第十一章:一輪の花と、枯れる母

(寛永二年・江戸城 本丸・大御所寝所)


その夜、大御所・徳川秀忠の寝所は、嵐の前の静けさではなく、嵐そのものの直中にあった。


「―――御台っ! 声を落とせ!」 秀忠の、疲れと苛立ちを含んだ怒声が響く。


「なぜ落とさねばなりませぬか!」 御台所・江(ごう)が、美しい顔を涙と憎悪で歪め、夫に詰め寄っていた。 「上様(家光)は、ご乱心にございます! 罪も無き老中(酒井忠世)の屋敷を、手勢に襲わせるなど……! あれは、父である貴方様への、明らかな謀反にございますぞ!」


「……乱心と決まったわけではあるまい!」 秀忠は、妻のヒステリックな言葉を、なんとか理性で押さえ込もうとする。 「酒井の屋敷に火付け強盗が入ったと、わしは聞いている。それがなぜ、家光の仕業と決まった!」


「お分かりになりませぬか!」 江は、ついに床に泣き崩れた。それは、計算され尽くした「母」の武器だった。 「あの子(家光)は、昔から、弟の忠長を妬んでおりました! 酒井は、忠長の後見として、あの子の才を認めていただけにございます! ……これは、忠長派への『見せしめ』なのです!」


江は、秀忠の足元にすがりついた。 「お願いにございます……! このままでは、忠長の命が危うございます! 駿河にいるあの子を、一刻も早く、江戸へ……父である貴方様のお側へ、お召しくださいませ!」


「……う……ぐ……」 秀忠は、言葉に詰まった。 妻の涙は、彼の何よりの弱点だった。 (……家光が、そこまでの暴挙に出るか? いや、しかし……江がこれほどまでに取り乱すとは……)


秀忠の心が、「息子への疑念」と「妻への情」の間で、激しく揺れ動いていた。


「……わかった。……わかった、江。明日、酒井本人を呼び、事実を改めて……」 「いいえ! 今すぐ、今すぐお約束を!」


「しつこい!」 秀忠が怒鳴りつけた、その時だった。


「―――大御所様」


鈴が鳴るような、しかし、すべてを諦めたかのような静かな声が、嵐を止めた。 『蜜』が、いつものように一輪の花を挿した竹筒を盆に乗せ、部屋の隅に控えていた。


江が、ギロリと『蜜』を睨みつけた。 (……こやつか。近頃、父上の寵を独り占めにしているという、あの『松の廊下』の女中は……!)


「……なんじゃ」 秀忠は、江の手を払いのけ、気まずそうに言った。 「見ていたか。……恥ずかしいところを」


「……いいえ」 『蜜』は、静かに首を振った。 彼女は、その怯えたような瞳で、江のほうをチラリと見て、すぐに目を伏せる。 その「演技」が、江の怒りに、さらに火を注いだ。


「下がりなさい、下賤の者!」 江が、金切声を上げた。


「無礼であろう、江!」 秀忠が、自分の「安息」を庇う。 「……蜜、近う寄れ。今宵の花か」


「は……はい」 『蜜』は、怯えながら、秀忠の側に膝を進めた。


(……『蝉』から、お預かりした『神(=家光)』の御言葉。) (……『蜜』に任せる。……今夜が、山場だ、と)


『蜜』は、盆から竹筒を取り上げようとした。 その、刹那。


『蜜』の震える袖から、一通の書状が、ハラリと畳に落ちた。 家光が作らせた、「偽りの書状(うつし)」だった。


「―――っ!!」


『蜜』の顔が、恐怖で蒼白になった。 彼女は、まるでこの世の終わりのように慌てふためき、その書状を掴み、即座に袖の奥深くへと隠した。


「……何だ?」 秀忠の、低い声が響いた。


「い……いいえ! 何でもございませぬ!」 『蜜』は、ガタガタと震え、平伏した。 「わ、わたくしめが、先ほど廊下で拾いました、ただの反故紙(ほごがみ)にございます! ど、どうか……!」


その狼狽ぶり。 隠そうとする、必死の形相。 それが、秀忠の疑念に火をつけた。 (……ただの反故紙で、あれほど狼狽するか?)


