第十二章:二つの『掃除』
(寛永二年・江戸城 西ノ丸)
母・江が父・秀忠の寝所から追放されて、三日が過ぎた。 その報せは、江戸城という巨大な権力機構の中を、瞬く間に駆け巡っていた。
表向きは「御台所様が、ご心労により、奥にて静養なされている」という、当たり障りのないもの。
だが、水面下では、激しい権力の移動が始まっていた。 家光は、この三日間、西ノ丸の書院に、一人の男を召し出していた。
老中・酒井雅楽頭忠世。
江という最大の後ろ盾を失い、忠長との「密書」を奪われた「古狸」である。
酒井は、この三日間、家光の御前で、ただ「待つ」ことだけを強いられていた。 家光は、酒井を呼び出しておきながら、一言も言葉をかけない。 ただ、書物を読み、政務の決済をする。 その間、酒井は、広い書院の末席で、平伏し続けることだけを命じられた。
それは、拷問だった。 (……上様は、あの「書状」を、いつ大御所様(=秀忠)にお見せになるのか) (……御台所様(ごうさま)は、なぜ、まったくお動きになられないのか) (……わしは、いつ、切腹を命じられるのか)
恐怖が、酒井の精神を確実に蝕んでいった。
そして、四日目の朝。 ついに、家光が口を開いた。
「……酒井」
「は……ははっ……! 御前に……!」 酒井は、恐怖に引きつった声で応えた。
「疲れたであろう」 家光は、書物から目を離さずに言った。
「……もったいなき、お言葉に……」
「わたくしはな、酒井」 家光は、静かに続けた。 「無能な者は、嫌いではない。使い道がある。 ……だが、わたくしを裏切った者は、許さぬ」
酒井の全身が、石のように硬直した。
家光は、そこで初めて顔を上げ、冷徹な目で酒井を射抜いた。 「……お前が、弟・忠長と何を企んでいたか、すべて知っている」
「ひ……っ」 酒井は、観念した。 彼は、その場で平伏し、床に額を叩きつけた。 「……お、お許しを……! わたくしめは、御台所様の勢いに、逆らえず……! 魔が差したのでございます!」
「顔を上げよ」 家光の冷たい声が響く。
「……わたくしは、お前を、今すぐ『掃除』することができる」
(……掃除……?) 酒井は、その不気味な言葉の響きに、背筋が凍るのを感じた。 (……先日急死した、板倉のように、か……!?)
「だが」と家光は続けた。 「お前のような古狸を、ここで捨てるのは、惜しい」
酒井は、目を見開いた。 (……生かされる……?)
「お前に、道をやろう」 家光は、懐から、あの「密書の原本」を取り出した。
「……!」 酒井は、息を呑んだ。
「これ(=密書)を、お前の手で、父上(=秀忠)に差し出せ」
「な……!」 酒井は、家光の言葉の意味が、一瞬理解できなかった。 自分の「罪」を、自分で「告白」しろ、というのか。
「……そ、それをすれば、わたくしめは……!」
「お前は助かる」 家光は、冷ややかに言った。 「お前は、『弟の謀反の証拠』を掴み、将軍の知らぬところで、大御所様(=秀忠)に『忠告』しようとした、『忠臣』となる」
酒井は、戦慄した。 (……こ、この御方は……悪魔か……!)
これは、粛清ではない。「強奪」だ。 家光は、酒井の「罪」を白紙に戻す代わりに、 酒井が、今後一切、家光に逆らえないようにする、完璧な「首輪」を付けようとしている。
「どうする、酒井」 家光は、最後の通告をした。 「ここで『忠長派』としてわたくしに『掃除』されるか。 それとも、『忠臣』として、わたくしの『犬』になるか」
酒井に、もはや選択肢はなかった。 彼は、震える手で、自らの「断罪状」であり、同時に「命の綱」でもある、その密書を受け取った。
「……こ、この酒井 雅楽頭……! 生涯、上様の……『犬』として……!」 老中筆頭が、音を立てて「影」に屈した瞬間だった。 幕閣の「掃除」は、血を一滴も流さず、完了した。
(同日・江戸城 本丸大奥)
一方、大奥では、もう一つの「掃除」が、公然と行われていた。
「春日局様の、お成りにございます!」
大奥の畳が、擦り切れるほどの音を立て、数百の女中たちが一斉に平伏する。 その中心を、家光の乳母・春日局が、冷厳な表情で歩いていた。
江が「静養」に入って以来、家光は、大御所・秀忠の(『蜜』を通じた)暗黙の了解のもと、 「大奥の全権」を、春日局に委任した。
春日局は、今や、名実ともに、この「女の城」の絶対君主となった。 そして、彼女は、家光との「密約」を遂行するため、即座に動いた。
「……御台所様付き、御年寄・滝山」
「は……はっ」 江の側近であった女が、震えながら顔を上げた。
「そなた、大奥の金子(きんす)を横領し、実家に流しておったそうだな」 春日局が、淡々と告げる。
「な……! そ、そのような事実は……!」
「黙りなさい」 春日局の声は、氷のようだった。 「証拠は上がっておる。……そなたは、本日をもってお役御免。江戸追放の上、実家は取り潰しと心得よ」
「そ……そんな……!」 悲鳴を上げる滝山は、即座に引っ立てられていった。
(……恐ろしい) (……春日局様は、わたくしたちの不正の証拠を、いつの間に……!)
女中たちは、知る由もなかった。 その「証拠」を集めていたのは、『霞』の諜報と、『杭』の脅迫によって屈した下っ端の女中たちであったことを。
家光の「影」が、春日局という「光」の「刃」となり、大奥の「掃除」を代行しているのだ。
春日局は、次から次へと「江・忠長派」の女中たちを、容赦なく断罪していく。 大奥は、恐怖に支配された。
そして、すべてが終わった後。 春日局は、平伏する女中たちの中に、一人、見慣れぬ女がいることに気づいた。 「保護」した、あの元・板倉派の娘――『お絹』である。
『お絹』は、この恐ろしい「粛清」を目の当たりにしながら、ただ一人、震えるでもなく、静かに春日局を見つめていた。
「……お絹」 春日局が、声をかけた。 「……恐くはないか」
「……はい」 お絹は、静かに答えた。 「わたくしを『道具』として育ててくださると、局様は仰いました。 ……道具に、心はございませぬ」
その「覚悟」の決まった目を見て、春日局は、満足そうに頷いた。 (……上様の見立て通り、良い『素材』だ)
春日局は、この「掃除」で空いた「穴」に、自らが育てた女たちを配置し、家光のための「別の大奥」計画を、着々と進めていく。
「表」の大奥も、「裏」の幕閣も。 家光は、この数日で、二つの権力の「掃除」を完了し、江戸城を、完全なる「自分の城」へと変えていった。
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