僕と折り紙を
江賀根
僕と折り紙を
インターホンの音が鳴り、パタパタと玄関に向かう母のスリッパの音が階下から聞こえた。
僕は気に留めることもなく、ベッドに横たわったまま、図書室で借りた「鉄人Q」を読み続けていた。
やがて、僕の名前を呼ぶ母の声が聞こえた。僕は仕方なくベッドから立ち上がり、少しだけドアを開ける。階段下から「洋一、お友達よー」という母の声。
友達?誰とも約束していないし、そもそも僕の家に友達が来ることなんて滅多にない。
まさか瀧口?いや、そんなはずはない。あいつが家に来るはずがない。
そんなことを考えつつ、階段を降りて玄関へ向かうと、そこには八十島くんが立っていた。
「急にごめんね。今から遊ばない?」
「…え?」
なんと返事をすれば良いのかわからず固まっている僕をよそに、母が「どうぞ上がって。どうせこの子部屋でごろごろしてるだけなんだから。今日はお父さんもいないし」と言って、彼に家に上がるように勧めた。
彼は「お邪魔します」と言って玄関に上がると、振り返って脱いだ靴を外に向けて揃えた。
「まあ、立派ね。洋一なんていつも脱ぎっぱなしなのに」
母は、八十島くんの前で明るい母親を演じているように見えた。そんな母の姿を見るのが嫌で、僕は八十島くんへの疑問を抱えつつも、2階の自室に彼を誘った。
僕は学習机の椅子に座り、彼にはベッドに腰掛けるように勧めた。
「…どうしたの?急に」
僕は素直に自分の疑問を彼に投げ掛けた。
八十島くんは、5年生のころに僕が通う小学校へ転校してきた。町には小学校も中学校も一校ずつしかないため、私立中へ進む数名を除いては、全員同じ中学校へ進学する。そして、僕と彼はこの年の4月から同じ中学校に通う同級生という関係だった。
一学年が100人にも満たない学校だったので、僕は彼の顔も名前も認識はしていた。ただ、友達か?と言われると、それは違った。
彼とは同じクラスになったことがなく、一緒に遊んだこともなかったからだ。僕にとって八十島くんは、(僕自身と同じように)いつも一人で過ごしている目立たない同級生の一人に過ぎなかった。
「一緒に折り紙したいなと思ってね。ほら、僕持ってきたからやろうよ」
そう言うと八十島くんは、ベッドから降りて床に座り、持っていた手提げ袋から折り紙の束を取り出した。
状況が理解できず僕が固まっていると彼は「ほら、絶対面白いからとにかくやろうよ」と腕を引いて、強引に自分の向かいに僕を座らせた。そのあまりに勝手な彼の行動に僕は苛立ちを感じ、何か一言言ってやろうとしたときだった。
「君、瀧口に苛められてるよね?」
数秒沈黙が流れた。そして次に口を開いたのも八十島くんだった。
「いきなりこんなこと言って驚くよね。でも、僕わかるんだ。僕も去年まであいつに苛められてたから。だからあいつの手口も知ってる。これもあいつだろ?」
八十島くんが、ベッドに置かれた「鉄人Q」に目線を向けて言った。「鉄人Q」の表紙には、鉛筆で下品な言葉や絵が描き込まれていた。
「返却日までに自分で消すの?僕も何度かやられて図書室の本を借りるのはやめたよ。でも、そしたら今度は教科書やノートがやられたけど」
実際、僕の学習机には、瀧口に落書きされた教科書やノートが並んでいた。
「他には、机の横に掛けていた体操服が袋ごと水浸しになっていたり、下駄箱に置いていた靴の紐が、何重にも固く結ばれていたり。直接手を出してくることはないけど、あいつの手口はとにかく陰湿だよね。体操帽の中に絵の具を仕込まれていたこともあったな」
体操帽以外は僕も経験済みだった。
「そしてあいつの質(たち)が悪いのは、先生や保護者の前では真面目で通っていること。それどころか、同級生もあいつがそんな陰湿な苛めをしていることに気づいていないからね。おまけに、あいつの親はあれだし」
これまでのところ、八十島くんの話は全て事実だった。
