第二章 初夏の訪れ(前編)

冷房の風が、書類の端をめくった。

窓の外は夏の気配を帯びた曇り空。

橘美桜はパソコンに目を落とし、指先でマウスを動かしていた。


仕事の合間、ふとカップの中のコーヒーに視線を落とす。

もう冷めていた。


「橘さん、今日の資料、午後までにお願いね。」

「はい、すぐやります。」


上司の声にそう返す。

柔らかな声。

彼――直哉は、社内でも誰もが認める穏やかな性格で、頼れる人だった。


お試し期間。

それは、彼と美桜が交わした“恋人関係”の条件だった。


「急がなくていいから。無理に好きにならなくてもいい。」

彼は、そう言って笑った。

けれど、その優しさが、ときに苦しかった。


美桜はまだ、心のどこかで“春”を抱えたままだった。

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