避け地

如月幽吏

プロローグ 南條美和

プロローグ 第一話



わたしの世界は、いつもガラスの破片が散らばっているように危なくて、その危なさが見えない。

どこを歩けば怪我をしないのか。それはわたしにすら分からないのだ。




それでも、そのガラスは、鋭くて、どこに触れても指先を切ってしまいそうなのに、なぜかとても綺麗に見えて、拾い集めずにはいられない。

時折光が刺した時はガラスも道筋も見えるのに、わたしの世界の大半を占める暗い日は、ガラスを踏んで傷ついてしまう。


◇◇◇




母は、とても自己中心的だ。

そんな母が、わたしの世界では唯一で、絶対的な支配者なのだ。母の機嫌は晴天だと思ったら、一瞬で雷雨になる。その雷は、いつもわたし目掛けて落ちてくる。


朝、目が覚めると、まず最初に考えるのは、自分の朝食でも、学校の宿題でもない。

何も分からなかった頃にはもう戻れない。


わたしは、完璧になれない。わたしは、自分で怒られる種を巻いてしまう。

散らかしたくないのに、散らかしてしまう。母の怒りの沸点を見つけられない。


怒られる。傷つけられる。わかっている。予感している。それでも散らかしてしまうわたし。まるで、わざと母の怒りを引き出したいと願っている、もうひとりの意地悪なわたしが、体の中に潜んでいるようにも思えてしまう。


わたしは、そんなわたしが、きらいだ。


完璧にできないわたし。母の理想に応えられないわたし。

頑張って片付けることも出来なくて、頑張っても、それでも見落として責められるわたし。そして、散らかすことで自分自身を罰しているようなわたし。



わたしは、何か特別に悪いことをした訳ではない。ただ、部屋を片付けられない、普通の子供なだけかもしれない。なのに、どうしてこんなにも自分を嫌い、自己嫌悪に囚われてしまうのだろう。


それは、母が、わたしの全てだからだ。

母に傷つけられている。怒鳴られ、責められ、価値のない人間だと思わされている。そんなことは、わかっている。頭では理解している。

けれど、それでも、わたしは母が好きで、愛してしまう。

母が少しでも優しくしてくれると、昨日の罵声なんて綺麗さっぱり忘れてしまう。たまに見せる笑顔。たまにしてくれる抱擁。その一瞬の温もりが、わたしの心を満たし、生きてゆくための全てのエネルギーになる。砂漠の中で、一滴の水を求める旅人のように、わたしは母の愛情を渇望している。


わたしを傷つける母を、わたしは愛さずにはいられない。この矛盾が、わたしの心を永遠に引き裂く。痛い。痛い。まるで、心臓が二つに割れて、それぞれが逆方向に引っ張り合いをしているようにどちらもわたしを誘惑するのに結局どちらにも行けない。

他の家に生まれたかった。そう思う人よりは幸せかもしれないが、わたしは、人と比べても、幸せを噛み締められない。




母は、わたしによく、父の文句を言う。

「パパはね、本当にだらしがないよね?美和も似ちゃって……」

「給料が安いくせに、なんで趣味やってんのかなあ」

「あの人さえいなければ、わたしはもっと幸せだった」


わたしは父も好きなのだ。

父は、怒鳴らない。いつも優しく、わたしの不器用さを笑いに変えてくれる人だ。夜、遅く帰ってきて、こっそりお菓子を買ってきてくれる。わたしの味方でいてくれる唯一の人。

その父を、母が罵るのを聞くのが、つらい。

わたしの中で、愛している二人の人間が、永遠に敵対している。母に同調すれば、優しい父を裏切ることになる。父の味方をすれば、母の怒りがわたしに向かってくる。

だから、わたしはいつも、黙っていることしかできない。

黙っていても、無駄なのはわかっている。

そう思うのに、どうしても行動にできないわたしは本当に最低なのだろうか。

自己嫌悪と矛盾した愛と、板挟みの苦しみ。これが、わたし、美和の、毎日の生活だ。ガラスの破片の上を、裸足で歩き続けるような、痛いけれど止められない、わたしの人生だ。


