四つ葉のクローバー

佐々木さっき。

四つ葉のクローバー


 子どもと手をつないで、川沿いの道をゆっくり歩いていた。

 やわらかな風が、水面をきらきら揺らしている。午後の光が、草の上に淡くこぼれていた。

 今、こうして子どもと歩く私は、あの頃より少しだけ強くなれた気がする。けれど、あの日、言えなかった言葉は、まだ胸の奥に静かに残っていた。


 ふと、目に留まる。川辺のベンチ――あの頃、よく座っていた場所。

 懐かしさが、胸の奥でそっと音を立てる。どうして今まで思い出さなかったんだろう。忘れていたわけじゃない。きっと、心の奥にそっとしまっていたのだ。


 結婚して、子どもが生まれて、毎日が目まぐるしく過ぎていって。思い出す余裕なんて、どこにもなかった。


「ねえ、ママ、見て! 四つ葉のクローバー!」


 子どもが指さす先に、四つ葉のクローバーがあった。それは、ベンチの上にそっと置かれていた。

 その瞬間――私は、足を止めた。胸の奥に、あの春の日の声がよみがえる。


「またね」


 もし、もう一度会えたなら。今度こそ、名前を伝えたかった。




 ――10年前。

 あの頃の私は、人と話すのが少し苦手で、言葉を飲み込むことが多かった。彼女は、そんな私の沈黙を、笑顔でそっとほどいてくれた。


 学校の帰り道。

 川沿いのベンチに腰を下ろし、課題に向かっていた。風が心地よくて、ページをめくる手も、自然とゆっくりになる。


 ふいに、背後から声がした。


「――あれ、先客がいる」


 振り返ると、見慣れない制服の女子学生が立っていた。うちの学校とは違う制服。知らない人。

 目が合ったので、軽く会釈すると、彼女も同じように頭を下げた。


「隣、座ってもいい?」


 まるで旧知の友人にでも話しかけるような、自然な口調だった。私は、どちらかといえば人見知りで、人付き合いが得意な方ではない。


「あ……どうぞ」


 そう言って、横に広げていた教科書やノートを慌てて片付け、席を空けようと腰を浮かせた――そのほんの一瞬のあいだに、彼女はもう隣に座っていた。そして、私を上から下まで見つめながら、話しかけてくる。


「その制服、桐華だよね?」


  前に傾いた重心のまま、私は一瞬、言葉を探した。


「……ええ、桐華です」


 声が少しだけ硬くなった。でも、彼女は気にする様子もなく、にこりと笑っていた。私は立ち上がるタイミングをすっかり逃して、前に傾けた重心をそっと戻す。


「あ、敬語じゃなくていいよ。あたし、一年だし。君は?」


 距離を詰めるような彼女の言葉に、私は少しだけ気圧される。知らない人にタメ口で話すのは、正直、得意じゃない。でも、「いいよ」と言われてまで敬語を続けるのも、なんだか不自然で。


