#03. この胸の痛みは……

 ヴァニラ国一、最強の魔法使いとうたわれるキルシュ=ヴァッサーは、悩んでいた。


 シュガー王女の日記を目にしてから、どうも調子がよくない。


 いつもなら、低血圧のせいで鬱陶うっとうしいと思う朝日が、きらきらと美しく感じる。


 花など興味もなかったのに、王庭に咲く花を見て、シュガー王女に似合いそうだ、などと考え、ぼーっとし……壁にぶつかる。


 いつもなら、完璧につくる魔法薬の配合を間違えて、爆発させてしまう。


 そして、あろうことか、シュガー王女の講義中、彼女の目を見て話をすることが出来なくなった。


 本で顔を隠しながら、なんとか講義を続けようとしたものの、心配したシュガー王女に顔をのぞかれて、キルシュは、奇声を上げて部屋を飛び出した。


(……なんだなんだ、これは? まったく、妙な気分だ! シュガー王女を見ると、からだが熱くなって、動悸どうきまでする。まさか俺は、何かの呪いにかかったのだろうか?)


 これまで魔法一筋で生きてきたキルシュ=ヴァッサーは、魔法以外のことにうとかった。


 キルシュは、その日から研究室にこもり、自身に起きた異変の原因を探るべく、研究に没頭した。


 様子のおかしくなった魔法使いを見て、城の者たちは、妙な噂を口にするようになる。


「あの最強と名高い魔法使いキルシュ殿が、強力な呪いにかかったらしい」

「まさか、敵国の魔法使いによる呪術の類か?!」

「明日にでも、戦争を仕掛けられるのではないのか?」

「だが、頼みのキルシュ殿があの状態では……一体この国は、どうなってしまうのだ……」


 城内に不穏な空気がただよう中、シュガー王女は、キルシュを心配して、夜も眠れぬ日々が続いた。


「一体どうしたというの、シュガー。姉さんに、話して聞かせてごらんよ」


 ヴァニラ国の一の姫、カラメル王女が、シュガー王女の部屋を訪れた。彼女は、女性の身でありながら豪胆ごうたんで、大層かしこい姫だと、他国でも評判だ。


 シュガー王女も、姉ならば、何か解決策を見つけてくれるのではないかと思い、涙ながらに、自身の胸の内を打ち明けた。


「実は、かくかくしかじかで……キルシュのことが心配で、食事も喉を通らないの」


 かしこいカラメル王女は、妹の話から、キルシュがおかしくなった原因について、すぐに察しがついた。


 しかし、可愛い妹を苦しめるキルシュのことが、カラメル王女は許せない。このままでは、愛する妹が餓死がししてしまう。


「大丈夫よ、シュガー。姉さんが、いいようにしてあげるから、安心おし」


 それから幾日と経たず、城内に新たな噂が流れた。


 シュガー王女の婚姻話が持ち上がっているという。


 しかも、お相手は、かねてからヴァニラ国を虎視眈々こしたんたんと狙っていると噂される、モンブラン帝国の第二皇子だという。


 つまり、敵から攻められる前に、手を組もうという策略さくりゃくなのだろう。それならば安心だ――と、城内の者たちは胸をなでおろした。



 その頃、研究室にこもっていたキルシュは、思いつく限りの方法を使い、呪いを解こうと試みたが、全て失敗に終わっていた。


 よろよろと亡霊のように研究室からい出したところへ、シュガー王女の婚姻話を耳にする。


(なんだって?! いつの間に、そんな話に……くそっ、なんなんだ、この胸を締め付けるような痛みは?! やはり、俺は…………)


 その時、キルシュの頭にあったのは、幼い頃から見守ってきたシュガー王女のこと。


(シュガー王女に……会わなければ……!)


 とにかく今は、シュガー王女の顔を見たい、逢いたい――その強い想いが、キルシュを突き動かしていた。ふらつく足取りで、シュガー王女の部屋を訪ねる。


「キルシュ! よかった……あなたのこと、心配していたのよ」


 涙ぐむシュガー王女を見て、キルシュの胸が締め付けられる。その時、ようやくキルシュは、自分の胸が痛む理由を知った。


 最終手段であった、惚れ薬の解毒薬を飲んでまで試したのだ。それでも効果はなかったのだから、さすがの魔法使いも認めざるを得ない。


 つまり、この異常な身体の不具合の数々……その理由は、シュガー王女にこそある、ということだ。


「シュガー姫……」


 久方ぶりに顔を見合わせた二人は、しばし見つめ合った。


 キルシュの目には、シュガー王女が急に大人びて見えた。波打つ赤金色に輝く髪も、見慣れた筈の、飴色の瞳も……すべてが懐かしく、また初めて見るようにさえ感じた。見ているだけで、全身に力がみなぎるようだ。今まで自分は、王女のいったい何を見ていたのだろう、と思った。


 シュガー王女も、改めて自身のキルシュへの想いを深めた。サクランボ色の瞳を、初めて見た時は、恐ろしいと思ったものだが、今では、見ているだけで安心できる。ずっとこの瞳に見守っていてほしい、と思った。


 逢わない時間が、二人の心の距離に、少しだけ魔法をかけたようだった。


(でも、もう遅い……)


 キルシュのほうが、少しだけ大人だった。


 王女と魔法使いでは、身分が違う。隣国の王子を相手に、魔法使いに出来ることは何もない。まして、モンブラン帝国は強大だ。これ以上の結婚相手は、他にないだろう。


「姫…………ご婚約、おめでとうございます」


 絞り出すように出したキルシュの言葉が、シュガー王女の心をふかく傷つけた。


「キルシュは……わたくしが、王子と結婚してもいいの?」


 王女の声は、震えていた。答えを聞くのが恐い……でも、聞かずにはいられない。


 キルシュの胸に、きりり、とつよい痛みが走る。


 しかし、キルシュは、その痛みを、


「俺は、いつでもシュガー姫の幸せを祈っています」

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