夜の静寂に
平蔵
夜の静寂に
耳慣れない音が響いている。
人工呼吸器の音だけが時を刻む夜の病室で、わたしは傍らの仄暗い明りを見るともなしに見ている。やわらかな光に照らされた夫の横顔はほおがこけ、呼吸のたびに口元の白い絆創膏が歪む。皺の陰影のせいか年よりも老けて見える。あの日から十七年が経つ。
朝、わたしに手を振って笑顔で出かけて行った悠介は、高校一年の秋の日射しとともに消えた。風が冷たく感じられるようになった日の夕暮れ、電話の着信音が鳴って、普通の日々の終わりを告げた。病院へ駆け付けたときには、すべての処置は終わっていた。車道を自転車で走っていた悠介は、ショッピングセンターの駐車場から勢いよく飛び出した軽自動車と接触し、反対車線まで飛ばされたそうだ。軽自動車に乗っていた老夫婦とトラックの運転手に怪我はなかった。
「苦しまなかったんだよな?」夫は何度も繰り返して、そして泣いた。
わたしはというと、何も覚えていない。いや、電話の着信音、病院へ向かう途中の信号機の赤い色、廊下を行き交うピンクのナースウェア。永遠に続くかと思われた静かな喧噪。それらは時折、何の前触れもなく蘇っては消える。
「なんで悠ちゃんなの?」
悠介がいなくなってしばらくの間、わたしたちはよく口論した。口論というよりはわたしの一方的な愚痴だったかもしれない。
「なんで?」
「そんなのわからないよ」
「よくそんな顔していられるわね」
突然、病室に警報音が鳴り響く。わたしは椅子から立ち上がって、部屋の隅に移動する。若い女の子の看護師がやって来て、部屋が明るくなる。彼女はアラームを止めると、モニターを確認し、処置をして、何事もなかったかのように立ち去る。明かりが落ちて、部屋は再び静寂に支配される。
夫には仕事があった。悠介がいなくなってからさらに仕事に打ち込むようになった。それが恨めしかった。
「これから帰りが遅くなるよ」
普通の生活に戻っていく夫の姿が遠くに感じられ、そういう夫の姿が許せなかった。
「もう元通りね」
「いや、忘れてるわけじゃないよ」
そうやって何年もの歳月が無駄に過ぎてゆき、少しずつ正常な状態に戻っていったのかもしれない。結局、すべてを受け止めていてくれたのだ。冷たくし、あたって、溝を深くしていくことによって、夫に甘え、すべてを受け止めてもらっていたのだ。その夫も……。
「おまえ、ひとりで……」
ため息まじりにつぶやく夫の声。わたしはなにも言わず、黙ってそれを聞いている。息子の時と違ってもう取り乱したりはしない。今度はわたしが支える番だ。
「大丈夫だから」
今、彼は病院のベッドの上に横たわっている。
薄明かりに浮かぶ夫の顔からは何ひとつ読み取れない。人工呼吸器につながれて意識もなく、ただ機械的に呼吸をし、一番嫌がっていた状態で生きつづけている。彼は何を思っているだろう。
夜の病室は静かで、何時間か前まであった喧噪も、親戚の声も今はない。ただシューッという呼吸音だけが室内にこだましている。
布団の中に手を入れたが、握り返してはこなかった。
窓際に行って、カーテンを開ける。窓の外には赤や緑や白い電灯の色が散在していた。光の点滅が、それぞれに時を刻んでいた。外の時間はわたしたちの時間とは違った姿で過ぎてゆき、何事もなかったかのように流れてゆく。空には星々がきらめき、瞬きながらわたしたちをやさしく包み込んでくれている。骨張った指を組み合わせ、関節を額に当て目を閉じる。何かに身をゆだねるように立ち続けた。
目を開けると、すべての信号機が青色に変わっていた。
わたしは夫の呼吸に合わせて大きく息を吸い込んだ。
待ってて、悠ちゃん。
明日、お父さん。
(了)
夜の静寂に 平蔵 @conradxx
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