第10話 夢

「あの、資格試験受けようと、思って」

 アパートまではほんの十分程度だ。

 私とクヌギさんは静かで、でもその静けさがどこか優しい街の中をのんびりゆったりと歩きながら、ぽつぽつと話す。

 クヌギさんはこういうとき、あまり相槌を打たない。ただ真剣な顔をして、じっと最後まで話を聞いてくれる。

 急かすこともしないし、急かしたいと思っていないことも知っているので、私は時間をかけて言葉を選ぶ。

「アパートの人たちといろいろ、日常というか、名前のない楽しいこと、大人になってからできる青春をたくさんするのもすごく私は好きで、最近は毎日本当に楽しいんですけど……でもそれとは別に、大学生活の中でこれができたんだって、はっきり目に見えるものが欲しいなと思ったので。形になってわかるものがあるのが、私に向いてるかなって……今までのこと考えてみても、それが一番、私は頑張れるなって思ったんです」

 私のペースで、私なりの速度で、歩いて、話す。

 クヌギさんと私だと歩幅も全然違うはずだけど、クヌギさんが私を置いていくことはなく、二人並んだまま、おんなじに進んでいく。

「でも、やっぱり受かるかどうかわからなくて、お金もそこそこかかるし、もし落ちたらお金も時間ももったいないなって思うと怖いし……緊張もするけど、でもやっぱり、何か少しでも将来的に力になるなら、頑張ってみようかなって。さっき電車で、やっぱり受けようって決めたところだったんです。自分はこれだけ頑張ったんだって、自分でちゃんと胸張れるように。今度こそちゃんと、勉強っていうか、自分と、向き合えたらなって」

「うん、いいと思うよ。すごくいい」

 夜のクヌギさんは、なんだか、冬の夜風か星みたいだ。昼間や夕方の湯たんぽのときとはまた雰囲気が違う。

 ずっと道の向こうや靴の爪先を見ながら話していた私は、そこでクヌギさんの横顔を見上げた。

「クヌギさんもやっぱり、大学生のうちに資格取った方がいい、とか思いますか?」

「取っておくにこしたことはないんじゃないかなあ。資格持ってるとやっぱり、就活のときとか使えるかもしれないしね。そういや、湊都さんってなにか夢とかあるの?」

「夢……」

 立ち止まる私に合わせて、クヌギさんも止まる。

 アパートまでは、あと半分くらい。

「うん、夢。職業とかじゃなくても、こんな人になりたいとか、ふわっとこういう系の仕事面白そうとか、バンジージャンプやってみたいとか、世界一周旅行とか、あ、さんげん堂のチャーシュー丼大盛食べたいとか!」

「あははっ、それは……いつか、食べてみたいですね」

 人差し指を立てるクヌギさんに、私は吹き出した。さんげん堂のチャーシュー丼は信じられないくらい量が多くて、一杯で五人前はあるらしい。

 私はチャーシューが好きなんだけど、さすがにそれを一人で食べに行く勇気はないので、いつかアパートの誰かを誘って一緒に行けたらいいなって思っていた。

 私はもう一度建物の合間から顔を覗かせる夜空に目を向けて、想いを巡らせる。

「……私、大学でやりたいこと見つかるかな、くらいに思ってたんですけど、まあそんな簡単には見つからなくて……将来の夢とかも決まってないし、自分が十年後どころか、四年後どうなってるかも、まだ全然想像はつかないけど、でも、職業とかじゃなくて、夢なら」

 私は脳裏に、いろんな顔を思い浮かべる。

 アパートでうずくまって気持ち悪そうにしている知らない大学生を、見て見ぬふりをして助けてくれる人が、あの状況で「気持ち悪い」よりも「大丈夫?」が出てくる人が、いったいどれだけいるんだろう。

 迷わずに、まるで自分の知ってる友達や家族が倒れてしまったみたいに、声をかけて、背をさすって、あたたかさをくれる。

 あのアパートで、そんな人たちに出会えていなければ、私はきっと今でも止まったままだった。

「アパートの人たちみたいな大人になりたいなって、思います」

 夢なんかなくても、誇れるものがなんもなくても、ずるずるなんとなく生きていても。

 なんとなくなんか楽しんで、笑って、たまに傍に居る人と泣いたり怒ったりして、そうやって、出会った誰かも仲間になろうって引き込めるような。

 私はそんな大人でいたい。

 誰かがゆっくり動き出せるような、そのきっかけになれるような、ただひたすらに人として、大人でもなく、子どもでない誰かでいたい。

「そっかぁ、嬉しいこと言ってくれるねえ」

 クヌギさんは瞳を細めて、いつもの、あの湯たんぽの笑顔になる。

 そうしてその笑顔が一転、困ったように眉を下げた笑い方になった。

「でも、俺みたいにはならないほうがいいと思うけどなあ」

「え、どうしてですか?」

「ならないほうがいいっていうか、なってほしくない、かな。湊都さんには」

 クヌギさんは私から視線を外し、そこで道の向こうにぱたりと目を留めた。

「――あ」

「どうかしました?」

 私が道の反対側を見てみると、よく近所の子供たちが遊んでいる公園があった。でもさすがにこの時間に人はいなくて、静まり返っている。

「……ねえ湊都さん、一刻も早く帰りたいって思う?」

「え? えーっと……疲れてはいますけど、明日は三限からですし、別に多少夜更かししても……」

「よーし。じゃあ、十五分だけ時間貰うね」

 クヌギさんは子どもみたいに無邪気な笑顔を輝かせて、くるりと私を振り返った。

「ここの公園寄りたいんだけどさ」

「はい」

「ブランコしたい!」

「……はい?」

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