第七章:毒の閨(ねや)と、最初の「名」

(寛永二年・江戸城 本丸)


「お蜜」という名の、一輪の野花。


大御所・徳川秀忠は、あの日以来、毎夜「松の廊下」を渡る自らの足音が、日ごとに軽くなっていることに気づいていた。


妻・江(ごう)の御殿で、弟・忠長への加増や幕政への口出しを(うんざりするほど)聞かされた後でも、あの廊下の中央には、必ず「それ」があったからだ。


粗末な竹筒に、名も知らぬ季節の草花。


そして、その傍らで、ただひたすらに火消し壺を磨き、主の安らぎだけを祈る、あの女(お蜜)がいた。


秀忠にとって、それは唯一の「安息」だった。 この世の誰もが自分に「何か」を要求してくる中で、あの女だけが、何も求めなかった。


そして一週間が過ぎた夜。


「……蜜、と申したな」 秀忠は、初めて自ら足を止め、その女に声をかけた。


「は……はい! お、お蜜に、ございます」 お蜜は、いつものように恐怖に震える(完璧な演技の)声で平伏する。


「……顔を、上げよ」


お蜜が、おずおずと顔を上げる。あかりに照らされたその顔は、半分に影(=かつての傷)を帯びており、それがかえって秀忠の心を強く惹きつけた。完璧な美しさではない、この「陰り」こそが、自らの疲れた心と共鳴する気がした。


「……お前、火消し壺を磨くには、惜しいな」 秀忠は、短く言った。


「今宵、わたくしの寝所で、酒の相手をせよ」


それは「命令」であり、同時に、この国の頂点に立つ男が見せた、ほんのわずかな「懇願」の響きを帯びていた。


「……もったい、なき……お言葉にございます」 『蜜』は、恍惚と、しかし震えながら、その命を受けた。


天井裏の闇の中。『蝉』は、秀忠の心音が、この一週間で完全に「お蜜」という毒に侵されたことを、静かに確認していた。


(……第二段階、完了)


(同刻・秀忠公 寝所)


大御所の寝所は、静まり返っていた。 『蜜』は、薄雲に叩き込まれた全ての「技」を、完璧に実行した。


彼女は、語らない。求めない。 ただ、秀忠の酒が空になれば、音もなく注ぎ。 秀忠が、疲れたように肩を回せば、その背後に回り、絹ごしに、しかし的確に凝りをほぐしていく。


その指先から伝わる「献身」に、秀忠の強張っていた心身が、ゆっくりと溶けていく。


「……お前は、不思議な女だ」 秀忠は、目を閉じたまま、ぽつりと言った。


「誰もが、わしに何かを求めてくる。……江も、忠長も、幕臣どもも。だが、お前は何も求めぬ。何も語らぬ」


『蜜』は、その背中に手を置いたまま、静かに答えた。 「……わたくしめは、大御所様が、今宵、安らかにお休みになれれば、それ以上の望みはございませぬ故」


その「無償」の言葉が、秀忠の最後の理性を、完全に麻痺させた。 彼は、ゆっくりと振り返り、その妖しい影を持つ女の手を取り、自らの寝具へと引き入れた。


闇の中、『蜜』の唇が、冷ややかに歪む。 (……師匠。お教え通り、この男、「安らぎ」に飢えておりました)


そして、彼女は、家光から渡された「小瓶(=経口避妊薬)」を、寝所に来る直前に飲み干していたことを、冷静に思い出していた。


(……この身は、あの方(家光)の『毒』。決して、新たな『火種』は産まぬ)


(半刻後・寝所)


男としての役割を終え、秀忠は、珍しく深い満足感に包まれていた。 『蜜』の「技」は、秀忠がこれまで大奥で経験してきた、どの女とも異なっていた。それは「奉仕」ではなく、相手の魂を内側から支配する、甘美な「毒」だった。


秀忠は、腕の中にいる『蜜』の髪を撫でながら、この日溜まっていた「鬱屈(うっくつ)」を、この安全な「器(うつわ)」に吐き出し始めた。


「……まったく、江も困ったものだ。忠長の駿河五十万石では、まだ足りぬと申す。……あやつは、兄(家光)を軽んじすぎている」


天井裏の『蝉』の耳が、ピクリと動いた。


『蜜』は、ただ黙って、秀忠の胸に顔をうずめている。


「……それに、あの男だ」 秀忠は、忌々しげに呟いた。 「酒井雅楽頭(=酒井忠世)め。……先ごろ急死した板倉が、ただ不運だっただけだ、などと申して、わしをたきつけおって」


―――カタン。 天井裏で、『蝉』の全身が、その「名」に集中する。


「『忠長卿こそ、真の武家の棟梁なれば、今少し、力をお与えすべき』……か。あやつは、わしと家光の仲を裂きたいだけよ」


秀忠は、自らの愚痴が、そのまま家光の「影」に吸い上げられているとは知らず、『蜜』の温もりの中で、ゆっくりと眠りに落ちていった。


(翌朝・江戸城 西ノ丸)


家光が、書院で一人、瞑目めいそうしている。 その静寂を破り、部屋の隅の「影」が、まるで水面に浮かび上がるように、人の形を成した。


『蝉』だった。


「……御前に」 その、か細い声が、家光の目を開かせた。


「申せ」


「昨夜、大御所様(秀忠公)の寝所にお召しが。……『蜜』は、任務を完遂いたしました」


「……そうか」 家光の表情は、変わらない。実の父の寝所に、自らの「毒」が潜り込んだことへの感慨は、一切なかった。


「『名』は」 家光が、短く問う。


『蝉』は、主君の真の目的を、的確に報告した。


「最初の『名』、にございます。 『酒井 雅楽頭 忠世』」


「……酒井、か」 家光の口元が、わずかに吊り上がった。 幕府の重鎮、老中筆頭格。忠長派の、まさに「大物」だ。


「……『蜜』が釣り上げたにしては、初手から、大物すぎるな」


「もう一つ」と『蝉』は続けた。 「『お絹』の件。……春日局様は、表向き『保護』したお絹を、西ノ丸付きの『呉服の間』に配属。大奥のしきたりと、『政(まつりごと)の裏』を、密かに仕込んでおられます」


「……そうか。あの怪物(春日局)も、忠実(まめ)に『道具』を研いでおるか」 家光は、満足げに頷いた。


(板倉を「掃除」し、その駒(お絹)を奪い、春日局の「別の大奥」計画用の手駒とする――) (同時に、「掃除」したことで空いた『穴』を埋めようと、本命(酒井忠世)が自ら『影』の前に姿を現した――)


全てが、家光の筋書き通りに進んでいた。


「蝉。蔵人に伝えよ」 家光は、冷徹に、次なる一手を命じた。


「『牙』と『霞』を、酒井忠世の屋敷に放て。 ……殺すな。まだだ」


「……では、何を」


「あの老獪な古狸が、忠長と交わした『起請文(きしょうもん)』……あるいは、外様と通じた『証拠(しるし)』。それを、何でもよい、一つ、掴んでこい」


家光は、立ち上がった。 「酒井忠世(さかいただよ)は、俺の『父』を動かす道具に過ぎん。 俺が欲しいのは、酒井の『命』ではない。 酒井の背後にいる、『真の敵』を引きずり出すための……」


「『餌』だ」


「御意」


『蝉』は、再び「影」となり、主君の新たな密命を遂行するため、闇に消えた。

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