第4話 白楼の夜明け

 ――闇に、飲みこまれた。


 何も見えない。

 息を吸っても、空気が喉に入らない。

 耳鳴りのような重低音が、頭蓋の内側で鳴り続けていた。


(くそっ、落ち着け……!)


 身体が動かない。

 だが、指先だけが何かを掴もうとして震えている。


 思考の底で、因課にいた頃の訓練の記憶が蘇る。


「闇の中でも、反応しろ。お前の《衝裂》は反射神経で動く」


 わざわざ本部まで赴いてきたガラの悪い職員。

 煙草臭くて因課では禁止されてるスーツのボタンはほつれてて……支部では、組長なんて呼ばれてたあの人。


 異能を持たないのに、異能者よりも強いあの人の言葉は、海莉の支えでもあった。


(……ああ、そうだった)


 次の瞬間、海莉の右腕に閃光が走った。

 視界を覆う黒が音を立てて裂ける。


 衝撃波が周囲を弾き飛ばした。

 影の壁が砕け、視界が一瞬だけ広がる。


 そこには、形容し難い何かが蠢いていた。

 黒い粘液が、人の輪郭を模している。

 しかし、顔はない。

 代わりに、いくつもの口が開いた不気味な異形。


「……なるほどな。確かに喰うわけだ。この食いしん坊がよ」


 海莉は荒く息を吐き、姿勢を立て直す。

 右腕の衝裂がまだ微かに脈打っている。


(まだ動ける……。俺は、まだ……やれる!)


 闇の中で、影喰いが唸った。

 次の瞬間、数体の影が同時にこちらへ跳びかかる。


「はっ……」


 海莉は、口の端を吊り上げた。


「来いよ。夜のバケモンが!!」


 黒い影が、壁を這いながら形を変える。

 腕でも脚でもない。まるで液体の獣のようだった。

 光が届くたびに、無数の口が蠢いた。


「上か!」


 海莉は瞬時に地を蹴る。

 背後の瓦礫が爆ぜた。

 影喰いの一体が飛びかかるより早く、海莉の右腕が空気を裂く。


 空気の層が跳ねるような破裂音。

 衝裂は、殴るのではない。

 衝突そのものを発生させる力。

 拳が通った軌跡に、白い亀裂が閃いた。


 影喰いの身体が吹き飛び、壁を貫く。

 黒い粘液が飛び散り、地面で蒸発した。


「……ったく、耐久戦になりそうだな」


 息を荒げながら、海莉は視線を走らせる。

 影は減っていない。

 形を変え、増えている。


 殺せない。

 それがこの街の夜を支配する絶望だった。


 足元から、影が蠢く。

 海莉は踏み込んで、地を砕いた。


「まだだ!!」


 拳を振り抜くと、衝裂の線が一直線に走り、空気が悲鳴を上げる。

 数体の影が一瞬で霧散した。

 だが、散ったはずの黒が再び壁から滲み出す。


「ったく、冗談じゃねぇよ……!」


 海莉の腕が震える。

 衝裂を連発するたび、神経が焼けるような痛み。

 右腕の皮膚が裂け、血が混じった光が散る。


 だが、止まるわけにはいかなかった。

 影喰いの口が、笑ったように見える。


「笑ってんじゃねぇよ! クソがっ!!」


 海莉は息を吸い込み、踏み込む。

 地面が砕け、瓦礫が宙を舞う。

 爆発音と閃光の中、無数の影が吹き飛んだ。


 その中央に、海莉が立っていた。


「……はぁ、はあ……はぁ……ッ」


 影喰いの群れを吹き飛ばした衝撃波の中で、ふと顔を上げる。

 瓦礫の山の奥に、小さな光がちらついたような気がした。


 海莉は目を細め、息を荒げながら近づく。

 それは、乾パンの缶だった。

 泥にまみれ、歪んだ蓋の隙間から、反射した朝焼けの光が漏れている。


「……おい、待てよ」


 海莉は瓦礫をどける。

 その下にあるのは、小さな手。

 土と灰にまみれた指先が、微かに動いた。


「おいっ!! 生きてるか!?」


 返事はない。

 だが、胸がほんの少し上下していた。

 影喰いに引きずられた痕が腕に残り、皮膚は黒く染まっている。


(……間に合ったのか? 本当に?)


