第9話 毎日

 それからしばらくの間、私たちは今しかできないこと、大人だからできることを探しては楽しむのがなんとなくの習慣になった。

 一人暮らしだから。子供じゃないから。親がいないから。アパートの人がいるから。大学生だから。社会人だから。

 だからこそ、存分に、思いっきり楽しめるなにか。名前のつかない、形のない青くてキラキラしたもの。

 今までできなかったこと、そしてたまには、これからできなくなることも。

 習慣になった、とはいっても定期的なものじゃなくて、時期も決まってなくて、ただ誰かが思いついてふらっと誘って、時間のあるメンバーが反応して、ひととおり楽しむ、ってそれだけだ。

 だけどそれが、私にとって欠かせない、すごく大切な日常になった。

 それにアパートの他の住人さんも交えることがあって、少しずつお互いの顔と名前も覚えて、だんだん心構えを向けるようになって。

 少しずつ、私の毎日は回り始めた。

 自分のなかで停滞していたものが、ゆっくりとゆるやかに動き出す。進んでいるのか、戻っているのか、走っているのか、歩いているのか、脇にそれているのか、まっすぐなのか、立ち上がろうとしているのか、かがもうとしているのかもわからない。

 でも、確かに動いてる。ちゃんと、それを感じる。

 だから今は、それで十分だった。十分すぎるほど充実してた。

 大学生活は相変わらず不安とか不満とか、もしああしていたら、もしこうできたら、ってその連続だけど、でも帰った先にほんのひとつの些細なぬくもりがあるだけで、理想と違くても、思い通りに行かなくたって、ちょっと楽しむ心の隙間ができてくる。

 だんだん息がゆるやかになって、ようやく深呼吸できるくらいに空間が広がっていく。

 不思議なくらい気持ちいい。


 はぁ、と夜空に向かって息を吐いた。

 腕時計が示す時刻は午後九時半過ぎ。いつもならどんなに遅くても八時前には駅に着くのに、すっかり遅くなってしまった。

(どうしようかな……)

 駅を出たところで一度立ち止まって、もう一度ふうっと息をつく。今度は地面に向けて。

 だんだん、町の気配が夏めいてきているのを感じる。今までは春も夏も秋も冬もあんなに長くてだらだらうすく引き伸ばされていただけだったのに、クヌギさんたちに会ってからはなんだかいろんなことがあっという間だ。

(クヌギさんたち……そういえば、最近会ってない)

 さすがにこんな遅い時間に誘いは来ないだろうな。次に遊べるとしたら明日……いや、明日も朝早く出るし、

「あれ、湊都さん?」

 考え込んでいると後ろから声をかけられて、私は「あれ!?」と振り向いた。

 クヌギさんだ。いつものスーツ姿に、手から提げた鞄。仕事帰りらしい。

「クヌギさん! なんか、お久しぶりです」

「ううん、こっちこそ久しぶり。大学帰り? 大変だね、こんな遅くまで」

「いえ、私は今日はたまたまで……クヌギさんこそ、いつもお疲れ様です」

 お互いに向かい合って、私は小さく頭を下げる。と、クヌギさんが、「あれ?」と軽く首を傾げた。

「湊都さん、またなんか嫌なことあった?」

「え、なんでですか?」

「いや、なんでっていうか、特になんかあるわけじゃないんだけど……いつもより元気なさそうだなと思って。大丈夫? 変なサークルに勧誘されてるとかなら相談乗るけど……って、さすがにこの時期にそれはないか」

 そう聞いて、ああ、とひとつ思い当たる。

「あ、いえ、全然大丈夫です。その、嫌なこととかではないんですけど……ただちょっと、緊張してて」

「そっか。あ、じゃあちょっと歩きながら話す? アパートまで護衛するよ、頼りない護衛で申し訳ないけど」

 クヌギさんは鞄を持ち直して、道の先を指さした。

 私は慌てて手を振る。

「あ、いえ、嬉しいです! ありがとうございます」

 クヌギさんとは一緒にいるだけでなんとなく力が抜けるし、話すのも楽しいから嬉しい。

 ありがたく受けることにして、私はクヌギさんと並んで歩き出した。

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