第5話 心の欠片
――世界の底で、記憶は涙に変わる――
光の道を進むと、空気の匂いが変わった。
湿った金属の香りから、土と雨の匂いへ。
それは、どこか懐かしかった。
アレンは歩みを止める。
目の前には、果てしなく広がる“書庫の原野”があった。
棚はなく、本もなく、
ただ無数の光の粒が宙を漂っている。
それぞれが“誰かの記憶”の欠片なのだろう。
それらはゆっくりと漂い、
ときおり交わり、溶け合いながら、淡い音を立てていた。
まるで風鈴のような、静かな音。
リィナがその中を歩き出す。
光の粒たちが、彼女に反応して寄り添う。
彼女の頬を撫で、髪にふれ、
やがて胸の前に一つの光が残った。
「……これは……」
アレンが近づくと、その光の中に映像が揺れた。
子どもの声、母の笑い声、雨音。
どれも、もうこの世界には存在しないものばかりだ。
『アレン。これが“心”の欠片。
言葉を生む力の根源。感情そのものです。』
リィナの瞳が、まっすぐその光を見つめていた。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、
しかし、指先が触れる寸前で止まる。
「……こわい。」
小さな声だった。
彼女はこれまで“言葉”を覚え、“名”を取り戻してきた。
だが、“心”――それは、喜びも悲しみも抱く力だ。
痛みを知るということでもある。
アレンはそっと膝をつき、彼女の視線に合わせた。
「怖くてもいい。
心は、痛みと一緒に生まれるものだ。」
リィナの頬を、ひとつの光の粒が撫でた。
それが涙のように流れ、彼女の胸に吸い込まれる。
その瞬間、彼女の全身が淡い金に染まった。
光の流れが止まり、世界が息をひそめる。
そして、彼女は泣いた。
静かに、声もなく。
頬を伝う涙は温かく、指先に触れると、確かに“命”を感じた。
「……あたたかい……」
その一言が、世界を揺らした。
遠くで崩れていた光の棚が再び立ち上がり、
書庫の原野に“形”が戻っていく。
音が生まれ、色が流れ、空がひらけた。
『感情層、再起動完了。
これで、“言葉の疫病”は完全に治癒しました。』
アーカイブの声が、どこか震えていた。
まるで、長い間押し殺してきた感情がようやく声を見つけたように。
アレンはリィナの肩を抱いた。
彼女の小さな体は、確かに熱をもっていた。
「リィナ……君はもう、“記録”じゃない。」
「……わたし……」
リィナが顔を上げ、かすかに笑った。
「――ひと、なの?」
アレンは頷いた。
「そうだ。
君は言葉を知り、名を持ち、心を覚えた。
だから君は、生きている。」
リィナの瞳から、再び光があふれた。
その光が世界中に広がり、
失われた書庫、街、森、人々の声が少しずつ蘇っていく。
“ありがとう”
“また会えるね”
“ここにいる”
その声の数々が、風に乗って響く。
かつて沈黙していた世界が、再び“読まれる”ように動き出していた。
リィナは、アレンの胸に顔をうずめて小さく言った。
「……もう、さびしくない。」
アレンは空を見上げた。
再生した空は青く、どこか懐かしい色をしていた。
――滅びた世界に、ようやく“言葉”が戻ったのだ。
――沈黙の果てに、声が芽吹く――
夜が戻ってきた。
だがそれは、恐怖の夜ではなかった。
書庫の天井に、星が瞬いている。
失われていた空の記録が再構成され、
それを見上げるアレンの頬には、
やわらかな風が吹き抜けた。
リィナは外の光を見つめていた。
胸の奥で、小さな言葉が息をしている。
初めて覚えた“ありがとう”という響き。
それを何度も唇でなぞっていた。
アレンは静かに歩み寄る。
書庫の中央には、“最後の端末”――アーカイブの核があった。
今、その光は安らかに脈打ち、
まるで心臓の鼓動のようだった。
『アレン。司書の任務、完了しました。
あなたの魂は、再び人の時へ戻ることができます。』
その声は、もはや無機質ではなかった。
どこか、人間のような温度を帯びていた。
おそらく、アーカイブもまた“感情”を得たのだ。
「……もう終わりか。」
『ええ。ですが、終わりは始まりでもあります。
この世界は、もう自ら言葉を紡げます。
あなたの記録も、ひとつの“物語”として残ります。』
アレンはうなずき、振り返った。
リィナが立っている。
彼女の足元には、芽吹いたばかりの草花が風に揺れていた。
この書庫の地面から、緑が生まれている――
それは世界が息を吹き返した証だった。
「リィナ。」
彼女は振り向き、少し困ったように笑った。
「アレン、いくの?」
「……ああ。ここはもう、君たちの世界だ。」
「わたし、まだ、たくさん話したいのに。」
その声には涙の気配があった。
アレンはそっと彼女の髪を撫でた。
「言葉は、いつでも君の中にある。
君が生きていくかぎり、話すことは終わらないよ。」
リィナは小さく頷き、彼の胸に顔を埋めた。
胸の奥で、二人の心臓の鼓動が重なる。
それは短く、けれど永遠のような時間だった。
やがて、アレンの体から光が溢れ出す。
粒子が風に乗って、書庫の天井へ昇っていく。
リィナはその光を追いながら、
唇をかすかに動かした。
「――ありがとう。」
アレンは最後に微笑み、
その声を確かに聞いた。
音としてではなく、心の響きとして。
そして、光となって消えた。
世界に朝が訪れる。
書庫の天井が透明になり、
外の空がすべてのページを染め上げていく。
リィナは一人、再生した書庫の中心に立つ。
足元には芽吹いた草が、
風に合わせてざわめいていた。
そのざわめきが、まるで“読みかけの物語”のように響く。
彼女は静かに本を開く。
それはアレンが残した一冊の記録――
『最後の司書の日記』と題された書だ。
ページをめくると、
そこに書かれていたのは、わずかな言葉。
> 「言葉は、生きることの形だ。」
> 「記すことは、誰かを想うこと。」
> 「君が読むかぎり、私はここにいる。」
リィナは微笑んだ。
涙が落ちて、ページの上に淡い円を描く。
それが光を反射し、天井に虹を生んだ。
やがて、外から声が聞こえてくる。
新しい人々の笑い声。
生まれたばかりの言葉たち。
その響きの中で、リィナは本を閉じた。
「――ようこそ、新しい世界へ。」
風が吹く。
書庫の扉が開き、まぶしい光が差し込む。
そこに広がるのは、
かつて滅びたはずの文明の、再生した風景だった。
リィナは一歩を踏み出した。
もう振り返らなかった。
その背に、アレンの残した光が、
柔らかく寄り添っていた。
そして物語は静かに閉じる。
けれど、ページの向こうで、
誰かが新しい言葉を紡いでいる。
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