「蜜。……出せ」


「ひっ……! お許しを……! 何でもございませぬゆえ……!」


「出せと言うておる!」 秀忠の怒声が響いた。 それは、大御所としての、絶対的な命令だった。


江も、事の異常さを見て、黙り込んでいる。 『蜜』は、泣きながら、震える手で、その書状を秀忠の前に差し出した。


秀忠は、書状を引ったくるように取り上げ、灯りに翳した。


『雅楽頭が忠節、違えあるまじく候。 時来らば、天下の政、兄に替わり、卿と議らん。 ―――駿河大納言 忠長』


秀忠の呼吸が、止まった。 全身の血が、一瞬で逆流する。


江も、その書状の恐るべき内容を読み取り、顔から血の気を失った。 (……な、なぜ……なぜ、盗まれた「原本」が、こ、この女中の手に……!?)


「……これ、は……」 秀忠の声は、かすれていた。 「……これを、どこで……拾った」


『蜜』は、ただ泣きじゃくりながら、震える指で、江が今しがた退いてきた、廊下の方向を指さした。 「……御台所様が……お通りになられた、後に……廊下の、隅に……」


その瞬間、秀忠の頭の中で、すべてが繋がった。


(……江は、家光が酒井を襲ったと、わしに泣きついた) (……だが、その酒井は、忠長と、こんな『密約』を交わしていた) (……そして、江は、その『証拠』を、今、この部屋に来る途中に落とした)


(……つまり)


(……江は、「家光の暴挙」を訴えに来たのではない) (……江は、「忠長の謀反」が家光に露見したと知り、その「証拠」を持って、わしに泣きつきに来たのだ!)


(……忠長を江戸に呼べ、だと?) (……わしを騙し、謀反の片棒を、このわしに担がせるつもりだったのか!)


「……あ……」 江は、秀忠の顔色が「怒り」から、底の知れない「絶望」と「嫌悪」に変わっていくのを見て、後ずさった。 「ち、違います……! 父上! そ、それは、わたくしが落としたものでは……!」


「黙れ」


秀忠の、地を這うような声が響いた。


「……黙れ、江」


秀忠は、妻の必死の弁明には目もくれず、その書状を、蝋燭の火に翳した。 家光が仕掛けた「仕掛け」。 その紙は、蔵人が特殊な薬液で処理した「偽書」だった。


火に炙られた書状の裏に、忠長の筆跡とは別の「文字」が、黒く、不気味に浮かび上がってきた。


『酒井が物。江が物。』


「……あ……あ……」 江は、腰を抜かした。 なぜ、そんな文字が浮かび上がるのか、理解できなかった。 それは、家光が仕込んだ「証拠の偽装」――この書状が「酒井を経由して、江の手に渡った」ことを示す、決定打だった。


「……わしを」 秀忠は、燃え上がる書状を見つめながら、震える声で言った。 「……わしを、どこまで、馬鹿にする……」


「父上! 違います! 罠です! 家光の……!」


「―――出て行け」


秀忠は、もはや妻の顔を見ていなかった。 「……二度と、わしの寝所に、足を踏み入れるな」


江のすべてを支えてきた「自信」と「権力」が、音を立てて崩れていった。 彼女は、何も言い返せず、まるで亡霊のように、よろよろと寝所を後にした。


部屋には、重い沈黙が落ちた。 秀忠は、燃え尽きた書状の灰を、ただ見つめている。


「……大御所様」 『蜜』が、おずおずと声をかけた。


「……」


「……今宵のお花に、ございます」 『蜜』は、何事もなかったかのように、一輪の花を、秀忠の目の前に差し出した。 それは、あの日、松の廊下で見つけたのと同じ、名も無き野の花だった。


秀忠は、ゆっくりと顔を上げた。 彼の目に映っていたのは、妻への怒りでも、息子への裏切りでもない。 すべてを失った男の、深い「疲労」と、 そして、この「一輪の花(=蜜)」だけが、自分の唯一の「真実」であるかのような、狂気に近い「安堵」だった。


(……この女だけだ) (……わしに、何も求めぬのは)


秀忠は、震える手で、花ではなく、『蜜』の手を、強く、強く、握りしめた。

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