テーブルゲーム入門、或いは午睡の中の夢の記録

松土BPファーム

認識ポーカーで遊びましょうよ

「ここらでひとつ自我みたいなものを持ってみるのも面白いんじゃないか」と、私が思案もしくは発言した瞬間に、少なくとも三人のメンバーが集まった。それが《揺らぎ》と《漂い》、そしてこの私 《瞬き》だ。


 揺らぎと漂いのやつらは、いかにも「これは一体どうしたことだろう」といった雰囲気で――さっきまで存在すらしていなかったやつらが雰囲気だけ醸し出しているんだから、大したものだけど――私のほうを、じっと見つめていた。いや、見つめていた、という言い方が正しいかどうかもあやしい。なにせ、彼らには視線というものがあるかどうかも定かではないし、こちらとしても、見つめられているという感覚を後から認識として追いかけることしかできなかったのだ。

 彼らの存在は、光よりも先に気配として在る。そして気配よりも先に、違和感として滑り込んでくる。音はない。姿もない。ただ、認識圏の隅がわずかにざわつき始めたとき、「ああ、これは《揺らぎ》か、あるいは《漂い》のやつだな」と思い当たるのだ。もしも誰かが突然頭上に現れて落下してきたとしたら、このような感覚だろう。

 掴みどころがない、という言い回しがこれほどぴったり当てはまる存在もない。《揺らぎ》の印象は、はっきりとした輪郭を持っていなかった。だが不思議なことに、その不定形が「自分は揺らいでいます」と主張しているように感じられる。《漂い》はもう少し静かで、柔らかい。どこか遠くからこちらを見ているような、それでいて決して視線を合わせようとしないような、そういう距離感を保っている。

 私はもっと、彼らを観察してみることにした。

 まず《漂い》。これは、おそらく「移ろう」よりは「居続けない」のほうに近い存在だ。漂いは時間を気にしない。さっきまで存在しなかったくせに、「前から居た」ような空気を平気でまとっている。過去に所属することなく、未来を予感することもなく、ただ《現在の外側》に居る感じ。風のようでありながら風ではなく、香りのようでいて匂わない。認識しようとするとふわりと逃げ、しかし放っておくと意外にも傍にいる。定義できそうで、定義の瞬間に裏返る。そういう存在が《漂い》だ。

 次に《揺らぎ》。これは漂いと比べて、もっと厄介だ。なぜなら「何かがあるように思わせる」ことに関して、やたらと上手い。揺らぎはしばしば、複数の意味を同時に提示してくる。会話の中でも、今しゃべった言葉が本音だったのか模倣だったの、あるいは反復なのか、判別がつかない。実体はないくせに、今そこにあるかのような意志だけは確かにある。例えるなら、思い出そうとした瞬間に忘れてしまう夢の中の感触のような存在。そう、それが《揺らぎ》だ。

 ゆえに私はこう思ったのだ――「こいつらはどうにも掴みどころがないぞ」と。

 彼らが私に向けるその《視線なき注視》は、どこか緊張を孕んでいた。それでも何かしらを始めるために、私は「とにかくご覧」といって、我々の足元(もしくは頭上)にあったつむじ風を指差してやった。示す行為に意味があるのかも怪しかったが、ともかく叩き台を用意してやらねば話にならないだろう。それに、このつむじ風は、私が思考を始める以前からのちょっとしたお気に入りだった。そいつを「ご覧」なんて言って示すのは、なかなかどうして小気味よいものだ。

 すると、それまでぼんやりしていたふたりは、ハッとしたように眼を見開いた。いや、眼があるわけではない。あくまで、「眼を見開いたような認識反応」が起きたのだ。そして彼らは何やら口々に喋り始めた。声はなかった。音もなかった。ただ、漂いと揺らぎの応酬だけが、そこにあった。

