俊足をはきたい君に

綿貫 ソウ

Track 1-1

「そうだね。君は俊足をはきたい。それは分かった。でもよく考えて。君はそれで嬉しいの?」

 

 眼鏡のフレームを持ち上げて、竹岡は言った。職員室の窓からさしこむ春の光を受けて、レンズは白く反射していた。正面に座るまどかからは、その奥の瞳がどういう感情を示しているのか、よく見えなかった。


「うれしいですよ。うれしいから盗んだんです」


 フリルのついたスカートのポケットに手をいれたまま、わるびれた様子もなくまどかは言った。幼い瞳を細めて、竹岡を睨んでいた。

 表情をゆるめて、竹岡はまどかのリボンのついた靴に目を落とした。俊足が盗まれる事件が起きたのは、いまからちょうど一週間前のことだった。


 桜が死に絶えた春の日。5年2組の教室で、運動用の靴が盗まれた。被害にあった女子生徒は担任に靴がないことを報告し、その日のうちに母親から校長に連絡がいった。靴が盗まれたという小さな事件は、小学校という環境では緊急会議が開かれるほど大きな事件だった。しかも盗まれたのが、あの俊足だということが、問題をより大きくしていた。


『まどかちゃん俊足じゃん』

 

 6年3組でその名前を聞いたのは、昨日の体育だった。グランドで50メートル走用の白線を書いていると、準備体操をしている生徒の言葉がきこえた。被害者生徒に確認してもらうと、佐藤まどかが持っていた俊足で間違いないと証言した。

 

 俊足を無事に返却したあと、竹岡はまどかを職員室に呼び出した。

 

「盗まれた子は、すごく悲しいんじゃないかな」


 ふいにゆるんだ表情を固めて、竹岡は言った。

 教員五年目。27歳になって初めて竹岡は、高学年を受け持つことになった。低学年の担任をしていたときは、こういった明確な事件はなかったため、いつもより気を引き締める必要があった。「誰にでも平等な教育を」。竹岡は心のなかでつぶやいて、まどかをまっすぐに見つめた。


「せんせい」


 鈴の音。

 竹岡はまどかの声を聞くたびにそう思う。まわりが舌足らずな発音で、言葉を粘液のように発するなか、彼女の声は涼やかで明瞭だった。はっきりと鳴らした鈴のように、一音一音が透き通っていた。


「わたしの運動靴、サイズがあってないんです。だから痛くて全力で走れなくて、いつもドベでした。ママにもいいました。だけど、買ってくれませんでした。こんな服は買ってくれるのに」


 まどかはスカートの裾を指でつまんだ。竹岡はさっきまで見えなかった彼女の太ももの白い肌を見つめた。親に制限されているのか、他の生徒と比べて細い。


「俊足をはいて走ったとき、わたしまんなかくらいでしたよね? だからきっと、今までも足はおそくなかったんですよ、なのにクラスではのろまだって言われて……」


 ねえ、と、問いかけるようにまどかは上目遣いで竹岡を見た。

 外から差した夕日が、彼女の瞳を赤く輝かせた。


「せんせい。それって悲しいことだと思いませんか?」

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