 安堵よりも、震えの方が先に来た。

 膝が勝手に崩れ、海莉はその小さな身体を抱き上げる。

 右腕の衝裂が、まだ淡く光を放っていた。


 その光が、影喰いの残滓を焼き払い、子供の腕の黒を薄くしていく。

 呼吸が少しだけ深くなった。


「……まだ、陽は昇ってねぇ」


 海莉は空を見上げる。

 夜の帳が薄れ、白楼の街に初めての光が差し込む。

 影喰いが煙のように溶け、街が再び形を取り戻していく。


「陽が昇るまで、生き延びろ……だっけか」


 駿の言葉を思い出し、海莉は小さく笑った。


「……俺たち、勝っただろ。生きてんだから」


 子供の体温が腕の中に戻ってくる。

 その温もりだけが、夜を終わらせる確かな証だった。


***


「海莉っ!!」


 瓦礫に背を預け、子供を抱えながら息を切らす海莉の耳に駿の声と足音が聞こえた。

 足音はもうひとつ。駿の後ろを走る長い黒髪を緩く後ろで結んだ女性。


 顔を上げて視線を向けると海莉は、口元に笑みを浮かべた。


「ガキも無事だし、夜は越えた。何とかなるもんだろ」


「いや、ボロボロになって言っても説得力ないって。まさか、一晩中戦ってたなんて言わないよな?」


「見りゃわかんだろ。戦ってたっての」


 苦笑しながら海莉は子供の頭を撫でた。

 腕の中でかすかに息をしている。


「ほんとに……バカだな」


 駿の後ろから現れた女が、膝をついて子供の様子を確認した。

 白い医療用の手袋。首元には簡易聴診器。

 それだけで、彼女が医療班の人間だとわかった。


「深町透子。医療班統括。あたしがこの子を治す」


「サンキュ。けど、危ねぇ場所なのによく来たな」


「駿に引っ張られてきただけよ。こっちが止めても聞かないんだから」


 透子が呆れたように言うと、駿は苦笑いを浮かべながら、後頭部を掻いた。


「ほら、結果的には助かったろ? 海莉がいなきゃ、今頃どうなってたか」


「おだてても何も出ねぇよ」


 海莉が鼻で笑う。

 夜明けの光が三人を包み、灰色の空気に少しだけ温もりが戻っていく。


 透子が立ち上がり、海莉に向かって手を差し出す。


「……連れて帰るわ。歩ける?」


「あー、足は動く。腕は無理。まあ、生きてるから問題ねぇだろ」


「それを問題って言うのよ」


 透子は冷静に、しかし有無を言わせぬ口調で続ける。


「助けはする。でも抱えてやるほど暇じゃないの」


「この女、鉄で出来てんのか……」


 ぼそりと漏らした海莉の呟きに、透子が瞬きもせず返す。


「駿、そいつ瓦礫に埋めといて」


「おいコラ! 医療班の台詞じゃねぇだろそれ!」


 駿が慌てて間に割って入り、両手を上げた。


「待て待て、透子! 海莉も口悪いが悪気はないんだって! こいつ、素直に感謝できないタイプなんだよ、多分!」


「……次からは黙って歩かせる」


「脅迫と優しさの中間くらいの声で言うなよ……」


 駿のぼやきを無視して、透子は立ち上がる。


「ただ、よく生き延びたな」


 駿が安堵の息と共にぽつりと呟く。


「生きるしかねぇだろ。死ぬ気で来たわけじゃねぇ」


「有言実行とかかっこいいじゃん」


「うるせぇな。何も出ねぇって言ってんだろ」


 海莉が口を尖らせると駿が笑う。

 その笑いはからかい半分、安堵半分。

 海莉も呆れたように息を吐き、肩の力を抜いた。

 透子は、やれやれと言わんばかりに目を細める。


 薄く白む空が、三人の影を地面に長く伸ばしていた。

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