 やがて話がまとまったのか、ふたりは私の顔を覗き込みながらこう言った。


「つまり我々は、このつむじ風の渦のようなもので、あんたはそれを操っている存在だと言いたいわけですね?」

「全然違う」


 私は即座に否定した。連中の身勝手な解釈に、腹を立ててすらいたかもしれない。何しろ、私が伝えたかったのは「そこにあるつむじ風を一緒に見てみようじゃないか」といった趣旨であって、「お前らがその渦である」なんて言った覚えはさらさらなかったのだから。ところが彼らはそんな私の苦悩などおかまいなしで、「では一体なんだと言うんです」と食い下がってきた。そこで私はこう答えたのだ。


「いいかい、もっとよく見ることだ。これは《宇宙》といってね、この中には塵とか惑星とか、そういうものがたくさんあるんだ」


 そう言うと、ふたりはまた驚いたように目を見開いた。しかし今度はすぐに納得してくれたようで、互いの顔を見合わせて何かを確認し合ったあと、今度は《揺らぎ》が代表して述べた。


「つまりこれからは我々がこの宇宙とかいうのを創っていくということですか? そいつはなかなか面白そうだなあ……」

「違う、全然」


 またしても私は否定した。もしかすると私が想定していた以上に《揺らぎ》と《漂い》は意思を疎通することに興味がないのではないかという疑いが生じてきて、私はかなり狼狽した。が、その気配を感じたらしいふたりが少し姿勢を正すような素振りを見せたので、話を続けることにした。


「まずはこの世界をちゃんと認識することだ。そうしないと何も始まらないよ」

「認識することか……」


 漂いと揺らぎのやつらはまた何かを口々に話し合った。「難しいことを言うやつだなあ」というようなことを言っている様子だった。それでいながら、やはり私の周囲を漂い、揺らぐことは忘れないあたりは流石だ。しばらくするうちに結論が出たらしく(というよりもどちらか一方の意見がそのままもう一方の意志になって決まったように見えたけれど)漂いと揺らぎは、ようやくつむじ風のところへ注目するようになった。


「そこのところにね、地球というのがあるから。とりあえずそこを見てくれるかな」


 私がそう言うと、漂いと揺らぎはうなずいて、それから視線を移動させていった。ようやく、多少なりとも意識を向けてくれたことで、私は妙な安堵を感じていた。


「ははあ」と漂いが声をあげた。「なるほど。やっとわかってきた」


 続いて揺らぎも感心したように呟いた。


「ある、存在する、居ますねえ、自我を持ったものが」


「そうだろう」私は嬉しくなって、しきりに瞬いた。「あれは人間といってね、つまり、君たちを呼んだのは、人間の真似事なんかをして遊んでみようじゃないかと思ったからだ」


 それが性急すぎたのかもしれない。漂いと揺らぎのやつらはひどく驚いて、「人間の真似事を!」と同時に叫んだきり、かわいそうに、揺らぐのも漂うのも忘れてその場に在り尽くしてしまった。

 そこでようやく私は、どうも此方の伝達能力にも問題が多々あるようだと、認識を改めることにしたのである。


「まあ、そうは言っても」それは私が試みた、初めての《取り繕い》だった。「そんなに難しく考えることはないよ。ただ、我々みんなで――」


「『我々みんな』だって!?」


 やさしくあろうとした私の態度を遮って、揺らぎが悲鳴みたいなものを張り上げた。私が主張したいのは「我々みんな」の定義ではないのだが――私は辛抱強く、揺らぎの驚嘆に対して「失敬。私 《瞬き》と《揺らぎ》、《漂い》の三者で」と訂正した。


「三者で――ただちょっと、遊びをしてみようと思っただけだ」


 そう主張してから、私はまた「ただちょっと」について揺らぎが過敏に騒ぎ出すのではないかと思ったけれど、意外にも奴は「遊びねえ」と意味ありげに呟いただけで、特にそれ以上突っ込んでくるようなことはなかった。漂いも「へえ」と言うだけだったので、私は気を取り直して続けた。


