第二十二章::勝利の美酒、敗北の種
(寛永十年・江戸城 西ノ丸)
高崎からの早馬が到着してから、半刻。 江戸城西ノ丸の書院には、重苦しいほどの静寂ではなく、張り詰めた糸が切れた後のような、弛緩した空気が流れていた。
「……そうか。死んだか」
家光は、老中・酒井忠世からもたらされた報告書を、読み終えると同時に火鉢に放り込んだ。 中身は、弟・忠長の自害を知らせる検使役からの報告だった。
「はっ。検分も滞りなく。……ご遺体は、現地の寺にて手厚く……」
「不要だ」 家光は、酒井の言葉を遮った。 「墓などいらぬ。罪人の骸だ。灰にして、風に撒け」
「……御意」
家光は、手元の杯に酒を注いだ。 極上の美酒である。だが、その味は格別甘くも、辛くもなかった。 ただ、喉元を過ぎる熱さが、長年彼を縛り付けていた「家族」という呪いが、完全に消滅したことを告げていた。
「……終わったな」
家光は、独りごちた。 母・江は七年前に病死した。 弟・忠長は今日、自害した。 父・秀忠も既にいない。
徳川の世を内側から蝕んでいた「バグ」は、すべて削除された。 自分の「システム」は、完全無欠となったのだ。
家光は、杯を置き、壁に掛けられた日本地図に目を向けた。 その視線は、江戸の北――仙台へと注がれている。
「蔵人」 「はっ」 影から、蔵人が現れる。
「内憂は消えた。これより、全力で外患を潰す」 家光の指が、地図上の一点を叩いた。 「伊達政宗。……あの独眼竜を、狩るぞ」
「……古狸中の古狸にございますな」
「ああ。奴は、土佐の山内のように単純ではない。 『花の御殿』の毒も、そう易々とは回らぬだろう」 家光は、冷酷な狩人の目をしていた。 「だが、必ずボロを出す。 『影』の師団を総動員し、仙台藩のすべてを丸裸にしろ。 ……天下の副将軍気取りのあの男を、わたくしの『システム』の前に跪かせる。 それが、最後の仕上げだ」
家光は確信していた。 もはや、自分を脅かす敵は、「外」にしかいないと。 足元の「闇」が、音もなく開いていることになど、気づく由もなかった。
(同日・深夜 江戸市中 深川)
江戸の町外れ、深川の湿地帯にある廃屋。 表向きは材木置き場として放置されているその場所の地下に、広大な空間が広がっていた。 かつて家康に滅ぼされたはずの風魔一族が、数十年をかけて築き上げた、地下要塞である。
その最深部。 蝋燭の炎だけが揺らめく祭壇の前に、黒装束の男が立っていた。 死んだはずの男、徳川忠長である。
「……ここが、冥府か」 忠長は、自分の手を見た。生温かい血の感覚は消えていたが、胸の奥で燃える復讐の炎は、高崎にいた時よりも熱く、黒く、渦巻いていた。
「いいえ。ここは、再生の子宮にございます」
闇の奥から、凛とした声が響いた。 忠長が振り返る。 そこには、豪奢な打掛を纏い、七年前と少しも変わらぬ威厳を放つ女が座していた。
「……母上」
母・江。 七年前に死を偽装し、この地下で風魔を統率し続けてきた、真の支配者。
「よくぞ、戻られました。……私の愛し子」 江は、立ち上がり、忠長を抱きしめた。 その体温だけが、ここが現実であることを告げていた。
「……長かった。……兄上……いや、家光に殺されるのを待つだけの日々は、長かった……」 忠長の声が震える。
「もう、怯えることはありません」 江は、忠長の顔を両手で包み込み、鬼のような形相で微笑んだ。 「そなたは一度死に、生まれ変わったのです。 法も、血筋も、徳川の掟も、もはやそなたを縛れない。 ……そなたは、『影』となって、家光からすべてを奪えばよいのです」
闇に潜む風魔の忍びたちが、一斉に跪いた。 彼らにとって、幕府への恨みを晴らしてくれる忠長こそが、正統なる「闇の将軍」だった。
「……家光は今、勝利の美酒に酔いしれ、伊達や島津といった『外』の敵に目を向けております」 江が、家光の思考を読み切ったように告げた。
「それが、奴の敗因だ」 忠長は、腰の刀――風魔から与えられた、妖刀のごとき輝きを放つ刃を抜いた。
「奴が『外』を見ている間に、わしは『内』から奴の喉笛を喰い破る。 ……江戸の町を、城を、奴の足元から火の海にしてやる」
「ええ。始めましょう」 江は、扇子を開き、口元を隠した。
「……家光の『仕組み』とやらが、顔のない『死人』をどう裁くのか。 ……見ものですですね」
地上では、家光が完全勝利を確信し、新たな覇権を唱えていた。 地下では、死んだはずの母と弟が、その覇権を根底から覆すための「種」を、静かに、確実に撒き始めていた。
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