第十八章:古き『刃』の再会

(寛永二年・江戸 浅草)


家光から「影の軍団」増強の密命を受けて数日。 蔵人は、江戸の最も賑やかな場所の一つ、浅草寺の門前に立っていた。 ここは「聖」と「俗」が入り乱れ、あらゆる人間の「気配」が渦巻く場所だ。 忍びが「死んだフリ」をして息を潜めるには、これ以上ない場所だった。


蔵人は、雑踏の中を、一つの目的もなく歩いているかのように見えた。 だが、その五感は、研ぎ澄まされた刃のように、ある一点を探していた。 (……いたか)


見世物小屋や屋台が並ぶ中、一本の柳の木の下。 一人の「虚無僧」が、深編笠を目深に被り、ただ尺八を吹いていた。 その音は、奇妙だった。 他の芸人たちが客を引こうと派手な音を立てる中、その尺八の音だけが、まるで「この場所に存在しない」かのように、周囲の喧騒から、ふわりと浮き上がっていた。 あまりに静かで、完璧に「無」であるために、ほとんどの人間は、その虚無僧が「存在」することにすら、気づいていない。


(……『凪』の技か) 蔵人は、その男の名を、心の中で呟いた。 かつて伊賀において、「音」と「気配」を操ることにかけ、右に出る者のなかった忍び。 太平の世で一族と共に「処分」され、行方知れずとなっていた、蔵人のかつての同胞だった。


蔵人は、その虚無僧の前に、音もなく立った。 ―――ピタリ。 尺八の音が、止まった。 周囲の喧騒が、嘘のように引いていく。 深編笠の奥から、地の底を這うような、かすれた声がした。


「……何の用だ、蔵人。 ……わしは、『凪』という名も、忍びの技も、十年前に捨てた。……仏に帰依した身だ」


「嘘をつけ」 蔵人は、即座に否定した。 「お前のその音は、仏の音ではない。 ……お前は、今この瞬間も、この雑踏の中の『すべて』を聴き、その『気配』を読んでいる。 ……その技、何一つ、鈍ってはいない」


「……」 『凪』は、黙った。


「わが主君が、お前の『力』を必要としておられる。 ……わたくしと共に来い。 我らの『牙』を、もう一度、研ぎ直す時が来た」


「……主君だと?」 『凪』は、深編笠の奥で、嘲笑った。 「徳川か? 柳生か? 我らを『危険な道具』として捨て、誇りも仲間も奪った、あの連中に、今さら尻尾を振れと申すか」


「違う」 蔵人は、断言した。 「わが主君は、徳川でも柳生でもない。 ……『徳川』という『しきたり』そのものを、『掃除』なさろうとしておられる御方だ」


「……掃除?」 『凪』の呼吸が、わずかに乱れた。 その言葉に、彼が知る「太平の世」とは異質な匂いを嗅ぎ取ったからだ。 蔵人は、家光が自分を拾い上げた、あの庭園での言葉を、そのまま『凪』に叩きつけた。


「戦の悪人は、わかりやすかった。 ……だが、今は、法を作る側の人間が、その『法』を楯に、民を喰らう。 ……わが主君は、その『法で裁けぬ悪』を、この世から『掃除』する、と仰せられた」


「……」


「お前の『耳』と『気配』を操る技は、その『悪』の『心』を読み、その『密議』を暴くためにこそ、使われるべきだ。 ……仏にすがり、こんな場所で『無』を装って、腐っていくためにあるのではない。 ……違うか?」


蔵人の言葉は、かつての仲間の、錆びついた「誇り」を、容赦なく抉った。 『凪』は、長い、長い沈黙の後、ゆっくりと尺八を置いた。


「……蔵人。 ……わしが、なぜ、仏に帰依したフリをしているか、知っているか」


「……」


「……守るためだ」 『凪』の声は、冷えていた。 「かつて、我ら伊賀の里を抜け、徳川に降った時に死んだ、仲間たちの……遺児。 ……あの子らが、今、この浅草の片隅で、忍びの『の』の字も知らず、ただの『町人』として、生きている」


「……」


「わしが『虚無僧』として、この雑踏に『無』として溶け込んでいるのは、あの子らを『監視』するためだ。 ……我らの『過去』に気づいた、柳生の『目』や、あるいは、我らを恨む甲賀の残党から、あの子らを『守る』ためだ」 『凪』は、深編笠の奥から、蔵人を睨みつけた。 「わしの『技』は、もはや『大義』のためには使わぬ。 ……ただ、あの子らの『明日』を守るためだけだ。 ……わしの『主君』は、あの子らだ。 ……帰れ、蔵人。その『新たな主君』とやらが、我らの『過去』を掘り返せば、あの子らの『平穏』が、壊れる」


それは、完璧な「拒絶」だった。 忍びの「誇り」よりも、「仲間の遺児の平穏」を選んだ、男の覚悟だった。


蔵人は、動じなかった。 (……『霞』の調査通り) 蔵人は、主君・家光が、この場にいる『凪』にではなく、『霞』を通じて、既に「手」を打っていたことを思い出した。


「……凪。 お前が守っている『遺児』たち。 ……今の『お前一人』の『技』で、いつまで守れる?」


「……何?」


「お前が『虚無僧』でいる限り、お前は『金』を稼げぬ。 ……あの子らも、貧しい長屋で、いつ病に倒れるか分からぬ暮らしだ。 ……お前の『技』は、『明日』を守る力には、なっておらぬ」


「黙れ……!」


「わが主君は、言われた」 蔵人は、家光の言葉を、そのまま告げた。 「『余は、余の『道具』を、誰よりも大切にする』、と」 「『その『遺児』たちも、その『平穏』も、すべて、余の『仕組み』が守る』、と」


「……!」


「お前が、わが主君の『道具』となり、その『耳』を捧げるならば。 主君は、その『遺児』たちに、『金』と『安全』と『未来』を与える、と。 ……あの子らを、貧しい長屋から、上の『店』に移し、生涯食うに困らぬ『職』を与えると」


『凪』は、戦慄した。 自分が命を賭けて守っている「秘密」を、 自分が抱えている最大の「弱み(=遺児たちの貧しい暮らし)」を、 蔵人の背後にいる「主君」は、すべて掴んでいた。


これは、「取引」ではない。 「脅迫」でもない。 「弱み」と「守りたいもの」の、完璧な「等価交換」だった。


「……選べ、凪」 蔵人は、冷ややかに言った。 「ここで『誇り』にすがって、遺児たちと共に、いつか来る『破滅』を待つか。 ……それとも、わが主君の『道具』となり、お前の『技』で、『大義』と『遺児たちの未来』の両方を手に入れるか」


『凪』は、ゆっくりと、深編笠に手をかけた。 そして、太平の世で、十年ぶりに、その「忍び」の顔を、蔵人の前に晒した。


「……その『主君』に、お目通りを」 「……この『凪』の『耳』。……買っていただきましょう」


家光の「影の軍団」に、最強の「聴覚」と「気配察知」の専門家が加わった瞬間だった。

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