幽霊との約束

悠犬

緑道

 ある日の昼下がり、僕は緑道にいた。どうしてなのかはわからない。気が付いたらここにいた。

 砂埃に塗れた道はゆったりと左に弧を描きながら奥へと伸び、道に沿って澄んだ小川が静かに流れている。両側には無数の広葉樹が枝葉を伸ばしている。ありきたりな表現だが、頭上に一面の緑の屋根を作っていた。


 僕は吸い込まれるように人気のない緑道を奥へ奥へと進んだ。木漏れ日が足元に星を作り、蝉の鳴き声が鼓膜を震わせる。


 半ばほどに差し掛かると、右手に小さなベンチが見えた。木製のそれはあちこち塗装が剥げていて、肘掛けは赤黒い錆に覆われている。何の変哲もない、普通のベンチ。けれども、ぽつんと佇む姿に、何か惹かれるものがあった。


 ここで、誰かを待ってみたい。


 そんな衝動が、頭の奥から湧き上がってきた。

 僕はそこに腰掛け、足元を見る。黒いゴム紐のようなミミズが一匹、ベンチの側で萎びていた。

 見てはいけないものを見たような気がして、僕は目を背けた。天井の緑が、淡い水彩画のような光景を生み出していた。いつか見たモネの絵画を思い出させる。

 僕は目を瞑る。瞼の裏で星がちかちかと光った。蝉の声の隙間から漏れる葉擦れの音と川のせせらぎが、湿った空気に溶けていく。


 ふと、風が止んだ。蝉の声も、せせらぎも、全ての音が一瞬遠退いたような気がした。

 それから間もなく、ざり、ざり、と土を擦るような音が聞こえた。そして、その音がぴたりと途切れたのと同時に、瞼の裏の星が消えた。


 目を開けると、目の前に一人の少女が立っていた。真っ白なワンピースが木漏れ日に淡く透け、枝のような手足が伸びている。つばの広い麦わら帽子の下に、小さな顔が覗いていた。酷く蒼白なその顔は、まるで幽霊のようだった。