「……同じ。一年」


「やっぱり?なんかそんな気がしてた。制服、まだ綺麗だしさ。いいなー、その制服」

「桐華に行きたかったんだよね。制服も可愛いし、進学校だし……でも、偏差値が全然足りなくて、結局諦めちゃった」


 彼女の言葉は、途切れることなく流れてくる。私は会話を繋ぐのが苦手だから、こうして話してくれるのはありがたい。


「でも、どうして桐華に? 女子高なのに」


「だって、制服がすっごく可愛いじゃん」


「そうかな……ただのチェック柄のセーラーだけど」


「そのチェックセーラーがいいんだってば。それに、有名なデザイナーが監修してるって、パンフレットに書いてあったし」


 私はこの制服、目立つからあまり好きじゃなかった。電車の中でもすぐに桐華だってわかるし、ちょっと気になる。


「そうかなぁ……私は、そっちのブレザーの方が好きだけど」


「うちのはね、ありきたりっていうか……ほんと、普通だよ」


「ほんとは、受験する予定だったんだけどね。その前に入院しちゃって、試験勉強どころじゃなくなっちゃった」


 彼女は肩をすくめて、少しだけ残念そうに笑った。


「……そうなんだ」


「――あ、ごめん。困らせるつもりじゃなかったの」


 慌てて言い添える彼女。私は、よほど困った顔をしていたらしい。昔から、感情がすぐ顔に出る。気をつけないと。

 気を使わせてしまったのか、彼女はすぐに話題を変えてくれた。


「そういえば、ここってよく来るの?」


「ううん、たまたま。帰りに横のパン屋さんに寄りたくて通ってたら、ちょうどいいベンチがあったから、課題してただけ」


 私は、飾らずにそのままを伝えた。


「ふーん、あたし、よく来るんだよね。ぼーっとするのが好きでさ」

「今も定期的に通院しててさ。病院の待ち時間って、ほんと暇でしょ。だから、よくここに来てたんだ」


 彼女は少しだけ俯いて、残念そうに笑った。でもすぐに、ふっと表情を切り替える。


「あとね、たまに四つ葉のクローバー探したりしてる」


 小学生みたいだな、と思った。けれど、初対面の彼女にそんなことは言えなかった。


「そ、そうなんだ。いいよね、ぼーっとするの」


「でしょ。だから、ここ好きなんだ。時間があると、つい来ちゃう」



 そのあとも、彼女と他愛のない話を重ねた。気づけば、私の心はすっかりほどけていて、彼女と自然に言葉を交わせるようになっていた。



「でさ、その先生がさ、自分ではウケてると思ってて、隙あらば親父ギャグ挟んでくるんだよね」


 私は、思わず笑ってしまった。彼女の話し方は、どこか間が絶妙で、つい笑みがこぼれてしまう。


「……あ、笑った。やった。今日の目標、達成」


「目標?」


「うん。初対面の人を笑わせること。あたし、わりと得意なんだよね」


 そう言って、彼女はふと空を見上げた。そして、ぽつりと、言葉を落とす。


「……あたしね、持病があって。いつまで生きられるか、わかんないの」


 風が、ふたりの間をそっと通り抜けた。さっきまでの軽やかな空気が、静かに色を変えていく。


「って、いきなり重すぎた? ごめん、びっくりしたよね」


 彼女はそう言って、少しだけ肩をすくめた。けれど、すぐに笑ってみせる。その笑顔は、どこか強がっているようにも見えた。


「でもさ、だからこそ、できるだけ笑っていたいの。誰かと話して、笑って、覚えてもらえたら――それだけで、十分だって思ってる」


 私は、言葉が出なかった。彼女の横顔が、風に揺れていた。私はただ、その姿を見つめることしかできなかった。


「……ほんと、変なこと言っちゃったね。今日みたいな日があるとさ、ちょっとだけ未来がある気がするんだ」


 彼女は空を見上げながら、ぽつりとそう言った。その声は、明るさの中に、ほんの少しだけ揺れを含んでいる。


「この話は家族以外、誰にも言ってないの……って、言っちゃったけど」


 そう言って、彼女は照れくさそうに笑った。私は、なぜ彼女が突然こんな話をしたのか、少しだけ戸惑った。


「どうして、その話を私に?」


 彼女は、少しだけ間を置いて答えた。


「名前も知らないあなたになら、言ってもいいかなって思って」


 そう言って、彼女はふと視線を落とした。ベンチの足元に、小さな四つ葉のクローバーが、ひっそりと顔をのぞかせていた。


「見つけた。ね、これ、あげる」


 彼女はしゃがみこみ、それをそっと摘むと、私の手のひらに優しく乗せる。


「……また、会えたらいいな」


 その言葉は、春の風に乗って、まっすぐ胸の奥に届く。


「名前、教えてよ……あ、やっぱりいいや」


「え、なんで?」


「次に会ったときでいいかなって。なんか、その方がいい気がするの」


「……そう」


「じゃあ、またね」


「うん、また」


 彼女は笑顔のまま、軽やかに歩き出した。その背中は、春の光の中に溶けていくようだった。


