プロローグ 第七話


ガチャッ







背後で、冷たい金属が擦れる音がした。がたんと重く何かが落ちる。

一日に何回も聞くはずの音なのに、それを知ったら耐えられないという本能で、わたしはどうしても状況をつかめない。

ようやく状況をすこしだけ掴めるようになるとわたしは、後ろを向けなくなった。後ろを向いたら、わたしにはまだ耐えきれない現実が待っている。

見たら本当に学校に行けなくなると思った。

だが、わたしは泣き出しそうになり、僅かな可能性にかけるしか無かった。


ヒタヒタと扉まで走っていって勢いよくドアノブを回すけれど、



あかない。



「開けて!開けてよ!」

わたしは、パニックに陥り、ドアを叩いた。

その瞬間、引き金を引いたように部屋の外から、くすくすという笑い声が聞こえる。

それは、美里の声だった。恵のものも混じっているようだ。

「……誰?美里ちゃん?恵ちゃん?開けてよ!」

わたしは、絶望的な気持ちで叫んだ。

美里の声が、ドアの向こうから、明るく、楽しそうに響いてきた。

「美和ちゃん、なんでこんなところにいるんだろね。家に帰ればよかったのにね、ね、恵。」

二人だけで話す会話に、わたしの声はあるのだろうか。

「開けてよ!お願い!閉じ込めるなんて、ひどいよ!」

涙が溢れてきた。昨日、ビデオで嘲笑された痛みと、教頭先生に責められた恐怖。そして、母に怒鳴られる悲しみ。全てが、この暗い図書室に閉じ込められた瞬間に、弾け飛んだ。


美里はまた笑った。その笑い声は、悪意に満ちている。

わたしは、ドアを、手で何度も叩きつけた。

わたしの悲鳴だけが、静まり返った校舎に、虚しく響き渡る。

どたんどたんという扉が軋む音に紛れていつの間にか、美里たちの笑い声は、もう聞こえない。彼女たちは、わたしを泥沼に突き落とすことに成功し、満足して去っていったのだ。

わたしは、ドリルを抱きしめたまま、図書室の冷たい床に座り込んでしまった。


周りには、何千冊もの本がある。知識の宝庫の図書室なのに、今のわたしには、冷たい壁と、閉じ込められた牢獄にしか感じられなかった。

外は、すでに夜の帳が降り始めていた。

「開けて!開けてよ!お願い、誰かいるんでしょ?開けてえええ!」

わたしは、喉が潰れるのも構わずに叫び続けた。図書室の重いドアを、拳で、足で、身体全体で叩きつける。

しかし、図書室のドアは、わたしがいくら叩いても、びくともしなくて、何も解決していないのにどんどん全身が痛くなる。

もしかしたら、一生、死ぬまでここに閉じ込められるのではないか。そんな考えすら湧いてくる。

頭では明日になったら誰か来ると思うのに、もう耐えられない。


助けて。

限界。

無理。

誰か。

お願い。

助けて。


外は、もうすっかり暗くなっていた。窓から見える空は、上から滲んだインクに全部染められ、そこに街灯の光が、どこか遠い世界のように、ぼんやりと滲んでいるだけだった。恐怖が、骨まで染み込んでくる。



時計の針が、刻々と時間を刻む音だけが、やけに大きく響いている。



校舎全体に響き渡るような、不気味な音が聞こえた。

チャイムの音だ。

それは、九時を知らせる、夜間の定時チャイムだった。今まで存在は知っていたけれど、聞いたのははじめてだ。もう九時だということは、美里と恵の声は本当に聞こえていたのかも定かではない。




カツン、カツン。



誰もいないはずの廊下から、足音が聞こえてきた。硬い靴底が、コンクリートの床を叩く音は、ほとんど一定だ。わたしは、いちばん思い出したくない時に、人体模型が歩くという都市伝説を思い出した。

