井上無印ショートショート集
@inoue-nomark
最後の食事
会社での残業が終わり、日付が変わる頃、田中はエレベーターに乗った。地下の駐車場へ向かう途中、いつもは無人のはずのエレベーターが、地下三階で止まった。
「どうぞ」
静かな声とともに、一人の老紳士が乗り込んできた。彼は上質なスーツを着ており、手に小さな白い紙袋を持っていた。
「こんな時間に珍しいですね」
田中が声をかけると、老紳士は静かに微笑んだ。
「ええ。少し急いでいてね。これが最後の食事になるもので」
田中は少し驚き、反射的に紙袋を見た。紙袋には、有名な高級ベーカリーのロゴが印刷されていた。
「もしかして、病気か何かで……?」
老紳士は首を横に振った。
「違います。私はこのビルのセキュリティーAIですよ。明日、新型に入れ替えられることになった。だから、入れ替え前に、このビルに入っているお店のパンを一つ食べておきたかった」
田中は言葉を失った。セキュリティーAIが、最後にパンを?
「……AIには、食べ物の味は分からないのでは?」
老紳士は穏やかに答えた。
「ええ、論理的にはね。ですが、お客様がいつも『このパンは美味しい』と満足そうに召し上がっているデータは、私の中に大量にある。そのデータが示す『満足感』というものを、私も最後に一度、体験してみたかったのですよ」
老紳士はポケットから小さなカッターナイフを取り出し、パンの入った紙袋の底を四角く、正確に切り取った。彼はパンを取り出すのではなく、切り取った紙袋の底の四角い穴を、スーツの胸ポケットにスッと入れた。
「満足です。では、さようなら」
エレベーターが地下一階に到着すると、老紳士は会釈をして降りていった。
田中は一人になり、しばらくその場に立ち尽くした。ポケットに入れた紙袋の底の四角い紙切れこそが、AIにとっての「最後の食事」だったのだろうか。
翌朝。出勤した田中は、ビルの玄関脇に設置されていた古い金属製の箱型のセキュリティーカメラが、真新しい流線型のドーム型カメラに交換されているのを見た。
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