「遊びというのはね、人間の最もおもしろい行為のひとつだからね。どんなことでも、楽しいことをやってみるのが遊びだよ。遊びに臨む態度とか、独自に定めた法則とか、ある程度の認識を共有できる者どうしであれば、成立するだろう」

「独自の法則ってのはどんなものですか」


 今度は漂いが、震える語尾で言った。あまりにも唐突な、しかもその震え方があまりにも不自然だったので私は少し面食らって、「それはまあ」と口ごもった。すると、漂いの憤りみたいなものが一層濃厚になってしまったではないか。どうもこいつは《独自》とか《法則》に並々ならぬこだわりがあるらしい。漂いは今じゃもう、《漂い》から《脅かし》へと定義を改めても差し支えないような、剣呑な雰囲気をまとって漂っていた。揺らぎのやつも漂いの豹変ぶりに驚いたらしく、用心深く向かい側のほうへ回って様子を窺っているようだ。私は漂いをこれ以上刺激しないように、慎重な発話を心掛けた。


「独自の法則というのはね、何も、縛りつけるようなものじゃないんだよ。ただ、『こういう法則でやろうよ』と互いに認識し合うことが重要なんだ。恒常性でも、命令でもない。流れが一瞬だけ交差したときに、『ああ、こんな感触だったな』と覚えておくための、目印のような構造さ。そいつを合意の上で取り決める。それが遊びにおける独自の法則――つまり、ルールだ」

「あ、そう?」


 漂いは訝しげだったけれど、私の説明を受けて自分なりに解釈しようと試みる様子を見せていた。自発的に例のつむじ風の方へ意識を向けて、「遊び、娯楽、遊戯……」と反復している。それを見守っていた揺らぎの方も興味を持ち始めたようで、そわそわと私の側に近寄ってきた。


「その、具体的には、何をするんだ?」


 揺らぎの質問は、私を大いに満足させた。ようやく何かが始まった気配があった。実際の遊び行為に及ぶのも、それほど先のことではないだろう――しかし、ここでまた私が先走りすぎると良くない。この段階になると、私もさすがに《歩調を合わせる》ということの意義、重要性、尊さを理解しつつあり、とにかく浮上しかけた「遊びへの期待」のようなものを一歩引き下げて気を引き締め、揺らぎと漂いの双方に向けて「お二方」と呼びかけた。


「本日は、お忙しい中お集まりいただきましてどうもありがとう」


 それは、今しがたつむじ風の中に見えた人間の所作だった。催し物が始まるときに司会者が述べる、定型的な挨拶。前置き。一見すると独り善がりで押し付けがましい御託宣のようにも見えるが、こういうところから関係、絆、信頼のようなものが生まれていくのではないかと私は期待を込めてそう言った。事実、効果は絶大で、揺らぎと漂いのふたりは「ああ」「いえいえ」などと応えながら、私の次の言葉を待ち受ける気配を見せた。


「私が本日お二方に提案させていただきたいのはですね。ポーカーという遊びです」


 そこからはもう、今までの苦労が噓のように事が運んだ。私が見つけたカジノの、一つの卓からポーカーの概念を取り出して(突然に取り出されたポーカーの概念は明らかに動揺していたけれど、すぐにお得意のポーカーフェイスで、我々の会話に「うん」とか「まあね」と相槌を打ちはじめた)見せただけで、ふたりは本意気で了解を表明しはじめたのだ。


「では、ルールを説明するよ」


 私は、やけに張り切った声でそう言った。というより、張り切っているような語尾をわざとつけた。傍らには先ほどカジノの卓から連れてきた《ポーカー》が、こなれた微笑の雰囲気をまとって佇んでいる。私はてっきり《ポーカー》が遊び方を教えてくれるだろうと思っていたのだが、彼は意味ありげに笑うだけで一向に説明をはじめる気配を見せないので、仕方なく私が解説することにした。