 私の目には、彼女はとても元気そうに見えた。とても、病を抱えているようには思えなかった。

 ――そんな彼女に、死が迫っているなんて。どうしても、信じられなかった。


 歩き出した彼女が、ふと立ち止まって振り返る。春の光の中で、目が合った。何も言わず、ただ微笑んで――そして、もう一度、歩き出した。


 私は、思わず口を開いた。


「あ――」


 けれど、言葉は喉の奥でほどけて、風に紛れて消えていった。ただ、手のひらの四つ葉だけが、そこに残っていた。


「名前、やっぱり聞いておけばよかったな」


 もっと話したかった。もっと、彼女のことを知りたかった。

 私は、そう思ってしまっていた。



 それから、まるで偶然を装うように、何度かベンチで彼女と顔を合わせる日が続いた。


 彼女はいつも何か話題を持っていて、私の沈黙を気にすることなく、笑いながら言葉を紡いでくれた。

 私は、話すことが得意な方ではなかったけれど、彼女の声に包まれていると、少しずつ心がほどけていくのを感じた。


 ある日、風が夏の気配になりはじめた頃――


「なんで、四つ葉のクローバーを探してるの?」


「え、だって、幸運をつかめるじゃん。知らないの?」


「いや、……知ってるけど」


「どうしたの? 今日はなんか、不愛想じゃん」


「……なにもないよ」


「なにもないってことは、何かあったってことだよね。あたしでよければ、話聞くよ?」


 少しだけ迷ってから、私はぽつりとこぼした。


「……喧嘩した。友達と」


 彼女は驚いた顔もせず、ただ静かに頷いた。そして、私の目をじっと見つめて、こう言った。


「明日、すぐ仲直りしなよ」


「え、でも向こうが先に……」


「だって、今、しとかないと、永遠にできなくなるかもしれないじゃん!」


 その言葉は、まっすぐで、どこか切実だった。彼女が言うと、説得力がある。


「そ、そうかもだけど……なんか、ごめんなさい」


「なんであたしに謝んのよ。違うでしょ」


 彼女は少しだけ眉をひそめて、でもすぐに笑った。


「謝るなら、その友達にでしょ。あたしには、もっと話してくれていいんだよ」


 その言葉に、胸の奥がふっと温かくなる。私は、彼女に話してよかったと思った。

 そして、別れ際になると、決まってこう言うのだった。


「名前は……また今度でいいよね」


 私はその言葉に、なぜか安心して頷いていた。名前を知らなくても、また会えるような気がしていた。

 風が通り抜けるベンチの上で、彼女と過ごす時間が、静かに続いていく。



 夏の気配が街を包みはじめ、制服も夏服へと移り変わる頃。私は、今日も川沿いのベンチに座っている。

 隣には、いつものように彼女がいて――気づけば、それが当たり前のようになっていた。


「ねぇ、この制服、着てみない?」


 言ったのは、私。

 ふとした思いつきだったけれど、彼女の反応は予想以上だった。


「え、いいの!?」


 目を輝かせてそう言った彼女の顔は、春の陽射しを浴びた花のように、ぱっと明るくなった。


「うん、私たち、背も同じくらいだし、きっと似合うと思う」

「それに、私もブレザー着てみたかったし。今日だけ、交換しようよ」


 正直、私もずっと憧れていた。中高とセーラー服だったから、ブレザーには少しだけ特別な気持ちがあった。


 駅のトイレで制服をそっと交換して、ふたりで笑い合いながら駅ビルへ向かう。

見慣れない制服を着ているだけで、いつもの風景が少し違って見えた。


「ねえ、写真撮ろうよ」


 彼女は、少しだけ私の方へ身体を傾けて、いたずらっぽく笑う。制服姿の私たちは、少し照れながらも並んで、シャッターの音に笑顔を重ねた。


 写真を撮り終えたあと、彼女は画面を見つめながら、ぽつりと言った。


「一生の思い出になったよ。……ありがと」


 少し大げさかな、と思ったけれど――その表情は、心から満たされているようで、きっと本音だったのだろう。


「こちらこそ。ブレザー、着させてくれてありがとう」


 制服を交換しただけなのに、心まで少し入れ替わったような気がした。その日撮った写真は、今でも私の記憶の中で、静かに微笑んでいる。



 駅ビルの帰り道。

 ふたりで笑い合いながら歩いていた、その途中で――彼女がふいに足を止めた。


「どうしたの?」


 私は、突然立ち止まる彼女に違和感を覚えた。


「っ……」


 その声は、風に紛れるほど小さかった。彼女の身体が、ふわりと傾く。


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 そして――崩れるように、地面へ倒れ込んだ。


「ちょっと! 大丈夫!?」


 声が裏返る。心が追いつかない。

 駆け寄ろうとした私を、彼女はゆっくりと手を上げて制した。


「……大丈夫。鞄、取って。薬、入ってるから」


 その声は、驚くほど冷静だった。まるで、何度もこういうことがあったかのように。