 少女はじっとこちらを見つめたまま微動だにしない。真っ黒な真珠のような目だ。

 不審に思って、僕は思わず声をかけた。


「……どうかしましたか?」


 彼女は微笑んで首を横に振った。その顔には、何故か悲しい色が滲んでいるような気がした。


「何でもありません。ただ、私もここで一休みしたくって……。お隣、座ってもいいですか?」


「どうぞ」


 僕が身体をベンチの端に寄せて隙間を作ると、彼女はそこに腰を下ろし、帽子をそっと膝の上に乗せた。

 儚げな横顔を眺める。よくできた人形のようだ。


「最近……」


 彼女は正面を見据えたまま、口を開いた。


「最近、どうも暑いですね。こんなのが続くなら、私、夏が嫌になっちゃう」


「そういう割には、涼しい顔をしていますよ」


 僕がそう言うと、彼女は口元を押さえてくすくす笑った。


「あら、それはお互い様でしょう? 貴方もとっても涼しいお顔をしていますよ?」


 僕の顔を覗き込むように、首をかしげて言った。いじらしく笑みを浮かべる彼女と目が合い、僕は思わず顔を背けてしまった。


「いや、僕は涼しい顔なんてしてませんよ。それより、貴女はこんな所で何をしているんですか。……学校は?」


 彼女は豆鉄砲でも喰らったようにきょとんと目を丸くし、こちらに聞き返した。


「今日は日曜日ですよ? 学校はお休みです。それより、貴方のことが聞きたいわ。貴方の方こそ、ここで何をしているの?」


 話をはぐらかされ、すっきりしない気分だ。胸にしこりを抱えたまま、僕は彼女の問いに答えた。


「……自分でも、よくわからないんです。気が付いたら緑道を歩いていた。ただ、人を待っていようと思って、ここに座っていたんです」


「待ち合わせ?」


 彼女はいっそう目を丸くした。まるで予想外の答えでも返ってきたように。


「誰と、待ち合わせているの?」


 食い下がる彼女に、少し嫌気がさし、いや、それよりも、自分の答えられない問いを投げかけられて、それが酷く胸を衝いたから、僕はぶっきらぼうに言葉を放った。


「……見ず知らずの貴女に、そこまで言う義理はないですよ。それに……」


 風がびゅうと強く吹いて、僕の言葉は掻き消された。彼女は反射的に長い黒髪を押さえ、目を瞑った。

 葉っぱが忙しなく揺れ、がさがさと擦れる音が鳴り響いた。


 風の勢いが弱まり、彼女は目を開けた。それから、僕を一瞥して、また口元を押さえて肩を振るわせた。

 彼女は震える指で僕の頭を指さす。


「貴方の頭、葉っぱ付いてますよ。ふふ、おかしい。涙出てきちゃった」


 僕は頭を手で探り、葉っぱを一枚、つまみ上げた。柔らかい葉っぱだった。

 彼女の白い頬に、紅が差している。それが何処か艶っぽく、思わずどきりとした。


「そろそろ行こうかしら」


 そう言って彼女は立ち上がった。


「今日は貴方と話せてとても嬉しかったわ。またお話の相手になってくれる?」


 僕は何も言わず、ただ彼女の目を見ていた。

 彼女も口を閉じたままにこりと笑うと、帽子を被りひらひらと手を振って緑道を歩いていった。



 次の日も、僕は緑道にいた。むせ返るような木々の匂いの中、一人ベンチに座っていると、また土を擦るあの音が聞こえてきた。


「今日は早いのね」


 そう言って笑う彼女は、制服を着ていた。長い髪を後ろで結い、半袖のワイシャツが涼しい空気を纏っている。額には、小粒の汗が日差しを受けて煌めいている。顔色も、昨日よりは幾分か生気があるように見えた。


「今日は学校?」


 僕の問いかけに、彼女はいじらしい笑みを浮かべる。


「私、悪い子だから」


 人差し指をぴんと立てて口にあてがう。


「学校なんてつまらない。貴方といる方が楽しいわ」


 彼女はベンチにすとんと腰を下ろした。


「サボりなんて感心しないな」


「あら、サボりなんて可愛いものですよ? 私、もっと悪いことしていますから」


 彼女の笑みが苦い色を帯びている。

 

「……貴女は毎日、この緑道に?」


 僕は訊ねる。

 彼女は額に浮いた汗をハンカチで拭いながら答えた。


「夏の間は、ここに来ることに決めているの。……約束しましたから」


 彼女と約束を交わしたその〝誰か〟に、僕は強く惹かれた。けれども、そこに踏み込んではいけない気がした。

 蝉の声がいっそう大きくなった。そよ風に弄ばれてざわざわと擦れる葉っぱの音が、僕らの沈黙をくっきりと浮かび上がらせる。

 彼女の後れ毛が揺れる。


「約束か……」


 思い出したように、僕は口を開く。


「帰り道のことも、昨日より前のことも、霧の中にいるみたいにぼんやりしてるけれど、貴女と話したあの一瞬だけは、妙にくっきりと頭に残っている。このベンチに引き寄せられるように座ったのも、貴女と待ち合わせるためだったんじゃないかって、そんな気がしたんです」

 

 彼女は目を細めて微笑んだ。何処か懐かしい、柔らかい笑みだった。


「どうして、笑っているんですか?」


「貴方の言葉が嬉しくって」


 何だか恥ずかしくなって、顔を逸らした。

 ふと、向かいに立ち並ぶ木々が目に入る。幹に小さなプレートが提げられていた。

 

 ソメイヨシノ。


 ――そうか、この緑道は桜並木なのか。昨日、僕の頭に降ってきた葉っぱも、桜のものだろうか。


 僕は想像する。春になって、緑の屋根が一面薄紅に染まる様子を。川面いっぱいに敷き詰められた花筏を。


「春も、綺麗なんだろうな……」


 そう呟くと、彼女はこくりと頷いた。


「本当に、綺麗ですよ。桜の花びらが絨毯みたいになって……貴方とも一緒に行きたかった……」


 また、あの時のような悲しい顔をした。

 僕は、そんな彼女の背に手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。その寂しい背をさすってやりたかった。けれども、それはいけないと、彼女に触れてはいけないと、何か本能のようなものが引き留める。心臓が鼓膜の裏にあるような気がした。