小学校に入ったころから、わたしはクラスの中で少し浮いていた。それはもう、当たり前のことだった。けれど、今年の四月、三年生になってから、その浮き輪が穴だらけになって、急激に沈んでゆくように、いじめは激しくなる。


消えたのは、昨日まで机の中にあった、新学期に買ってもらったばかりの蛍光ペンのセットだ。

それでもわたしは、自分のせいだと思った。わたしは器用に気を配れないから、どこかに忘れてきたのかもしれない。けれど、一週間前は、気に入っているクマのキーホルダーが付いた鍵が無くなった。その前は、給食の時間にパンが消えた。

どれもこれも、小さくて、些細な出来事だと、自分に言い聞かせるけれど、それが重なるたびに、小さな砂ではなく、岩のように重い絶望がわたしの心の中に溜まってゆく。

両親を心配させたくなくて、わたしは何度も話そうとしては、結局話せない。夜、悪口を言っていたのにリビングで楽しそうに笑う母と父の声を聞くと、この平和な空間に、泥を持ち込みたくないと思ってしまう。


わたしが我慢すれば、この家は明るいままでいられる。そう信じて、わたしは口を閉ざす。それでも母の文句が止まらないのが辛い。

「美和、学校楽しいの?」

母の優しい問いかけは、わたしにとっては針のようにチクリと痛む。

本当はつらい。本当は寂しい。教室に入る足が鉛のように重い。誰とも目を合わせないように、壁くらいに薄くなっていたい。


わたしがもっといい子だったら。

あるいはもっと悪い子だったら。


いい子なら、「この子達にも何かあるんでしょ」と、ながせたと思う。

悪い子なら、学校をサボる事が罪悪感なく出来たかもしれない。

普通ならわたしを守ってくれるはずの先生も、保身的で頼りにならない。

物が無くなったり、教科書が隠されたりしても、先生は形だけ謝らせて終わりだ。「みんな、仲良くしなさいね」という、中身のない言葉で、全てを終わらせようとする。


謝ってきたいじめっ子たちの目は、まるで謝罪を要求したわたしを軽蔑しているように冷たかったから、もう、先生に話す気がしない。話したところで、状況は悪化するだけだ。

そして今日、決定打がきた。

筆箱が無くなっていることに気づいた途端、わたしは息が止まるような絶望に襲われる。

筆箱。文房具の全部がその中にあるから、勉強する上で欠かせないものだ。そして、中には母がプレゼントしてくれたお守りのキーホルダーも入っている。

犯人はわかっている。休み時間にわたしの机の周りをうろついていた、女子グループのリーダー格の子たちだ。きっと、悪意を込めて、どこかに隠したのだ。

両親に、どう説明したらいいのだろう。

「筆箱を無くしちゃった」

そう言えば、また怒られる。母はヒステリックで、怒る基準が分からない。散らかして怒られる時もあれば、テストで満点を取っても、些細なことで大声を出されることもある。

今回、物が無くなった理由を、正直に「隠された」とは言えない。大事になるのが怖いのもある。先生に話しても無駄だし、母が学校に乗り込んだら、復讐されていじめはさらにエスカレートするのだろう。

わたしは、苦し紛れの嘘をつくしかないのだ。


例えば、百円ショップで買ったものを前のものに似せてペンで変える。

例えば、没収されたと嘘をつく。

例えば、不良に絡まれて取られたと言う。


けれど、今回は鉛筆や消しゴムが無ければ、どうにもならない。没収や取られたという言い訳はもう重ねてしまってこれ以上使えない。お小遣いももうない。

わたしがなくしたことにしたら怒られるか、母に失望される。その顔を見るのが怖い。

それでも、いじめのことを打ち明ける勇気が出ないから、今回も嘘をついて、怒られるのを選ぶのだろうか。


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