第3話 沈む陽の下で
翌朝。
倉庫の扉から僅かに薄暗い光が差す。
重い鉄の匂いと、人の息の熱。
壁際に並んだ毛布の数が、昨日より減っていた。
「……また、一人、やられたな」
「東側の見張りだったって」
囁き声の中、何人かが海莉を睨む。
「外のやつが来たからだ。匂い、嗅ぎにきたんじゃねえのか」
「救助だって? 住人ごと街を潰す気なんだろうよ」
海莉は唖然とし、言葉を詰まらせる。
周囲の空気があからさまに自分を遠ざけていた。
まるで疫病を見るような嫌悪感だ。
「待て待て。海莉は関係ねぇだろ。昨日の恩、忘れたのか」
駿が住人を宥め、倉庫の端に置かれた缶詰を指差した。
外から持ってきた非常食を、全部置いていったのだ。
短時間しか活動できない彼らは、常に食糧に困っている。
今の海莉にできることは、信用を得ることだけだった。
「言い争いに使うくらいなら、消えた場所の見回りと食糧の仕分けを手伝え」
駿の言葉に、誰も何も言い返せなかった。
倉庫の中を漂う息づかいが重く沈み、やがて一人、また一人と外へ出ていった。
怒りが消えたわけではない。
ただ、白楼では時間が最も貴重な資源であり、言い争いに費やす余裕など、誰にもなかった。
「悪い。時間、無駄にさせた」
「しゃーねぇよ。ほれ、謝る暇すらねぇ。行こうぜ」
駿の笑い声は乾いていたが、不思議と心地よかった。
海莉は短く頷き、リュックを背負い直す。
橙色の光が差し込む扉の外には、まだ生きている街の匂いがあった。
***
外に出ると、空はすでに白く霞んでいた。
陽はまだ高いが、街全体に濁った光がかかっている。
風が吹くたび、錆びた看板が鳴った。
それ以外の音は、何もなかった。
「……ここが、昨日の消えた場所だな」
駿が足を止める。
路地の奥、壁一面が黒く焦げている。
焼けたわけではない。
まるで影だけが貼りついて、そのまま剥がれなくなったような、異様な黒。
海莉はしゃがみ込み、指先で触れた。
ひんやりとした感触。
それは土でも、煤でもない。
存在そのものが何かに削られたようだった。
「焦げ跡とかでもねぇな。表面が死んでる。生きていない」
「影喰いが通った跡だ。夜になると這ってくる。触れたもんは影ごと削れて、残るのはこれだけなんだよ」
駿の声は、静かだった。
しかし、その指先は微かに震えている。
悲しみを堪えている様子だった。
「姿も声も残らない。存在したという痕跡だけが残るんだ」
駿がそう言って、ポケットの中のライターを握る。
銀の小さな音が鳴るたび、緊張が喉を締め付けた。
「消えた場所の上に立つと、たまに見えちまう。誰もいないはずなのに、影が動く。幻覚ならいいのにな」
海莉は、何も言わなかった。
壁の黒に映る自分の影が、少しだけ揺れているように見えた。
駿が静かに息を吐いた。
「ここを片づけたら、次は北の区画だ。昨日、子供がひとり……帰ってない」
その一言に、海莉の背が凍る。
「子供って……!」
駿は目を伏せた。
「……一番元気な子だ」
海莉の瞳がわずかに戦慄く。
昨日、乾パンの缶を渡したあの少年。
薄汚れた頬に笑みを浮かべて、「ありがとっ!」と声を上げた、その姿が鮮明によみがえる。
「……嘘、だろ?」
喉の奥から絞り出した声は、かすれていた。
ふらりと足元が覚束ず、壁に手をつく。
指先に、黒く焦げたような感触が伝わる。
それは、もう誰かがいた痕跡だった。
「白楼じゃ、誰がいなくなってもおかしくないんだ。泣く時間なんてない。それが、生き残るってことだ」
その言葉が正しいと分かっていても、海莉の胸の奥で、何かが軋む。
拳を握る。
爪が手のひらを切るほど強く。
(……まだ消えたと決まったわけじゃねぇ)
海莉の目に、再び光が宿った。
(諦めたら、何のために俺は此処にいるんだよ)
冷えた風が頬を撫で、遠くで鉄骨の軋む音が響く。
太陽は、傾き始めていた。
駿が何かを言おうとした時、海莉はもう歩き出していた。
「おい、待て海莉! 日が沈みかけてる!」
「んなこと言ってられるか!! まだ見つかってねぇなら、探すしかねぇだろ!」
言葉は止まらなかった。
理屈よりも、胸の奥で燃える衝動が勝っていた。
救える命を放っておくことなんて出来ない。
それこそ、白楼に来た意味がなくなる。
「陽が沈む瞬間が、一番ヤバいんだ。影が増える!」
その言葉に、海莉の背が一瞬だけ止まる。
だが、足はすぐにまた動き出した。
「見殺しにして黙ってるなんて出来るか……!」
駿はもう追いかけなかった。
ただ、ライターの火を一度だけ灯し、すぐに消した。
その小さな火の残光が、彼の顔を照らした。
「……頼むから、生きて戻れよ。お前も、仲間なんだからさ」
***
街は静まり返っていた。
影が伸び、色が消え、世界が灰に沈む。
息をするたび、空気が重くなる。
海莉はポケットからライトを取り出したが、すぐにスイッチを切った。
駿の言葉が頭をよぎる。
“光は奴らを呼ぶ”
壁をつたい、手探りで進む。
瓦礫を踏むたび、硬い音が街の奥へ吸い込まれていった。
そのとき、耳の奥で低く唸るような音がした。
それは、呼吸だった。
振り返った瞬間、背中に冷たいものが走る。
自分の影が、地面に二重に映っていた。
「……は?」
片方は、海莉の動きと同期していない。
半秒遅れて、ゆっくりと首を傾ける。
目が、合った。
光でも、形でもない。
闇の中に目だけが浮かんでいるような錯覚。
思考よりも先に、身体が反応する。
海莉は瓦礫を蹴って後退し、拳を構えた。
黒い影が、滑るように地面を這ってくる。
音もなく、だが確実に生き物のように。
「……これが、影喰いってやつかよ」
次の瞬間、空気が歪んだ。
周囲の明かりが吸い込まれ、影が一気に膨れ上がる。
「なっ……!」
――視界が黒に飲まれた。
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