「……来年、一緒に歩きましょう。桜の下を」


 さする代わりに、そう答えた。


「その約束、忘れないでくださいね」


 それから僕らは何も言わずに、たださらさらと揺れる桜の木を見つめていた。



 次の日も、その次の日も、彼女はここに来た。

 夕暮れ時に姿を見せた日は、学校帰りに寄ったのだと言っていた。

 「サボりは感心しない」と貴方が言ったから、と小さく笑いながら付け加えて。

 雨の日も、彼女は来た。濡れたらいけない、と白い傘を少し傾けてくれた。

 少し激しくなった川の流れに耳を傾けるのも、不思議と心地良かった。


 そうして彼女はいつも色々なことを話してくれた。学校のこと。家のこと。友人のこと。

 特に楽しそうに話してくれたのは、本の話だった。こんな本を読んだ、この本にはこう書かれていた、そうやって嬉々として話してくれた。

 けれど、どれも何処か遠い昔話のように聞こえた。寝かしつけられる前に、何度も聞かされたような、そんな昔話……。


 そんな日々が続いて、気がつけば夏も終わりが近づいてきた。

 蝉の声も次第に薄れていき、緑道に寂しさが漂い始めていた。


「そういえば、今度の日曜日、隣町で花火が上がるそうですよ」


 空にほんのり日暮れの色が見え始めた頃、いつもの会話の終わり際に、彼女はふと思い出したようにそう言った。

 ふうん、と僕は相槌を打つ。


「私、良い場所を知っているの。良かったら、一緒に見ない? 貴女と話したいこともあるの」


「僕と?」


 ええ、と彼女は目を輝かせながら頷いた。

 彼女は僕なんかと花火を見て楽しいのだろうか。本当は仲の良い友人や恋人といる方が楽しいだろうに。


 それでも――


「わかりました。見ましょう、花火」


 答えは、決まっていた。

 その瞬間、彼女の顔がぱっと明るくなった。


「それじゃあ、十九時にここで待ち合わせましょう。私、うんとおめかししてくるから」



 日曜日。僕はベンチに腰掛けていた。

 夕日が木々を赤く染め、ひぐらしの声が物悲しい音色を奏でている。冷たいそよ風が緑道を吹き抜け、夏なのに秋のような寂しい空気が漂っていた。


 日も落ちていき、辺りは青黒い影に包まれていく。規則正しく立ち並んだ街灯が一瞬ちかちかと明滅したかと思うと、ぼんやりとした白い光で足元を照らし始めた。


 時計が十九時を回った頃、カツカツと地面を叩く音が聞こえた。


「お待たせ」


 浴衣姿の彼女は、小さな巾着袋を胸の前に提げ、にこりと笑った。

 白地に青い朝顔が、夕闇の中で一際明るく浮いて見えた。


「わざわざ浴衣で?」


「おめかししてくるって言ったでしょう?」


 浴衣を見せびらかすように、彼女はくるりと一回転してみせた。袖がふわりと舞う。

 あどけない仕草に、僕は笑みをこぼす。


「それじゃあ、花火見に行きましょうか」


 そう言ってベンチから立ち上がろうとする僕を、「待って」と制止しながら彼女はいつものようにベンチに腰掛けた。


「ここが特等席なの」


 彼女はいつものように隣に腰を下ろす。

 特等席。そうは言っても、天井には木の枝があちこち伸びていて空は狭くなっている。とても綺麗に花火を眺められるとは思えない。


「花火なんて見えそうもないって、そう思っているでしょう?」


 僕は頷く。

 彼女は小さく息を吸い、空を見上げた。


「見ていてください。直にわかりますから」


 促されるまま、僕も空を見る。いつの間にかひぐらしの声は止んでいた。

 遠くからひゅるひゅると甲高い音が響いた。白い糸が尾を引きながら僕らの頭上へ差し掛かり、爆ぜた。赤や青や色とりどりの光彩が辺りに飛び散り、腹に響く轟音が後から追いかけてくる。夜風に焦げた火薬のにおいが漂っている気がした。


