プロローグ 第二十話

わたしが六年生に進級してからの数ヶ月間、母は、わたしが登校できなくなったことへの焦りから、わたしの別の道を必死で探していた。リビングで何も出来ずに、ただぼんやりと天井を見上げていると、本や携帯電話で調べ物をしていた母が、わたしを見た。

「美和ちゃん。ママ、色々と調べて、話を聞いてきたよ。あのね、もし美和ちゃんが今の小学校に戻るのが本当に辛いなら、『特例校』って選択肢があるんだよ」

「どんな所?」わたしは、反射的に母の言葉に食いついた。その言葉を、わたしが再び「普通」に戻るための、新しい裏口の可能性を、無意識に探していたからだ。

「不登校の子を受け入れるために、特別にカリキュラムを組んでいる小学校だよ。少人数制で、カウンセラーの先生もいるし、六年生の今からでも、転校できる可能性があるって言われたのよ」

「不登校の子を受け入れる」。

その言葉が、わたしの心臓に冷たい水をかけた。「不登校児」。それは、わたしが最もなりたくなかった、「普通ではない子」というレッテルを、公に貼られる場所だ。そこに行ったら、わたしは、もう永遠に「普通の子」のフリさえできなくなる。

「特例校なんて、嫌だ!そこに行ったら、わたしは、ずっと『普通の子じゃない子』になるんでしょ?みんな、わたしが不登校だったって、知っちゃうんでしょ?」

母は、わたしの激しい拒否反応に、少し顔を曇らせる。母も、わたしが「普通」であることに執着しているはずなのに、今は現実的な解決策を優先しているようだった。

「でも、美和ちゃん。ずっとこのまま家にいるよりは、いいでしょう?そこなら、美和ちゃんのペースで勉強できるし、同じように傷ついた子たちもいるよ。今のままじゃ、中学進学も難しくなってしまうわ」

「嫌だ!」わたしは、反射的に母の言葉を遮った。わたしが求めているのは、「傷ついた子たちの中での慰め」ではない。わたしが求めているのは、「普通の子」の中に、普通の子として紛れ込むことなのだ。

わたしは、現実から目を逸らすように、最も現実味のない、しかし、わたしが最後にしがみついている「普通への鎖」を口にした。

「わたしは今の小学校の系列中学校に行く」

そうすれば、普通になれるかもしれない。けれど、多分行けないし、いったとしても今と変わらず普通じゃないままだと、肌で感じとっていた。わたしは、どちらにも行きたくない。

特例校に行って、「普通じゃない道」を進むのは嫌だ。だが、今の小学校の系列中学校に行くのも、嫌で嫌で仕方がない。系列の中学に行けば、小学校からの内部進学組の中に、必ず、わたしを「教室に入れなかった子」と知っている生徒がいる。真理や彩乃、そして教室でわたしを見てはいけないものとして扱かったあの子たちだ。

その生徒は、わたしを「腫れ物」として扱うか、「問題児」として嘲笑するか、どちらかだ。どちらにしても、わたしは、新しい環境で「普通の子」として、再びやり直すことはできない。

――それだけではない。

系列中学校に進学するためには、「出席日数」という、最大の壁が立ちはだかっている。わたしは、四年生の三月から、六年生の五月にかけて、ほとんど学校に行けていない。会議室での学習も、もうできていない。普通でなくなるのが怖い。系列中学に行くのが怖い。そして、行きたくても、受からないかもしれない。わたしは、もう、どうにもならない八方塞がりの状態だった。

そして、わたしが最も恐れていた事態が、現実のものになる。

母が、系列中学への進学の条件を、改めて学校側に確認したのだろう。その夜、母は深刻な顔でわたしに告げた。

「美和ちゃん……系列の中学への進学は、このままでは無理だって言われた。出席日数が、どうしても足りないの」

わたしは、最後の希望を失った。系列中学への進学という普通の道は、わたしから完全に奪われたのだ。わたしに残された道は、母が言う「特例校」、あるいは「公立の中学への進学」。公立には、美里たちがいるから行けない。

つまりわたしに残されたのは「普通の子とは違う道」だけになった。

「わたしは……どうしたらいいんだろう……」わたしは、もう「普通」に戻るための道筋を、一つも見つけることができなかった。すべての選択肢が、わたしを「普通ではない子」という暗闇に誘う。

わたしは、泣きながら、母に向かって、絶望的な一言を吐き出した。

「ママ……わたし、もう、普通の子じゃなくていいよ……」

長年、わたしを縛り付けていた「普通への執着」という鎖が、今、ついに千切れたの……かもしれない。その瞬間、体がフッと軽くなった気がした。けれど、その解放感は、すぐにこれからどう生きてゆくのかという、もっと重い絶望に置き換わった。普通じゃなくなってしまったわたしには、生きる道がどこにあるのだろう。

母は、パンフレットを広げ、急かすように言った。

「その特例校だけどね、七月までに手続きをしないと、来年の進学に間に合わない可能性があるって。小学校には編入試験があってね……あと一ヶ月で、その試験があるってきいたよ」

あと一ヶ月。その言葉が、わたしの「焦り」のスイッチを、乱暴に押した。

わたしは、このまま無為に時間を過ごすことで、「普通に戻る機会」だけでなく、「勉強を再開する機会」さえも失い、一生を不登校と引きこもりで終えてしまうのではないか、と心底怖くなった。特例校は嫌だ。でも、家にいること、完全に止まってしまうことは、それ以上に怖かった。

「……行く。わたし、特例校に行く」

わたしは、震える声を押し殺し、決断する。母は、すぐに安堵の表情を浮かべた。父も、そっと顔を上げた。


「やっぱり普通じゃなくなるのが怖い──」


けれど、わたしは、小学校で二回目の転校を決めるしかなかった。引越しもしていないのに、わたしは「転校」という手段で、自分の問題を解決しようとしている。

特例校に行けば、わたしは、「短い間に二回も転校した、不登校児」という、複雑で、あまりにも「普通ではない」プロフィールを持つことになる。

わたしは、自分の未来が、どこか深い泥沼へ沈んでゆくのを感じた。それでも、わたしには、この道しか残されていない。わたしは、矛盾した「普通」への執着と「現実からの恐怖」に突き動かされ、「普通じゃない場所」へ、飛び込むことを決めたのだった。通っていても、普通じゃない子でしか居られない場所に。

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