第十六章:最初の『尼』

(寛永二年・江戸 鎌倉)


江戸から数日。鎌倉の外れにある、尼寺――東慶寺。 表向きは「駆け込み寺」として知られるこの寺も、その実、幕府の監視下にあり、高貴な武家や公家の「恥」を、世間から隔離するための「収容所」としての機能も併せ持っていた。


家光は、将軍の身分を隠し、「公儀の検分役」という名目で、寺の最も奥まった一室にいた。 蔵人が、無言の圧力で住職を人払いさせ、完璧な「密室」が作られた。


やがて、一人の尼が、静かに襖を開けて入ってくる。 「……検分役様に、お茶をお持ちいたしました」 その声は、まるで磨かれた氷のようだった。 感情が、一切ない。


女は、剃髪こそ免れていたが、髪は肩で切りそろえられ、粗末な灰色の衣を纏っていた。 だが、その所作は、尼のものではなかった。 染みついた、武家の最も格式の高い「型」だった。


彼女こそ、名簿の筆頭――『朝霧』。 元・旗本、榊原家の長女にして、心中未遂の生き残り。 相手の男(=家の画師)は斬り捨てられ、彼女は「家の恥」として、ここに「捨てられた」女だった。


「……茶は、よい」 家光が、低く制した。 『朝霧』は、ぴたりと動きを止めた。 「……では、わたくしは、これにて」 「待て」 家光は、その背中に、最初の「針」を突き立てた。 「……榊原の姫。いつまで、尼の真似事を続ける」


『朝霧』の肩が、石のように硬直した。 彼女は、まるで錆びついたカラクリ人形のように、ゆっくりと振り返った。 その目は、氷ではなかった。 死んだ魚の目でもない。 氷の下で、燃え盛る「怨火」そのものだった。


「……何を、仰いますか」 「わたくしめは、俗名も、過去も、捨てた身。 ……ここが、わたくしの『墓場』にございます」


「墓場、か」 家光は、立ち上がった。 第四幕で非人たちにしたのと同じく、彼は自ら、その女の目の前まで歩み寄った。


「良い墓場だ。 ……お前を裏切った『家』は、安堵して富を食み。 ……お前の恋人を殺した『しきたり』は、今も変わらず、この国を支配している」 「お前だけが、ここで『生ける屍』として、念仏を唱えている」


「……黙れ」 『朝霧』の唇から、かろうじて声が漏れた。 相手が「公儀の検分役」という「力」を持つ男であることは承知の上。それでも、墓場を暴くような真似に、彼女の「型」は耐えられなかった。


「なぜ黙る」 家光は、その激情を意にも介さなかった。 「図星だからだ。 お前は、ここで死ぬのを待っているのではない。 お前は、ここから這い出し、お前をここに送り込んだ『すべて』を引き裂く日を、待っている」


「……わたくしに、何ができます!」 『朝霧』の「型」が、ついに崩れた。 「何もかも奪われ、髪を切らされ、家も名も失った、このわたくしに……!」


「―――お前は、悪くない」 家光の静かな一言が、彼女の激情を、真正面から受け止めた。


「……え……?」


「お前を捨てた『家』が、悪だ。 お前の恋人を殺した『しきたり』が、悪だ」 家光は、その「怨火」の目を、真っ直ぐに見つめ返した。 「……わたくしは、その『しきたり』を、この国から『掃除』する」


「……あなた様は……いったい……」 目の前の「検分役」の男が、ただの役人ではない、尋常ならざる「何か」であることを、朝霧は肌で感じていた。


「わたくしは、お前たちのような『犠牲者』に、『力』を与える者だ」 家光は、冷徹な「支配者」の顔に戻った。


「選べ、榊原『朝霧』。 一つ。ここで『尼』として朽ち果て、お前の家が続くのを、指をくわえて見ていろ。 二つ。俺の『影』になれ」


家光は、彼女に「復讐」という名の「毒の杯」を差し出した。 「お前の『教養』と『作法』、そしてその『憎悪』を、わたくしに差し出せ。 ……そうすれば、お前を捨てた『家』も、お前を嘲笑った『しきたり』も、 お前が、この手で『処分』する力を、くれてやろう」


『朝霧』は、震えていた。 絶望の底で、唯一、信じ続けてきた「復讐」という光が、今、目の前の「検分役」を名乗る男から提示された。 この男が何者かは分からない。 だが、この男だけが、自分をこの「墓場」から引きずり出し、「力」を与えうる「主」であることだけは理解できた。


彼女は、その場に、ゆっくりと膝をついた。 「……あなた様が、何者かは存じませぬ。ですが、この『怨火』、もし使えると仰せなら……。 この『墓場』からわたくしを引きずり出す『主(あるじ)』として、お仕えいたしましょう」


「よかろう。蔵人」 家光が声をかけると、それまで人の気配すらなかった部屋の「影」から、蔵人が音もなく現れた。 朝霧が、息を呑む。


「この女をアジトへ。薄雲に引き渡せ」 家光は、冷ややかに命じた。 「……『徳川家』直々の『道具』として、鍛え直せとな」


家光は、それだけを言い残すと、朝霧に一瞥もくれず、音もなく部屋を去った。 残されたのは、凍りついたように動けない朝霧と、影法師のように立つ蔵人。


「……蔵人様……」 朝霧が、震える声で尋ねた。 「……あの方は、いったい……? 『徳川家』直々とは……」


蔵人は、冷たく床に膝をついたままの女を見下ろした。 「……あの方こそが、我ら『影』が命を捧げる、唯一の主。」


朝霧が、息を呑む。


「そして、お前がその『怨火』を捧げると誓ったお方。 ……公方様。徳川家光公、その御方(おんかた)よ」


朝霧は、畳に額を擦りつけるしかなかった。 自分が、この国そのものと、直接「契約」してしまったことを、全身で理解しながら。

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