第十章:泳ぐ狸と、母の『影』
(寛永二年・江戸 酒井忠世屋敷・翌朝)
朝日が、焼け焦げた屋敷の無残な姿を照らし出していた。 昨夜の火事は「ボヤ」で済んだが、老中・酒井忠世の心に広がった火は、消えるどころか、身を焦がすほどの恐怖となって燃え盛っていた。
「……ない」 「……ない、ない、ない……!」
焼け残った土蔵の奥。 酒井は、狂ったように床板を引き剥がし、空になった隠し金庫を見つめていた。
金銀は手つかずだった。 帳簿も無事だった。 唯一、無くなっていたのは、あの「書状」――弟・忠長から託された、謀反の密約書だけだった。
「……盗まれた」 酒井の顔から、血の気が引いていく。
昨夜の賊。あれは単なる盗賊ではない。 ましてや、外様の間者でもない。 あの正確さ。あの手際。
(……公儀隠密。……いや、まさか)
酒井の脳裏に、若き将軍・徳川家光の、冷徹な能面のような顔が浮かんだ。 あのような「飾り物」の若造に、これほどの「牙」を持つ手駒がいるはずがない。 だが、もしそうなら……。
(……わしは、終わる) (書状が公(おおやけ)になれば、切腹はおろか、お家断絶。忠長卿もただでは済まぬ)
酒井は、脂汗を拭った。 この事態、大御所・秀忠には口が裂けても言えない。秀忠は忠長を溺愛しているが、「徳川への謀反」となれば話は別だ。あの生真面目な大御所は、わしを切り捨てるだろう。
「……あの方しか、おらぬ」
酒井は、震える足で立ち上がった。 この絶体絶命の窮地を救える権力者は、江戸城に、あと一人しかいない。 溺愛する忠長のためならば、鬼にも蛇にもなる、あの方しか。
(同日・江戸城 本丸大奥)
「……なんですって?」
御台所・江の鋭い声が、煌びやかな御殿に響いた。 人払いされた一室で、酒井忠世は、畳に額を擦り付けていた。
「も、申し訳ございませぬ……! 昨夜、何者かが屋敷に押し入り……あろうことか、忠長卿よりお預かりした『あの大事な書状』を……」
江の美しい顔が、憤怒に歪んだ。 彼女は、家光の実母でありながら、病弱で吃音のある兄・家光を疎(うと)み、才気煥発(さいきかんぱつ)な弟・忠長を偏愛していた。
「……家光ですね」 江は、即座に断じた。
「あの子が……あの陰気な子が、ついに正体を現しましたか。母の私にも、父の太閤殿下(=秀忠)にも隠れて、こそこそと『牙』を研いでいたとは……!」
「は、はい……! おそらくは……」 酒井は、自分の失態を棚に上げ、江の憎悪を家光へと誘導した。 「このままでは、書状を楯に、上様は忠長卿を……そして私めを、断罪なさるおつもりでしょう」
「させません!」 江が、扇子を床に叩きつけた。 「忠長は、私の命です。あの子を傷つける者は、例え将軍であろうと、兄であろうと、この母が許しません」
江の目に、狂気じみた決意の光が宿る。
「雅楽頭(=酒井)。書状のことは、私がなんとかします。 ……いいえ、むしろ好機です」
「……は?」
「家光が、そのような『不穏な動き』を見せている今こそ……忠長を、江戸に呼び戻すのです」
酒井は息を呑んだ。 駿河にいる忠長を、江戸城へ。それは、家光との全面対決を意味する。
「大御所様(秀忠)には、私が申します。『家光が乱心し、罪なき老中を襲わせている。忠長の身も危ない』と。 ……あの人は、私の涙に弱いのですから」
江は、冷ややかに微笑んだ。 「忠長が江戸に入れば、幕閣の大半はあの子になびきましょう。そうすれば、書状の一枚や二枚、どうとでも握り潰せます」
「……おお……! なんと心強きお言葉……!」 酒井は、感涙にむせび泣くふりをして、内心で安堵の息を吐いた。 (助かった……。御台所様が動けば、大御所様も動く。家光ごとき、手も足も出まい)
だが、二人は気づいていなかった。 その会話が、天井裏の『影』――ではなく、 次の間に控えていた、一人の「新しい女中」の耳に、すべて拾われていることに。
『蜜』の相棒。 影の薄い、気配を消すことに関しては『霞』にも劣らぬ女。 『蝉』が、茶器を片付けるふりをしながら、そのすべてを記憶していた。
(同日・西ノ丸 家光の書院)
「……釣れたな」 報告を聞いた家光は、表情一つ変えずに呟いた。
家光の前には、『蝉』が平伏している。
「酒井という狸は、泳ぎ疲れて、もっと大きな『岩』にしがみついた。 ……母上か。想定通りだ」
家光の目には、実母が自分を陥れようとしていることへの悲しみなど、微塵もなかった。 あるのは、盤面の駒が動いたことへの、冷徹な確認だけだ。
「母上は、忠長を江戸に呼ぶとおっしゃったか」
「はっ。大御所様(秀忠)に泣きつき、裁可を得るおつもりのようです」
「……好都合だ」 家光は、冷ややかに笑った。
「駿河にいられては、手が出しにくい。 ……忠長(えもの)が自ら、俺の『檻(おり)』に入ってくるとはな」
家光は、次なる一手を命じた。
「蝉。父上(秀忠)の元へ戻れ。 『蜜』に伝えよ。……今夜が、山場だ、と」
「母上(江)は、必ず父上に余の暴挙を訴え、忠長召喚を願うだろう。 ……だが、父上の心には、すでに『蜜』という毒が回っている」
家光は、懐から、昨夜『霞』が持ち帰り、蔵人に命じて即座に作成させた「偽りの書状」を取り出した。 一見すると、忠長の密書そのものに見える。 だが、そこには家光だけが知る、致命的な「仕掛け」が施されていた。
「これを、『蜜』に渡せ」 家光は、『蝉』に偽書を託した。
「母上(江)が父上(秀忠)に涙ながらに訴えた、その直後。 ……『蜜』に、これを父上の目に触れさせろ」
「……使い方は?」
「『蜜』に任せる。あやつならば、最も効果的な『演出』を知っているはずだ」
家光は、虚空を見つめた。
「狸(酒井)も、虎(忠長)も、そしてそれを守る母(江)も。 ……今夜、まとめて『網』にかける」
「御意」
『蝉』は、偽りの書状を懐に収め、音もなく姿を消した。 西ノ丸の書院には、家光の冷たい殺気だけが、静かに澱(よど)んでいた。
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