ミストレス・クレインの帳簿 ~天才魔法使いだった弟の記憶で世界の歪みに相対する~
泉 梓
序編
第1綴: 『静寂の木陰』と大きな歪み
1枚目
カフェ【静寂の木陰】の扉が開くことは、今日もなかった。外の通りには人影もなく、昼下がりの光だけがカウンターを淡く照らしている。
カウンターの奥、エルーナは冷めたコーヒーを見つめながら、指先でマグカップの縁をなぞる。
(……今日も集客なし、か)
――――「売上、依頼、ともにゼロ。カフェの維持も、魔力の循環も、そろそろ危険域だね」
柔らかな男の声が、彼女の脳裏に響く。
弟――イドリスの声。彼の身体はもうこの世にない。けれど彼の意識は、姉の魔力に宿り続けていた。
だが、それは恒久的な存在ではない。魔力を使いすぎれば、イドリスは薄れ、やがて完全に消えるかもしれない。
世界に生じた
だからこそ、エルーナは依頼を受け続ける。生きるため、そして彼をこの世界に留めるために。
――――「ボクの最終目標は、姉さんの幸福だからね。非論理的でも、定義上は最優先だよ」
エルーナは苦笑しながら、マグカップを持ち上げた。
「……ほんと、あなたの幸福の定義はややこしい」
そのとき、店の扉が小さく鳴った。
目を向けると、初めて見る男が立っていた。旅の行商人らしい。疲れ切った顔で、両手に一枚の絵を持っている。
「ミストレス。この店は……どんな悩みでも解決してくれると聞いて来ました」
エルーナは、ゆるやかに顎を引いた。
「何を、お求めですか?」
「相棒を探しているんです。翼を持つ、特別な魔法生物でして……。五日間、探索チームを雇いましたが、足跡一つ見つかりません。魔力追跡も通じず……。どうか、その行方を突き止めてください」
差し出された絵には、青い翼の小動物が描かれていた。
「報酬は金貨三十枚。どうか、お願い致します」
その金額に、エルーナの心がわずかに揺れた。
——このカフェを救える額。そして、この
「分かりました。依頼を受けます。ただし、詳細な経緯は他言無用でお願いします」
男が去った後、店内に再び静けさが戻る。
帳簿の上に置かれた契約書を見つめながら、エルーナは深く息を吐いた。
「金貨三十枚。……夢のようね」
――――「夢ではない。必要経費の補填として極めて合理的な依頼だ。問題は——対象の特性だ」
イドリスの声が、思考の奥に染み込むように響く。
――――「その生物は魔力波形の最小値を感知して動く。普通の探索者が魔力の濃い場所を追う中で、奴は逆に、最も薄い領域を選ぶんだ。だから追跡が不可能になる」
エルーナは目を閉じ、意識を静かに沈めた。
イドリスの思考が、自分の中に溶けていく。冷たく澄んだ水が脳を流れるように、論理が流れ込み——やがて一点に収束する。
――――「座標計算、完了。町外れの廃墟。そこが最小波形の交点だ」
「……そこにいるのね」
そう言うとエルーナは厚手の外套を羽織った。
――――「もしかして姉さん、探しに行くつもりか?もう夜だし、依頼には捕獲まで含まれていない」
「駄目。もしこの子が傷つけられたら、依頼の意味がないもの。依頼主は相棒って言ってたのよ。生きて帰すことが、本当の依頼よ」
しばらく沈黙が流れた後、イドリスが小さく呟いた。
――――「……まったく、姉さんらしい。自分の安全よりも、ひとつの小さな命を選ぶのか」
「あなたが世界を解き明かしたその知識も、結局は人を救うためでしょ?」
――――「……そうだったかもしれない」
「それに一日休んだところで、赤字は赤字よ。捕獲して金貨三十枚を確実に得る方が、よほど効率的な経営戦略でしょう?」
――――「……姉さんの詭弁も、時には論理的と認めざるを得ないな」
エルーナは、イドリスの皮肉げな声を聞きながら、「本日休業」の札を下げ、夜の路地を駆け出した。
凍える風が頬を刺す中、イドリスが再び小さく囁く。
――――「……無茶はしないで。ボクは姉さんの中でしか生きられないんだから」
その声に、エルーナはわずかに微笑んだ。
「分かってるわ。あなたも、私の一部だから」
——廃墟。
崩れた壁の奥、青白い魔力の残滓が揺れていた。
その中に、小さな翼の生物がいた。怯え、震え、壁の影に身を寄せている。
「大丈夫。怖くないわ」
エルーナは、最小限の魔力だけを指先に宿し、優しく差し伸べた。
イドリスの論理がその魔力を整える。
――――「魔力圧、下限に。触れる直前で止めて」
その瞬間、青い翼の生物は、ふっと手の中に飛び込んできた。
温かかった。
エルーナは、その小さな命を抱きしめるように籠に入れ、帰路についた。
――――「姉さん。……やっぱり、君にはボクの冷徹な計算は似合わないね」
「あなたの計算があるから、私は動けるのよ。両方があって、ようやく私たちは完全なの」
翌朝。
再び『静寂の木陰』を訪れた行商人は、カウンターで温かいコーヒーを淹れるエルーナの姿を見て安堵した。
彼は、期待に満ちた目でカウンターを見つめる。
「ミストレス、相棒の座標は――」
エルーナは言葉を遮り、カウンターの下から小さな籠を取り出した。
中には、逃げ出したはずの翼を持つ魔法生物が、すやすやと眠っていた。
「ご依頼の相棒です。彼に傷はありません」
行商人は籠の中の魔法生物を見て、目を見張った。
彼は感激と安堵で深く頭を下げた。
「こ、これは……!相棒を見つけてくださったのですか!」
支払われた金貨三十枚が、カウンターの上で静かに輝いていた。
――――「これで、当面の経営は安定だね。姉さん、よくやった」
「ありがとう。あなたの計算通りだったわ、ほとんどはね」
――――「ほとんど?」
「最後は、感で動いたもの。あなたのデータには、想いの変数が抜けてるのよ」
イドリスは小さく笑ったような気配を残し、沈黙した。
そのとき、店の扉が開く。立っていたのは、かつての仲間、シグムント。
その
「……エルーナ。お前が残した知識に、致命的な欠陥があった。全てが裏目に出ている。俺たちを救えるのは、お前の“知識”だけだ」
エルーナはゆっくりと目を細めた。
――――「……欠陥、だって?面白いね。論理はいつだって、人の手で更新されるものだ」
カップの中で、冷めかけたコーヒーがわずかに波打った。
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