第八章:古狸(ふるだぬき)の蔵
(寛永二年・江戸 闇)
その夜、江戸の闇は、幕府の権力構造そのものと同じくらい、深く、冷え切っていた。
『蝉』が家光の御前を退いてから、一刻も経たぬうち。 二つの影が、広大な屋敷の瓦屋根の上に、音もなく降り立っていた。
幕府老中・酒井雅楽頭忠世(さかい うたのかみ ただよ)の屋敷。 「古狸(ふるだぬき)」とあだ名される、忠長派の首魁(しゅかい)が棲む、牙城である。
「……霞。見えるか」 片腕の巨漢、『牙』が、その異様に太い左腕を抱きながら、低い声で問うた。
「……見える」 『霞』と呼ばれた男は、闇に目を凝らす。 かつて拷問で痛めつけられた足を引きずっていた面影は、今や、その不自由さを利用して音を殺す、独特の
「……警護は、表に六。裏に四。屋根裏に、おそらく二人。 そして……あの蔵だ」
『霞』が指し示した先、屋敷の最も奥まった一角に、不気味なほど巨大な土蔵がそびえ立っていた。
「……蔵の周囲に、三つ。『音(ね)』が仕掛けてある。……あれは、伊賀の古い『罠』だ」
「……蔵人殿から習った型か」 『牙』が、フン、と鼻を鳴らす。
「どう破る」
「破らない」 『霞』は、冷たく答えた。 「『霞』は、ただ、すり抜ける」
言うが早いか、『霞』の姿が屋根から消えた。 彼は、屋敷の壁に張り付くと、まるで重力がないかのように、音もなく地面に降り立つ。 そして、警護の侍が欠伸をし、ほんの一瞬、注意が逸れた「隙間」を縫って、蔵の前まで到達していた。
『霞』は、蔵の周囲に張り巡らされた、目に見えぬほどの細い「糸(=罠)」の前にかがみ込む。 それは、蔵人から教わった、伊賀の秘伝。 だが、『霞』の目は、その罠の「型」そのものではなく、罠を仕掛けた人間の「癖」を読んでいた。
(……この張り方は、几帳面だが、大胆さに欠ける) (……型通り、三カ所。ならば、「型」の外側……)
『霞』は、罠と罠の、常人ではけして「隙間」とは認識しない、わずかな空間に、泥に溶け込むように身を滑り込ませた。
―――カツン。
その時、警護の侍の背後で、かすかな音がした。
「……!」 侍が、蔵の方に異変を感じて、振り返る。
だが、侍の目に映ったのは、闇にそびえる土蔵だけだった。
(……気のせいか) 侍が、再び背を向けた、その瞬間。
彼の真後ろ、闇の最も濃い部分に、『牙』が、音もなく立っていた。 侍が、次の呼吸をするよりも早く、『牙』の巨大な左手が、侍の口と鼻を、寸分の隙もなく、完璧に覆い尽くす。
「……っぐ」
侍の首の骨が、圧縮された空気が破裂するような、鈍い音を立てた。
『牙』は、絶命した侍の体を、まるで赤子でも抱くかのように軽々と抱え上げ、音もなく茂みに横たえた。
(……『霞』は、潜入。俺は、掃除。) (……主君の、御命令だ)
『牙』は、蔵の前で「鍵」と格闘する『霞』の背後を守るように、静かに仁王立ちになった。
「……霞。まだか」
「……待て。この錠前、南蛮製の『罠』が仕込んである」 『霞』は、細い針金のような道具を、鍵穴に差し込み、内部の構造を探っていた。 (……まずい。これを無理に開ければ、内部の『鈴』が鳴る)
『霞』の額に、冷たい汗が浮かぶ。
その時。 「……どけ」 『牙』が、『霞』を押しけるように前に出た。
「馬鹿か! 鳴るぞ!」
「鳴らさねば、よかろう」 『牙』は、鍵穴に、針金よりも太い、鋼鉄の「
そして、常人の倍はあろうかという左腕の筋肉が、ゆっくりと、しかし確実に、隆起していく。
「……お前の『技』では、間に合わん。 ……俺の『力』で、罠が作動する『前』に、錠前そのものを、内側から『圧し壊す』」
―――グ……。 ―――グググ……。
『牙』の全身から、汗が湯気のように立ち上る。
―――ミシリ……。 ――――ギ……。
金属が、悲鳴を上げるか上げないか、その寸前。
―――ボギッ。
