第二章:旅館到着と作業


車を降りると、冷たい空気が肌に触れた。山の空気だ。

都内とは違う、澄んだ冷たさ。木々の匂いがする。

深呼吸すると、肺が冷たい空気で満たされる。気持ちいい。


旅館の玄関は閉まっていた。引き戸の横に、呼び鈴がある。

先輩が押した。チャイムの音が、中に響く。


しばらくして、中から足音が聞こえた。誰かが近づいてくる。


引き戸が開く。


女将が立っていた。五十代くらいだろうか。

紺色の着物を着ている。髪は後ろで結ばれている。笑顔で私たちを見た。


「ようこそいらっしゃいました」


その声は、穏やかだった。


「消防設備の者です。お世話になります」


先輩が頭を下げた。私も頭を下げた。同僚も頭を下げた。


女将は、私たちを見た。三人を、順番に見た。


その目が、ほんの一瞬だけ、何かを確認するように動いた。

でもすぐに笑顔に戻った。


「はい。お待ちしておりました」


女将はそう言って、引き戸を開けた。


「どうぞ、中へ」


私たちは玄関に入った。古い木造の建物特有の、木の匂いがした。

廊下も、階段も、全て木造だ。床がきしむ音がする。

歩くたびに、ミシミシと。でも、掃除は行き届いている。廊下には埃一つない。


「お部屋は二階になります」


女将が階段を上りながら言った。私たちは後に続いた。

荷物を持って、きしむ階段を登る。

一段一段が、重みで沈むような感じがする。

古い建物だから、仕方ないのだろう。


二階の廊下を進む。突き当たりに、二部屋ある。


「こちらとこちらです」


女将が襖を開けた。どちらも和室だ。六畳ほど。窓からは、山の景色が見える。

木々が広がっている。


「お一人様用と、お二人様用でご用意しました」


女将がそう言った。


先輩が一人部屋、私と同僚が二人部屋に荷物を置いた。畳の匂いがする。

古いが、清潔だ。窓を開けると、冷たい風が入ってきた。山の空気だ。


「作業、すぐに始めてもよろしいでしょうか」


先輩が聞いた。


「はい、どうぞ」


女将は頷いた。


「お昼は、十二時半頃にご用意します」


「お願いします」


私たちは部屋で作業着に着替えた。青い作業服。社名が胸に刺繍されている。

工具を腰のベルトに付け、手袋を嵌める。準備ができたら、一階に降りる。


「じゃあ、始めるか」


先輩が言った。


まず、一階から点検を始めた。消火器の配置を確認する。

廊下、玄関、厨房、大広間。それぞれの場所に消火器が設置されている。

先輩がテスターを使い確認する。

私は台帳と照合し、記録を取る。

同僚は次の場所の消火器を確認している。一つ一つ、丁寧に。


「こっちは問題ないな」


先輩が言った。


「次、二階だ」


階段を上る。二階の廊下にも消火器がある。客室の前、踊り場。

一つ一つ確認していく。製造年、圧力、外観。

異常がないか、チェックする。


「これ、ちょっと古いな」


先輩が一つの消火器を指差した。

製造年を確認すると、五年前のものだった。


「交換時期だな。見積もりに入れとこう」


私はメモを取った。同僚も横で見ている。真面目な顔で。


三階だったろうか。同様に確認する。古い建物だ。廊下は狭く、天井は低い。

きしむ音が、歩くたびにする。この建物、何年持つんだろう。

そんなことを考えながら、作業を続ける。


「スプリンクラーも見るぞ」


先輩が言った。天井を見上げる。スプリンクラーのヘッドが、等間隔に並んでいる。配管の状態を確認する。錆びている箇所はないか、水漏れはないか。

一つ一つ、目視で確認していく。


「ここ、ちょっと錆びてるな」


私が指差した。配管の継ぎ目に、茶色い錆が浮いている。


「うん。まだ大丈夫だけど、注意が必要だな」


先輩がメモを取った。


誘導灯も確認する。非常口の表示灯、階段の足元灯。

電源を確認し、点灯試験をする。スイッチを入れると、緑色の光が灯る。

一つ一つ、確認していく。


「これ、切れてる」


同僚が言った。三階の誘導灯の一つが、点灯していなかった。


「電球交換だな。今やっちゃおう」