「僕は中学に入って別のクラスになったおかげで、あいつから解放された。でもあいつのことだから絶対に新しいターゲットを見つけて苛めてるはずだと思って観察してたんだ。そしたら先週の下校時に、靴紐を固く結ばれて困っている君を見かけてね」
ここで、ようやく彼の話は一区切りついた。
僕は何と言えば良いのかしばらく考えたが、口から出たのは「なんで…折り紙?」という自分でも意外な一言だった。
「はは」と短く笑うと彼は「気晴らしだよ。これで嫌なことを忘れようと思ってね」と言った。そして続けざまに「いや、忘れるというより、いっそ嫌なことの原因を消してしまおうと思ってね」と言い、そのときの彼の目は全く笑っていなかった。
彼は赤の折り紙を2枚取出すと、赤い面を下にして、自分と僕の前に1枚ずつ置いた。
「この真ん中に、相手の名前を書くんだよ」
そう言うと彼は、手提げ袋からボールペンを取り出し、折り紙の中央に「瀧口耕平」と書き込んだ。そして僕の前にボールペンを置いた。
「さあ、君も書いて。もし、瀧口よりも憎んでいる相手がいるなら、その人物の名前でも良いけど」
「…なんなの、これ?」
「まあ、おまじないみたいなもんだよ。苛めから解放されるための。ほら書いて」若干強くなった彼の口調に押されて、僕は戸惑いを感じながらも彼と同じように折り紙に瀧口の名前を書いた。
「やっぱり瀧口だよね。じゃあ、今から折っていくから、僕と同じようにしてね。まずはこう半分に折って。そして次はここを…」
それから僕は、八十島くんに言われるとおりに折り紙を折った。元々折り紙の経験はあまりなかったが、それは今まで折ったことのない、初めて見る形の折り紙だった。
数分後、僕と八十島くんの手元には、人を模したような形の折り紙ができあがった。
「ここまでできればあとは単純作業だよ」
そう言うと彼は、手提げ袋から小さなプラスチックケースを取り出し、その中から1本の待ち針を出して僕に手渡した。
「その針で、この折り紙の好きな箇所を一箇所刺して。確実に仕留めたいなら頭か心臓が良いけど」
「…え?」
一瞬の沈黙のあと、八十島くんが笑い始めた。
「ははははは、大丈夫だって。おまじないだよ。こんなので本当に人が死んだら大変だろ?ははははは」
そう言われても僕は一切笑えず、言葉も出なかった。
「まあいいや。あとは君に任せるから説明だけ聞いといて。瀧口のことを考えながら、この待ち針で折り紙のどこか一箇所を刺す。刺すのは一日一回で、それを百日間続ける。一日でも忘れちゃダメだよ。毎日同じところを百日間連続で刺す。そうすればおまじないの効果が現れるから」
そう言うと彼は、自分が折った方の折り紙をくしゃくしゃに丸めて手提げ袋に入れ、立ち上がった。
「僕のは見本だからね。最後にもう一度言っとくけど、確実なのは頭か心臓だよ。じゃあ」
そう言って僕の部屋を出ると、彼は1階へ降りて行った。
固まったままの僕の耳に、彼が母に挨拶する声が聞こえてくる。それに対して母が「もう帰るの?」と言ったり、下から僕に「お見送りしなさい」と言う声が聞こえていたが、やがて彼の「お邪魔しました」という声のあとに玄関の閉まる音がして、家の中は静かになった。
その翌日から、八十島くんは学校に来なくなった。
しばらくして聞いた話では転校したらしいとのことだったが、詳しい理由や行き先などはわからなかった。以来、彼とは会っていない。
ただ僕は、あの日から折り紙に針を刺し続けた。最初は針の跡が付いた程度だったが、何度も繰り返すことで、今では折り紙には1ミリ程度の穴が開いていた。そして針を刺し続けたこの九十九日間も、瀧口の陰湿な苛めは続いた。
途中、八十島くんの話のおかげで、絵具が塗られた体操帽は被らずに済んだが、僕の給食から虫が出てきたり、私物がなくなる(大抵はゴミ箱から出てくる)ようなことが何度もあった。
