは、まだ鳴らない。


「よし。それじゃあ帰るか」


 帰り際、ユーゼットがそう口にした時、それは起きた。


ーーゴゴゴゴゴ。


「なんだ?」


 地鳴りのような音……近い。音は間違いなく、すぐそばでなっている。


ーーボシュッ。


「っ!?」


 周囲の家屋から何かが上空へ飛び出た。あれは……。暗闇の中に溶け込むそれは、少しの間空中で遊びに入ると、一気に急降下してくる。


 近づくにつれ、それが何であるかを知る。


「……煙?」


 上空から降ってきた謎の黒い煙が、倒れ伏した魔獣を包み込む。黒い煙は魔獣を包み込んだ後、一気に拡散した。煙の中から現れたそれを見て、イチタはもちろん、先ほどまで和気あいあいとおしゃべりしていた二人も、文字通り言葉を失う。


 剥き出しになった牙。


 逆立った鱗のような体毛。


 頭から生えた天をも貫く二本角。そこから背中にかけて続く強靭な棘。


 太く長さの増した尻尾に、全身を隈なく覆うまだら模様。


 部位ごとにアップグレードされた特徴は、さらに凶悪なものへと変貌していた。


ーーグオオオオオオオンッッッ。


 復活した魔獣は闇夜に向かって雄叫びを上げ、己の存在を主張して見せる。


「バカな……」


 これだけ見せつけられてなお、未だ受け止めきれずにいる。それでも、夢ではないという事実を体はとうに理解していた。だからこそ、深く考えるよりも先に三人は得物を構えていた。


「ユーゼット……」


 彼の名を呼ぶアイシャの声色は、すっかりと怯えてしまっている。そんな彼女を落ち着かせるかのように、ユーゼットは言葉を返した。


「こけおどしさ。手負いであることに変わりはない。臆せず行くぞ!」


 だが、ユーゼットの声色には、なぜ、どうしてという疑問の念がどうにも隠しきれていない。それもそうだ。こんなこと早々起こるはずが……。


 ユーゼットとアイシャは魔獣との距離を詰め、早々に仕掛ける。奴が手負いと知っているからこその、強引な立ち回り。しかし……。


「はあああああああっっっ」


ーーガキンッ。


「っ!」


 ここ一発と放った渾身の一撃。しかし、魔獣はユーゼットの繰り出した攻撃を肘から伸びた自前の刃で受け止める。それはあまりにも速く、見てから判断するのは難しい。そこから二発、三発と攻撃が放たれ、ユーゼットは徐々に追い詰められていく。速さだけではない。速さに乗せて降りかかる一撃の重みが、しっかりとその身にのしかかる。しかし、そこは討伐団アスターの精鋭。徐々に相手の攻撃を見切りつつ、一発一発きれいに受け流していく。


 このままいなし続け、どこかのタイミングで勝機を見出すことができれば……。


 だが、ユーゼットの対応に合わせて、魔獣の攻撃も如実に変化していく。


 抑えては受け流し……、受け流しては追撃を入れる。そんな彼の堅実な立ち回りも空しく。魔獣はその圧倒的な力でユーゼットの動きをねじ伏せてゆく。


 ユーゼットの施した対策は、いつの間にか効力をなくし、ただただ押される一方となった。


「くっ……」


 押されて……押されて……そして……。


「ぐわっ!」


 力任せに放った魔獣の一撃により、ユーゼットは吹き飛ばされた。


「ユーゼット!」


 アイシャが気にかける間もなく、魔獣は狙いをアイシャに定めた。アイシャは一気に駆け出すと、魔獣の挙動に注意深く目を向けながらあえて距離をとって相手の様子を窺う。だが、返ってその慎重さが裏目に出た。手数でもって徹底的に押し切ることが強みの彼女にとって、それは相手に対策する時間を与えてしまう。悪い予感は、まだまだ止まらない。


 魔獣はアイシャへ向かって咆哮する。咆哮はがれきを巻き込んだ衝撃波となり、彼女を襲った。衝撃波を避けるため、巻き込んだがれきからその軌道を読み取り、うまく躱した。ところが、再び視線を戻した時、そこにいたはずの魔獣の姿がない。


ーーグルルッ。


「アイシャさん! 後ろ!」

「え?」


 振り返るアイシャ。彼女の背後には見上げるほどの魔獣が既に立っていた。アイシャは何とか素早く反応して、接近してきた魔獣に反撃しようとしたものの。魔獣が目を見開いた瞬間、アイシャは衝撃波によって吹き飛ばされ、そのまま民家の壁に激突した。


「きゃあっ!」

「アイシャさん!」


 そんな……。


 魔獣が復活して早々、訳も分からぬままに、二人はやられてしまった。残されたのは、イチタだけ。何もできず、この状況を傍観することしかできない。


 それでも、僅かながらに希望は残されている。イチタは羽虫を展開する。奴を再び鎮圧するためには、攻めと守り、どちらを優先させるのかを真に見極めなくてはならない。今、自分の背中を守ってくれる者はいない。ここから先は、一瞬の判断ミスも許されない。


 イチタは魔獣と睨み合う。一体何人もの命を貪ってきたのか。その悪辣なる瞳には、一切の慈悲を感じない。ここですべて断ち切らなくては……。


 先手を取って、数匹の羽虫を一斉に飛ばす。魔獣は羽虫の突撃を頑強な爪で振り払うと、一瞬にして姿を消した。


「き、消えた!?」


 次に奴が目の前に現れた時、強烈な音が耳を突き抜けた。反射的に瞑った目を開けると、魔獣の爪撃を全身全霊で受け止める羽虫の姿があった。彼らがいなければ、奴が繰り出した攻撃を認識することすら叶わぬまま、命断たれていたことだろう。


 それでも、安心している余裕は一切ない。魔獣はさらなる追撃で、どうにか羽虫の防壁を破ろうとする。なんて、重い一撃だ。防壁の向こうから伝わる振動と衝撃。とても攻撃に手を回す余裕がない。


 イチタは力のすべてを守りに当て、徹底して奴の猛攻を防ぐ。だが、それも時間の問題。防戦を強いられる中、反撃の糸口はまるで掴めない。このまま何もできずに終わるのか……。


 せっかくの力を身に着けておきながら、この結末。ただただ、悔しさだけが込み上げる。


 皆、ごめん……。


 そう、心の中で口にした……その時だった。


 上空に一筋の光。落雷のように降り立った光は、魔獣の爪撃を弾いた。光で一瞬辺りが明るくなる。魔獣は何事かと警戒を示しながら、引き下がった。


「あ……ああ……」


 目の前に降り立ったその人物を見て、不覚にも涙が溢れた。自分は何度、この人に助けられればいいのだろう。


 落雷のスポットライトに照らされて、その後ろ姿が映る。


 透き通るような白髪のロングヘアに風になびく深緑色のマント。凛々しく美しい背中には、信頼と安心の文字が浮かんでいた。自然と、その名が口から出た。


「……セリカ」


 振り返ってこちらを見る少女は、満面の笑みでこう言った。


「おまたせ、イチタ」

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