 私は慌てて彼女の鞄を探し、言われた通りに薬を取り出す。彼女はそれを手に取り、ゆっくりと呼吸を整えながら、静かに笑った。


「ごめんね、びっくりさせちゃった」


 その笑顔は、さっきまでの無邪気なものとは少し違っていて。どこか、痛みを知っている人の、やさしい笑顔だった。


「もう……大丈夫」


「最近は、検査の数値、安定してたんだけどな」


「……ひとりで、帰れる? ……送っていこうか」


 私は心配で、彼女にそう尋ねた。


「ん、薬飲んだからへーき」


 彼女はそう言って、ピースサインを作ってみせる。笑顔だったけれど、その仕草はどこか無理をしているように見えた。


「……そう」


 私には、そう答えるしかできなかった。


「じゃあ、またね。次会うときは、名前、聞かせてね」


「うん、……またね」


 その日も、私たちは名前を交わさなかった。けれど――私は、知ってしまった。


 彼女の名前を。


 ――**。


 薬袋に、そう書かれていた。


 見てしまった瞬間、胸の奥がふっと揺れた。知りたかったはずなのに、こんな形で知ってしまったことに、少しだけ戸惑いが残った。


 彼女の声で聞きたかった。風に乗って届くような、あの笑顔のまま、そっと名乗ってほしかった。


 名前を知ることと、名前を交わすことは、きっと違う。私はまだ、彼女の名前を「受け取って」いない気がした。


 だから、次に会えたら――今度こそ、ちゃんと名前を言い合いたい。風の中で、言葉として、心として。


 けれど、それが彼女と会った最後の日だった。





 春の暖かな日差しが、川辺のベンチをやさしく照らしていた。私は腰を下ろし、四つ葉のクローバーを探す子どもの姿を静かに見守っていた。

 風が水面を揺らし、午後の光が草の上に淡くこぼれている。


 そのとき、背後から声がした。


「――あれ?先客がいる」


 耳に届いた瞬間、胸の奥がぎゅっと揺れた。思わず振り返る。


 彼女の笑顔が目に入った瞬間、心の奥がざわめいた。ずっと忘れていたはずの感情が、風に乗って戻ってきたようだった。


 そこには、見覚えのある女性が立っていた。風に揺れる髪。変わらない笑顔。


 彼女はそっと、ベンチの上の四つ葉を拾い上げる。そして、私の目を見て、静かに微笑んだ。


「やっと、名前を言えるね。あたし、紗季っていうの」


「……うん。知ってた」


 私は、溢れる感情を抑えるように、そう答える。

紗季は少し驚いたような、でもどこか納得したような表情を浮かべた。


「やっぱり……薬袋、見たんだね」


 苦笑いしながらそう言った彼女の声は、どこか照れくさそうで、やさしかった。


「でもね、あなたの口から聞きたかったの」


「……私の名前、聞いてくれる?」


 その言葉に、彼女は静かに微笑んで、頷いた。


 私は、少しだけ息を吸って、名乗る。

 十年前に言いそびれた名前を、今、ようやく。


「私は、遥。……遥だよ」


 私の頬に一筋の涙が伝った。

 その瞬間、風がふたりのあいだをすり抜けていく。空気に、春の気配が混じっていた。


「……遥」


 彼女はその名前を、確かめるように口にした。そして、ふっと微笑んだ。


「いい名前だね。……やっと、聞けた」


 あの日の空気が、胸の奥にふわりと触れた。



 子どもは、見つけてきた四つ葉のクローバーを、ベンチの上に大事そうに並べている。その時、少し強めの風が吹いた。


 四つ葉が舞い上がる。空に溶けていくその姿を、私はただ見つめていた。


 胸の奥で、何かがほどけていく。

 ずっと言えなかった。

 ずっと、言いたかった。


 私は、心の中で、そっと呟いた。


――ありがとう。


 その言葉は、風に乗って、四つ葉とともに空へと溶けていった。


「ママ、誰と話してたの?」


 子どもの声に、私はふと我に返る。振り返っても、そこには誰の姿もなかった。


 ただ、風が頬を撫でていった。その風が、耳元を通り抜けた瞬間――


――こちらこそ。


 そう聞こえた気がした。


「ああ、せっかく集めたのに、全部飛んじゃった」


 残念そうに言った子どもが、こちらを振り返る。


「ママ、なんで泣いてるの?」


 不思議そうな顔で、私を見つめてくる。私は微笑んで、そっと言った。


「昔ね、ここで出会った人がいたの。今日、また会えたの」


 胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。子どもは、よくわからないという顔で、こちらを覗き込んでくる。


「じゃあ、行こっか」


「うん」


 私たちが歩き出すと、もう一度、風が頬を撫でていった。その風は、あの日と同じ匂いだった。


 私はその風に向かって、静かに言った。


「またね」



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