先輩が脚立を持ってきた。私が支える。先輩が脚立を登り、カバーを外す。

電球を取り出して、新しいものと交換する。

スイッチを入れると、緑色の光が灯った。


「よし」


時計を見ると、十二時を過ぎていた。


「そろそろ昼休憩にするか」


先輩が言った。


---


一階の広間に、昼食が用意されていた。


「お疲れ様です」


女将が頭を下げた。膳には、おにぎりと味噌汁、漬物が並んでいる。

シンプルだが、美味しそうだ。湯気が立っている。


「いただきます」


私たちは食べ始めた。おにぎりは大きく、具は鮭だった。

ご飯がふっくらしていて、塩加減もちょうどいい。

味噌汁は温かく、豆腐とネギが入っている。ほっとする味だ。


「美味しいですね」


同僚が言った。


「田舎の味だな」


先輩が答えた。


女将がお茶を注ぎに来た。


「作業、順調ですか?」


「はい。午後には終わると思います」


先輩が答えた。


「そうですか」


女将は頷いた。その目が、また私たちを見る。三人を、順番に。

そして、何も言わずに厨房へ戻っていった。


「いい人だな、女将さん」


同僚が言った。


「ああ」


先輩が頷いた。


私は何も言わなかった。ただ、お茶を飲んだ。温かいお茶が、喉を通っていく。


---


午後、作業を再開した。電気配線の確認だ。分電盤を開き、配線の状態を見る。

古い配線だ。被覆が少し劣化している。でも、まだ使える。


「古い配線だな」


先輩が言った。


「でも、まだ使える」


測定器で電圧を確認する。異常はない。正常値だ。


「漏電もないな」


「大丈夫そうですね」


最後に、避難経路を確認した。火災時の避難経路が、適切に確保されているか。

階段、非常口、窓。全てチェックする。

避難経路図も確認する。廊下に貼られている図面と、実際の建物が一致しているか。


「これで一通り終わりだな」


先輩が時計を見た。午後三時を過ぎていた。


「報告書は明日書こう。今日はここまでだ」


私たちは道具を片付けた。工具箱に工具を戻し、測定器をケースにしまう。

脚立を倒し、車に運ぶ。作業着は汗で少し湿っていた。思ったより疲れた。


「お疲れ様でした」


女将が玄関に来た。


「ありがとうございました。明日、細かい修繕をして終わります」


先輩が言った。


「はい。よろしくお願いします」


女将は頭を下げた。


「温泉、入れますので」


「ありがとうございます」


私たちは部屋に戻った。作業着を脱ぎ、汗を拭く。

窓を開けると、山の空気が入ってきた。冷たく、澄んでいる。

もう十月だ。日が落ちるのも早い。

山の向こうに、夕日が沈み始めていた。オレンジ色の光が、木々を照らしている。綺麗だ。


「温泉、行きますか?」


同僚が聞いてきた。


「ああ」


私は頷いた。


温泉は地下にあった。階段を降りていく。石造りの浴槽が一つ。

窓からは、山の景色が見える。お湯は熱かった。硫黄の匂いがする。

私は体を洗い、浴槽に浸かった。一日の疲れが、溶けていくようだった。

窓の外は、もう薄暗くなっていた。山の稜線が、夕焼けに染まっている。


「いい湯だな」


先輩が入ってきた。


「ああ」


私は頷いた。同僚も入ってきて、三人で湯に浸かった。

誰も話さない。ただ、静かに湯に浸かっている。

山の夕暮れは早い。窓の外が、だんだんと暗くなっていく。


湯から上がると、体が火照っていた。でも気持ちいい。

部屋に戻って、浴衣に着替える。旅館の浴衣だ。

少し大きいが、着心地はいい。畳の上に座って、窓の外を見る。

もう暗くなっている。星が見え始めていた。


夕食は午後六時だという。

あと少し時間がある。私は横になった。畳の匂いがする。

目を閉じると、少し眠くなってきた。

温泉の後は、いつもこうだ。体が緩んで、眠くなる。

でも、夕食まで寝てしまうわけにはいかない。私は目を開けて、天井を見た。

古い木造の天井だ。梁が見える。

何十年も、この建物を支えてきたんだろう。

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