 僕は息を飲んだ。視界を狭める枝葉は夜空を囲う額縁となり、その中心に大輪の花が咲く。それは刻々と変化し、何枚も絵画を見せられているようだった。


「私ね……」


 不意に、彼女が口を開く。


「私ね、人を死なせてしまったの」


 そう言って空を見上げる彼女の眼は、花火の向こうを見ていた。


「人を?」


「言ったでしょう? 私は悪い子だって。……私の話、聞いてくれる?」


 僕はこくりと頷く。


「その人はね、私の大切な人だったの。初めて会ったのは去年の夏、この緑道で……。その人はこのベンチに座っていたわ。あまりに酷い顔をしていましたから、お水を渡して、それから少しお話をしたの」


 彼女はふふ、と笑いながらその人との思い出を語った。

 僕はただ、彼女の話に耳を傾ける。何だか、他人事ではないような気がした。


「その人のお話は面白かったわ。何でも知っているの。でも、それを鼻にかけるようなこともしないで、ただ、話をしてくれた。ただ、やることが無くて本を読んでいただけだよって謙遜していたわ……。私はすぐにその人に惹かれた。それで私、一つ過ちを犯してしまったの」


 彼女は自分の下駄を眺める。


「……私ね、約束してしまったの。これからもここで会いましょうって」


「それが、過ち?」


 彼女は悲しい顔をこちらに向けた。


「そう。その人はね、何度もここへ来てくれたわ。約束通り。……病院を抜け出してね」


 ああ、そういうことか。僕は〝過ち〟の意味を理解した。


「その人は日に日に弱っていったわ。そうして、夏が終わる前にばったりとここへ来なくなった」


 どうして僕は緑道にいたんだろう。どうしてこのベンチに腰掛けたんだろう。どうして、僕は彼女に惹かれたんだろう。

 そんな問いの一つ一つにかかっていた霧が、少しずつ払い除けられていく。


「実はね、最後に会った日、その人とまた一つ約束をしてしまったの。それはね――」


「一緒に花火を見に行こう」


 僕は彼女の言葉を遮るように言った。彼女は驚いた様子でこちらを見ている。

 全て思い出した。そうだ――


 幽霊は僕だった。


 そうか、あの時、彼女が蒼白な顔を見せたのは、悲しい表情を見せたのは、僕を見たからか。


「僕は、もう死んでいたんだね」


「思い……出したの?」


 うん、と返事をする。彼女は、じっとこちらを見つめていた。何か言おうとしては、言葉を飲み込む。

 ぱちぱちと小さな花火が弾ける音がする。


「私ね……ずっと後悔してた。私が、貴方の未来を奪ってしまったんだって。私があんな約束しなければ、貴方は死なずに、もしかしたら今でも生きていてくれたんじゃないかって……」


震える声で、彼女は言った。


「君はずっと、自分のせいで僕が死んだって、そう思っていたんだ。でもね、それは違うよ。僕はね、君に会うまでずっと、生きていなかったんだ。死んでいないだけ。ただ病室で食べて寝て咳をして……それが、君と出会って、君はこんな僕の話を楽しそうに聞いてくれて……僕はあの瞬間、生きていた。確かに、生きていたんだ。君は僕を生かしてくれたんだよ」


 途端に、彼女はぼろぼろと涙をこぼした。堰を切ったみたいに、溢れていた。

 僕はその顔に手を伸ばしたけれど、その手は空を切った。


 彼女が落ち着くまで、じっと側にいた。触れられないけれど、その白く細い手に僕の手のひらを重ねた。温もりが伝わってくるようだった。


「ねえ、憶えてる? もう一つの約束」


 すすり泣く彼女に、僕はそっと声をかける。


「来年、桜を見ようって。僕ね、桜並木を見たことが無いんだ。だからさ、来年一緒に見たいんだ、君と」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、彼女は返事をする。


「うん、一緒に見よう。約束だよ、絶対に、絶対に――」


 最後の花火が咲いた。その光は、ベンチに座る少女と、その隣の空白を照らし、そして散っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幽霊との約束 悠犬 @Mahmud

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