恐ろしく鈍く、湿った「破壊音」が響いた。 錠前は、その役目を保ったまま、内部の機構だけが、完璧に「破壊」された。
南蛮の『鈴』は、鳴る機会すら与えられなかった。
「……行け」 『牙』が、汗を拭いもせず、扉を開く。
蔵の中は、カビ臭い「権力」の匂いで満ちていた。 大名からの賄賂。違法な交易の帳簿。
「……多すぎる」 『霞』が、無数の巻物と書状の山を前に、呟いた。
「主君の命令を忘れたか」 『牙』が、冷ややかに言った。 「『何でもよい、一つ』だ」
『霞』は、ハッとし、思考を切り替えた。 (……そうだ。俺の仕事は、「探す」こと)
『霞』の目が、常人では追えない速さで、巻物の表題を「読まず」に「認識」していく。
(……ない) (……ない) (……酒井ほどの古狸が、「忠長」の名を、こんな場所に置くはずが……)
『霞』の目が、蔵の床に敷かれた、一枚の「畳」で止まった。 そこだけ、他と、色が、わずかに違う。
『霞』が畳を剥がすと、隠された「床板」が現れた。
『牙』が、無言で、その床板に「楔」を打ち込み、凄まじい力で引き剥がす。 隠し金庫だ。
中には、黒漆の小箱が、一つだけ。
『霞』が、その小箱を開ける。 中には、一通の「書状」だけが、大切に納められていた。
『霞』は、その書状を開き、月明かりに照らした。 そこには、酒井の筆跡ではなかった。 優雅な、しかし力強い筆跡で、こう書かれていた。
『雅楽頭が忠節、違えあるまじく候。 時来らば、天下の政、兄に替わり、卿と議らん。 ―――駿河大納言 忠長』
「……!」 『霞』は、息を呑んだ。 酒井が、忠長と交わした「起請文(きしょうもん)」ではない。 忠長から、酒井に宛てた、「密約の書状」そのものだ。
「……獲物だ」 『牙』が、その書状を見て、獣のように喉を鳴らした。 「それこそが、主君が求められた『餌』だ」
『霞』は、その書状を、寸分の迷いもなく懐に収めた。
その、刹那。
「―――
屋敷全体を揺るがす、甲高い声が響き渡った。 寝所の窓が開き、寝間着姿のままの「酒井忠世」が、蔵の方を指差していた。
『牙』が殺めた侍が、定時の「合図」を返さなかった。 その、コンマ数秒の「ズレ」を、この古狸は、見逃さなかったのだ。
「『牙』!」 『霞』が叫ぶ。
「わかっている!」 『牙』は、『霞』の体を掴むと、そのまま蔵を飛び出し、屋敷の壁に向かって、最短距離を突っ走る。
「射てっ! 射て放てっ!」 酒井の怒号が飛び、四方八方から矢が飛んでくる。
「―――フンッ!!」 『牙』は、飛んでくる矢を、その巨大な左腕で、なぎ払う。 数本が、腕や肩に深々と突き刺さるが、男は速度を一切緩めない。
「霞! 『証拠』は、死んでも守れ!」 「言うな!」
『牙』は、五間(約9メートル)はあろうかという塀を前にしても、止まらなかった。 彼は、塀の手前で『霞』の体を、まるで砲弾のように塀の上へと投げ飛ばした。
『霞』が、宙を舞い、塀の上に掴まる。 その直後、『牙』の足元に、追いついた侍たちの槍が、三本、同時に突き込まれた。
「……ぐ……!」 『牙』は、自らの足を貫いた槍の穂先を、その左手で掴むと、 「……お前たちの牙は、こんなものか……!」 槍ごと、三人の侍を、屋敷の内側に引きずり倒した。
「牙っ!」 塀の上から、『霞』が叫ぶ。
「行けっ! 主君の元へ! ……これしきの『傷』、非人の頃に比べれば、ただの『泥』だ!!」
『牙』は、血の海の中で笑い、塀によじ登ろうとする侍たちの足を、その片腕で掴み、折り続けていた。 『霞』は、一瞬ためらった。 だが、懐の「書状」の重さを確かめると、主君の命令を、己の感情よりも優先させた。
「……必ず、戻れ」 その一言を残し、『霞』の姿は、江戸の闇へと消えていった。
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