ただでさえ怖いのに、余計に怖くなる。

足音は、図書室のドアの前で止まった。

見つかった。

人ならそれは待ち望んでいた事だが、分からなくて怖い。

「誰か……!誰かいるんですか!開けてください!」

わたしは、最後の力を振り絞って叫んだ。

カチャリ。

鍵が開いた。そして、重いドアが勢いよく開き、壁にたたきつけられる。

ドアの向こうに立っていたのは、見慣れた、黒いスーツ姿の女性の影だった。

「……教頭先生?」

薄暗い廊下の光を背に、厳しい表情の教頭先生が立っている。教頭先生は、わたしを見るなり、大きなため息をついた。

「南條さん何をしてたんですか!」

先生の顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れ、わたしは涙を溢れさせた。

「先生!美里ちゃんたちが!わたしを閉じ込めたんです!宿題を取りに来たら、鍵をかけられて……!」

わたしは、これで家に帰れると信じて、わたしは先生に向かって駆け寄ろうとする。

しかし、教頭先生は、わたしが駆け寄ろうとしたその一歩手前で、まるで汚いものに触れるのを避けるように、一歩、後ずさりをした。わたしはそんなに嫌な存在なのだろうか。

そして、先程の驚きの感情を、サッと同じ温度の怒りに塗り替える。

「ふざけるのも、いい加減にして!こんな時間まで、学校に忍び込んで、遊んでたんでしょ!」

教頭先生の声は、少し前の昼間、母がいないところでわたしを責めた時よりも、さらに怖くなっている。

「あなたは、自分が何をしてるか、わかっているんですか?お母様が、あれだけ大騒ぎしたのにこんな問題を起こして!私がどんなに嫌だったか知らない?あんたが苛められたよりずっと辛かったです!!」

教頭先生の怒りの矛先は、美里たちではなく、わたしに向かっていた。

「いいですか。あなたの話は、また『美里さんが筆箱を隠した』とか、『美里さんが閉じ込めた』とか、そればっかりでしょう!なんであなたは、いじめられる状況を、自ら作り出すんですか!」

「ち、違います!わたしは、宿題を取りに来ただけで……!」

わたしは、胸に抱いていた算数ドリルを差し出した。

「言い訳禁止。いい加減に、現実を見なさい!美里さんのお母様は地域のために尽くす立派な人!そんな立派なご家庭のお嬢さんが、わざわざ夜になってから、あなたを閉じ込めるなんて、そんな非現実的な話が、信じられるとでも思っているの?いじめもどうせあんた達親子のでっち上げだよね?」

「本当な……」

「だまれ!」

教頭先生の怒鳴り声が、図書室の空間に響き渡った。わたしはもう立っていることもできそうになく、倒れそうになる。けれど何とか経たないとまた怒られる。それが怖くて、わたしはあたまがぐわんと歪むのを感じながら、必死で先生の目を見た。


「あんたの親だって悪いけど一番最低なのは南條美和!分かった?あんたが最低だから親がヒステリーなんだよ。まともになりなさい。美里さんたちは悪くないです。あんたに隙があるから美里さん達はふざけるのよ」

教頭先生は、母のヒステリーという、わたしが一番隠したかったことを、公の場で平然と口にした美里たちと同じように、わたしを罵倒する武器として使った。

そんなに言われると、いじめが本当にわたしのせいではないかと思う。

全部わたしが悪い。わたしが最低だ。

「あなたは、みんなの時間を奪ったんですよ!」

教頭先生は、ゴミを吐き出すように、わたしを一瞥すると、図書室の鍵を乱暴に閉め、わたしを廊下に押し出す。

「二度と私に手間かけさせるんじゃないよ」

その言葉は、美里の「もう終わりだね、美和ちゃん」という言葉よりも、はるかに重く、わたしの魂を粉砕した。わたしは、誰にも守られない。この世界で、わたしは永遠に「悪い子」なのだ。

教頭先生に廊下に放り出され、図書室の鍵を乱暴に閉められた後、わたしはただ、宿題を抱きしめて泣きながら家までの道を歩いた。

家に帰ったときには、夜の九時半を過ぎていて、母に怒られそうで心臓がバクバクした。

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