第十九章:壊れた『薬』師

(寛永二年・江戸 吉原)


『凪』を「影」に加え、その足で、蔵人は江戸の「闇」の最深部――吉原へと向かっていた。 最下層の「切り見世」が並ぶ羅生門河岸。 法も秩序も届かぬ、生ける屍たちの終着駅だった。


蔵人は、その一角にある、ひときわ荒廃した阿片窟の前で足を止めた。 入り口の用心棒二人を音もなく「沈めた」直後。


「……蔵人か」 阿片の煙が充満する室の奥から、声がした。 痩せこけ、苔(こけ)た頬の男――六道(りくどう)が、汚れた寝台に座ったまま、キセルを咥えていた。


「……ずいぶんと、奇麗な格好じゃねえか。 ……噂は聞いてるぜ。徳川の『犬』に返り咲いたんだってな」


「六道」 蔵人は、暗闇の中で静かに告げた。 「わが主君が、お前を『必要』だと仰せられる。 ……来い」


「……断る」 六道は、即答した。 「俺は、もう『道具』じゃねえ。 ……ここで腐り果てる『自由』を選んだ」


「ならば、力ずくで『回収』する」 「……やれるもんなら、やってみな」 六道は、キセルを床に投げ捨てた。


その刹那、室の両脇の闇から、二振りの刃が、蔵人の首と心臓を狙って音もなく突き出された。 六道が差配していた、阿片中毒の「女忍者」たちだった。 だが、蔵人は、その刃を見てすらいなかった。


―――キンッ! 蔵人の抜いた忍び刀が、闇の中で二条の閃光を放ち、二振りの刃を、同時に叩き折っていた。


「な……!?」 「……遅い」 蔵人は、絶句する二人の女忍者の鳩尾(みぞおち)に、刀の柄を正確に叩き込み、意識を刈り取った。


「……阿片か」 蔵人は、崩れ落ちた女たちを見下し、吐き捨てた。 「……お前の『薬』は、仲間の『牙』すら折ったか、六道」


「……うるせえッ!」 六道は、自ら蔵人に跳びかかった。 その手には、伊賀忍びの特殊な「薬」を塗り込んだ、無数の「打ち針」が握られていた。


蔵人は、刀を鞘に戻した。 自分よりも格下の弟分に、刃は不要と判断したからだ。


闇の中で、体術だけが激突する。 六道の動きは、常人の目には追えぬ速さだった。だが、蔵人には「見えて」いた。 (……速い。だが、呼吸が浅い) (……型は生きている。だが、一撃が軽い)


蔵人は、六道の放つ「毒針」の嵐を、最小限の動きで、すべて紙一重で避け続けた。


「なぜだ……! なぜ、当たらん!」 六道の呼吸が、激しく乱れ始める。阿片に蝕まれた肺が、限界を訴えていた。


「……六道」 蔵人は、ついにその連撃の「隙」を捉えた。 「お前の『技』は、もう、死んでいる」 蔵人の手刀が、六道の首筋に、深々と、しかし「殺さぬ」程度に叩き込まれた。


「……が……っ」 六道は、膝から崩れ落ちた。 阿片中毒の身体では、もはや蔵人の敵ではなかった。 蔵人は、その弟分の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。


「……殺せ」 六道は、血を吐きながら、笑った。 「……どうせ、生きていても、地獄だ……」


「わが主君は、お前に『死』は与えぬ、と」 蔵人は、懐から、主君・家光から預かってきた「モノ」――ガラスのアンプルとアンプルカッターを取り出し、六道の目の前に投げ捨てた。


「……なんだ、そりゃあ……」 六道は、嘲笑うように、その小さなガラス瓶を拾い上げた。 「……徳川の、新しい『毒』か? それとも『酒』か……?」


だが、彼が「薬師」としての本能で、そのアンプルの栓を切り取り、中の液体を指先に付け、一舐めした瞬間。 六道の顔が、恐怖に凍り付いた。


「……な……」 「……なんだ、これは……」 彼は、震える指で、もう一度その液体を舐めた。 (……苦味、酸味……どれでもない。この組成は……俺が知る、どの薬草にも、鉱物にも、該当しない……!) (……だが、この『力』は……! 脳が、焼けるようだ……!)


六道の、阿片に曇った目が、凄まじい速度で「薬師」の目に戻っていく。 (……違う。これは『毒』じゃない) (……これは……『毒』を、喰う薬だ!) (……俺の身体の中で、阿片の『毒』を、内側から、殺している……!?)


「……あり得ない……」 六道は、アンプルを握りしめ、蔵人を睨みつけた。 「……これを、どこで手に入れた! 南蛮か!? いや、南蛮の『薬』でも、こんな代物は……!」


「わが主君は、仰せられた」 蔵人は、初めて「力」ではなく「言葉」で、六道を制圧した。 「『お前の『薬』の知識は、人を堕とすためではない。 ……余の『道具』を、『修理』し、『治療』するためにこそある』、と」


「……治療……?」 六道の、かすれた声が漏れた。


「わが主君は、アヘンを打ち消す『薬』をお持ちだ。 ……お前は、まず、この『薬』で、その『阿片』の泥沼から這い出せ」 蔵人は、崩れ落ちた女忍者たちを顎で示した。 「……この者たちもだ。 ……『すべて連れてこい。余が『修理』し、新たな『役割』を与える』、と」


そして、蔵人は、六道の魂に、決定的な「鉤」を打ち込んだ。

「……主君は家康公の時代のお前達を必要としている!」


「……!」 六道の全身が、総毛立った。 「……あの時代の俺たちだと・・・」


あの時代。 徳川のために闇を駆け、薬を調合し、女忍者を差配し、国盗りの「道具」として、最も研ぎ澄まされていた時代。 太平の世で「無用なもの」として捨てられ、自らも捨てたつもりだった、あの「誇り」そのもの。


六道は、戦慄していた。 「力」で、完璧にねじ伏せられ、 自らの「専門知識」をもってしても理解不能な「奇跡の薬」を提示され、 「守りきれなかった仲間」ごと、救済すると言われた。 そして今、「存在意義」そのものを、再び与えられた。


蔵人の背後にいる「主君」は、自分たちを捨てた徳川とは、まったく異なる「器」を持つ、底の知れない「何か」だった。


「……選べ、六道」 「ここで、わたくしに『処分』されるか。 ……それとも、その『薬』を信じ、 ……お前も、お前の『女忍者』たちも、 ……もう一度、『道具』として『修理』されるか」


六道は、アンプルを強く握りしめた。 それは、自分と仲間たちを「元に戻せる」唯一の希望だった。


「……その『主君』に伝えてくれ…… ……この『六道』の、『毒』も『薬』も…… ……すべて、捧げると」


「影の軍団」に、「医療」と「毒」、そして「女忍者」の調達網を司る、最も危険な『薬師』が加わった瞬間だった。

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