決して八十島くんの話を鵜呑みにしていたわけではない。ただ僕は、自分を支えるための心の拠り所として、躊躇いや後悔を感じつつも針を刺し続けた。
そして今日、僕は自室の学習机で、折り紙に百回目の針を刺した。
心の中で「こんなことしても何も変わるはずはない。気持ちを紛らわすためにやっていただけだ」と思う一方で、頭でも心臓でもなく、折り紙の足の部分に針を刺し続けたという事実が、僕の中の良心や躊躇いを、そして矛盾した気持ちを表していた
翌日、緊張感を抱えながら登校すると、教室に瀧口の姿はなかった。
席に座ると、周囲から漏れ聞こえてくる会話はその話題ばかりだったため、僕は自ずと瀧口が来ていない理由を知ることになった。手の汗と全身の震えが止まらなかった。
やがてチャイムが鳴りホームルームが始まると、担任から正式に瀧口に関する話があった。
「昨日の夕方、瀧口が交通事故に遭った。命に別状はないとのことだが、暫くは学校には
来れない。自転車で交差点を左折する際に車に巻き込まれたらしい。お前らも交差点を曲がるときは重々…」
この日、このとき以降、僕はどうやって学校で過ごしたのか、ほとんど覚えていない。ただ、はっきり覚えているのは、帰宅後に引き出しから折り紙と待ち針を取り出すと、僕は急いで近所の公園へ行き、そこにある屑籠へそれらを投げ入れた。
もしや警察が訪ねてくるのでは?などという、有り得ない不安に襲われていたからだ。しかし、それらを処分したからと言って不安が消えるはずもなく、その日はろくに夕食も食べずにベッドに入ったが、ほとんど眠ることはできなかった。
担任の話のとおり、翌日も瀧口は学校に来なかった。数日間は同じように不安に襲われ続けながら過ごした。しかし、瀧口からの苛めが無くなった影響もあってか、僕の不安はほんの少しずつ小さくなっていった。
三週間ほどが過ぎた日のホームルームで担任から、瀧口がもう二度と学校に来ないことが告げられた。手術で足を切断したため車椅子が必須な身体となり、この学校の環境では対応ができないため転校する。本人は非常にショックを受けており、みんなに会える状態ではないとのことだった。担任が目を真っ赤にしながら、その話をして、それを聞いたクラスの数名が泣いていた。
一方で、その頃には僕の不安はほとんど消えていた。しかし不安の代わりに、折り紙に瀧口の名前を書いたことに対する後悔に僕は苛まれていた。そしてその後悔は、いくら時間が経っても小さくはならなかった。
それからもう四年が過ぎた。
あの後に瀧口がどうなったのかはわからない。知る術が無いし、知りたいとも思わない。
ただ、僕の後悔は四年間で更に大きくなっており、破裂寸前の状態になっていた。
なぜ、あのとき僕は折り紙に瀧口の名前を書いたのか。いくら悔やんでも悔やみきれない。
なぜ、あのとき僕は、折り紙に自分の父親の名前を書かなかったのか。
父親の存在に比べれば、瀧口の苛めなんて子供騙しに過ぎなかった。これ以上、父親の仕打ちに耐えることは無理だと判断した僕は、あの日の記憶を思い出しながら四年ぶりに折り紙を折った。中央に父親の名前を書き、父親のことを恨みながら、痣の残る手で折った。
そして今回は、迷わず心臓の部分を針で刺した。あと百日間の辛抱だと自分に言い聞かせつつ、父親のことを憎みながら刺した。
その後も、父親の怒鳴り声を聞きながら、泣きながら許しを乞う母の声を聞きながら、殴られた痛みに耐えながら、僕は百日間刺し続けた。
それなのに!父親はまだ生きている。
折り方が違ったのか、足りない手順があるのか。
八十島君、もしこれを見ていたら僕に連絡を下さい。そしてまた、僕と一緒に折り紙をして下さい。
僕と折り紙を 江賀根 @egane
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