星守の涙

薄井氷(旧名:雨野愁也)

第1話 引きこもりの女神

あかり様ー! るい、参りました! 今日という今日は、外に出ていただきますよ!」


 ここは人里から遠く離れた、とある山奥にある洞窟。その入り口は人の背丈の三倍はありそうな巨岩で塞がれており、中の様子を窺い知ることはできない。俺はその巨岩の前に立って、今日も声を張り上げる。


「もう夕暮れですよ! お仕事の時間です! さあ、早くこの岩をどかして、そのご尊顔をお見せください!」


 沈黙が訪れた。洞窟の中からは何の返答もない。梨の礫というやつだ。俺は苛立って、さらに大きな声で叫んだ。


「あーかーりーさーまー! 何かおっしゃってくださーい!」

「……うるさい」


 その時、洞窟の奥からぼそりと低い声が聞こえた。俺の主人は、どうやらくたばってはいなかったらしい。俺は少し安堵しつつ、精一杯明るい声で主人の機嫌を取ろうと努める。


「ああ、良かった。あなた様のお声が聞けて一安心いたしました。だんだんと涼しくなり、過ごしやすくなって参りましたよ。どうです、一仕事なさってから、星を肴に一杯お飲みになるというのは?」

「んー……あと三百年待って」

「いや、どれだけ待たせる気ですか!」


 思わず突っ込んでしまった。多分、人間で言うところの「あと五分寝かせて」ぐらいの感覚なのだろう。俺は人間ではなく精霊だが、長らく人間の暮らしを見守ってきたから、それぐらいは分かる。


「あなた様がお姿をお隠しになってから、何年経ったと思っておられるのですか? 五百年ですよ! あなた様にとっては刹那かもしれませんが、人間にとっては途方もなく長い時間なのです! ……何も、俺はあなたに、強い光をもたらすよう望んでいるわけではありません。ただ、ほんの少し、暗い夜を照らしてくだされば、それで良いのです。星を灯すだけの、簡単なお仕事ですよ。何を億劫に思う必要があるのです?」


 この世界は、夜になると真っ暗になってしまう。いや、夜が暗いのは普通かもしれないが、本当に文字通り漆黒の闇に包まれてしまうのだ。月明かりひとつ見えないのだから。


 五百年前までは、夜になれば月や星が空に姿を見せていた。しかし、星を司る女神である天深空夜灯卜姫命あめのみそらのよあかりうらのひめのみこと——通称、灯——、すなわち俺の主人が洞窟の奥に引きこもって以来、月や星は空から忽然と姿を消した。


「星なんてなくても、人間たちはうまくやってるでしょ。今更私の出る幕なんてないわよ。それより涙、焼きそばパンと今週のステップ買ってきてくれた?」


 灯様の気だるげな声が聞こえてくる。ちなみにステップというのは、灯様が好んで読んでいる週刊の少年漫画雑誌だ。お気に入りの連載作品があるらしい。俺は読まないので知らないが。


「……それはもちろん。ここにあります」


 俺は手に提げたビニール袋を振った。カサカサという音が鳴る。


「そう、ありがとう。じゃあそれをそこに置いたら、さっさと帰って。私は忙しいの」

「何を忙しいことがあるんですか! ただだらけてるだけでしょ!」

「だらけるのに忙しいのよ。何を言われても、私は外に出るつもりはないわ。分かったら、もう帰ってちょうだい」


 それきり声は止んでしまった。俺は盛大にため息をつき、ビニール袋を巨岩の前に置いて洞窟を後にした。


「……はあ、今日も駄目だった。いったいどうすれば、灯様に仕事をしていただけるんだろう……」


 俺は暮れなずんできた空を見上げながら、再びため息をついた。


 また、星のない夜が来る。

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