Pandora

赤さん

希望の灯火


—プロローグ———————————————

半月の形をした大陸――ディアナ大陸

 その東に位置する大国、聖アストリア帝国。


さらにその国の片隅にある小さな集落では、日が沈んでもなお明るい光が広場を照らしていた。

 そこでは、一人の旅芸人が炎を操りながら芸を披露していた。


 男の掌の炎は、まるで生き物のように右へ左へと舞い、風に溶けるように形を変える。

 子どもたちは息を呑み、大人たちさえもその光景に見入っていた。

 男は微笑を浮かべながら、ひらりと炎を天へ放つ。


 その顔には旅の埃がこびりつき、瞳の奥には遠い過去を映すような、かすかな影が宿っていた。

 しかし今この瞬間だけは、彼の炎が夜を照らし、村に笑顔を灯していた。

 誰も知らない。

 この静かな夜が、彼にとって、そしてこの村にとって――

 千年の眠りから再び運命が動き出す夜となることを。

 ————————————————————

 


今日ここで死ぬ。

そう思うしかなかった。


目の前の怪物は、それを嫌でも悟らせてくる。

鋭い眼光。岩のような体。背からは黒い翼。

まるで、昔話で聞いた悪魔そのものだ。


せっかくこの小さな村を出て、聖都で騎士団に入ったというのに――

(見習いだけどな)

「里帰りした途端にこれか……」

クリウス=ヘールは苦笑した。


彼は帝国最強の軍勢と名高い《帝国騎士団》の見習い騎士。

三年前、平凡な村を飛び出して聖都デラークで修行を重ね、

半年前にようやくその名を手にしたばかりだ。

今日は久々の休暇。


自慢話をしに帰った故郷で、旅芸人の奇妙なショーを見ていた――

その最中、村外れから爆発音が響いた。

駆けつけると、そこに“悪魔”がいた。

「……お前、伝説に出てくる悪魔だろ?」

クリウスは息を荒げながら剣を構える。


返事はない。

だが、返ってこないほうがまだマシだ。

(いいさ。ここで終わるならそれも運命だ)

村人たちはもう逃げただろう。

あとは正規の騎士たちが来てくれるはず――

悪魔の腕が振り下ろされる。

視界が闇に染まる。


……何も、起きなかった。

「え?」

恐る恐る目を開けると、そこには――

旅芸人が立っていた。

あのとき舞台で、奇妙な踊りを披露していた男だ。

今は、悪魔をのしている。

信じられない構図だった。

「まだお駄賃もらってなかったな!」

旅芸人が笑う。


「な、何をしたんだ……?」

「何って、蹴ったんだよ。」

……何を言ってるんだ、こいつ。

悪魔を蹴って倒した? 冗談だろ。


「おい、後ろ!」

警告した瞬間、悪魔の巨腕が地面を叩き潰す。

土煙。爆風。

旅芸人は消えた――そう見えた。

「なんで今頃出てくるかねぇ」

振り向くと、背後に立っていた。

まるでそこが“元々の居場所”であるかのように。

「少しどいてろ。」

旅芸人の声の調子が変わった。


腰を低く落とし、刀を抜く。

刃は深紅に染まり、囲炉裏の火のように揺らめいていた。

次の瞬間、空気が爆ぜた。

視界から男が消える。

炎の尾が走る。

悪魔が一歩踏み出した、その姿が――裂けた。

炎の筋を残して、真っ二つに。


「……なんだったんだ、今のは」

言葉が漏れた。

再び背後に立つ旅芸人に、思わず苦笑する。

「背後取るのが趣味なのか?」

「いや、もしもの時の盾だな!」

全く笑えない冗談を、本人だけが楽しそうに言う。


「お前……何者なんだ?」

「俺か?」

旅芸人は口の端を上げ、名乗った。

「旅芸人のリート=ジンだ。よろしくな。」

その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かがざらりと鳴った。


どこかで聞いたことがある気がする。

「お前、帝国騎士団だろ?でも弱いな、見習いって所だろ」

続いてリートはクリウスの首飾りを指差す。

「その模様、聖都の紋章だ。……当たりだな?」

いたずらっ子のような笑顔。


なんて失礼なやつだ。大当たりだよ。

「だが、普通の旅芸人はあんなことできない」

「俺は――普通じゃないんでな。」

リートは口元をゆるめ、炎のような瞳を細めた。

「なんと! あの伝説の騎士団パンドラの団員だからな。」


あまりに突拍子もなくて、笑うしかなかった。

(こいつ……頭おかしいのか?)

だが、その瞬間。

リートの背に残った炎が、夜風に揺れて消えた。

まるで、ほんの一瞬だけ――

“伝説”が現実に触れたように。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る