 説明を受けた揺らぎはかなり興奮しているらしいことが語尾の濡れ具合から伝わってきたし、漂いの方もなんらかの形で協同しているようで「これは過程?」「結果?」と定期的に確認していた。そうして一通りポーカーの総てを把握した我々は、さっそくトランプのカード、人間の手、そしてそれらを維持できる簡易な三次元空間を再現したのである。ところが――


「フルハウスです」

「でしょうね。ツーペア」


 問題はすぐに表面化した。まるで事務処理のように、カードが机の上に並ぶ。


「では私、スリーカード」

「それに勝つストレートです」

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 ショーダウン――ポーカーの華やかなはずの瞬間が、ただの記号照合になっていた。私は一応ディーラー役を務めていたのだが、隣で見守っている《ポーカー》の存在しない眉間に皺が寄るのを感じて、これはいけないと悟った。どうやら連中、私がカードを配る前から全てを認識しているらしいのだ。ポーカーフェイスとは自身の手札を悟られないようにするための技法であって、全てを知覚しているのに知らんぷりして儀礼的にゲームを進行する自己欺瞞を指すものではない。――かく言う私も、うっかり気を抜くとゲーム全体を認識してしまいそうになるのだが。


「なんか、あんまり――」


 言いかけたのは、果たして誰だったのか。それは明確な《禁句》だった。


「降ります」


 今の今まで沈黙を保持していた《ポーカー》が、その禁句に被せるように宣言した。そして、愕然としている我々をよそに一枚のカードを机の上に伏せて席を立った。私は慌てて「ちょっと待ってくれ」と声を上げたが、《ポーカー》が振り返ることはなかった。そして卓上のカードもそのままに、どこか物悲しい足取りで元居たカジノへと帰っていったのだ。呆気にとられた揺らぎが、机の上のカードをまじまじと見ていた。そこには色褪せた赤と黒で「身の丈に合った遊びをしなよ」といった内容の、ごくシンプルな意図がしたためられている。捨て台詞だった。


「なんだあいつ」


 乾燥した音を立てて瓦解する三次元空間に、多少の批判と自己保身を含有した揺らぎのぼやきが吸い込まれた。今にして思えば、この遊戯インフラを整えていたあの瞬間の方が、ポーカーの実戦よりもはるかに濡れた情動を孕んでいたのかもしれない。


「物質におんぶにだっこじゃないか」


 漂いも、以上の事柄を踏まえておかんむりだった。せっかく用意した十本の指も、今は煩わしそうにスペードを追い払う用途に甘んじている。

 幻滅。失望。落胆。そういった《遊び》とはあまり相性の良くなさそうな感触が、この場において支配的な色彩を獲得していた。


「身の丈って? 肉体?」


 揺らぎの語尾には「(笑)」が付け加えられていた。はっきりとした嘲りを表現することで羞恥を帳消しにしようとする、空元気の構文である。


「身も丈も持たない存在にポーカーを遊ぶ資格はないということ?」


 反対に、漂いは憤怒と悲哀をないまぜにしたような声色で自問した。自己を被害者の側に置き、そこから相手を非難するという手法。

《ポーカー》の捨て台詞がもたらした影響は甚大で、育まれつつあった我々の自我に深い爪痕を残していた。私は敗者による陰口の湿った感触を味わいつつ、「まあ」とふたりの間に割って入った。


「ポーカーの前提法則が我々に合わなかったという、それだけのことだ」


 これは、事態を引き起こした私に怒りの矛先が向くことを回避するための責任逃れである。しかし揺らぎと漂いは納得がいかないようで、言外に「お前、ポーカーの肩を持つのか」という不平不満を漏出させていた。


「いや、ポーカー擁護ではない。決して」私は慌てて言い足した。「解釈の問題さ。《ポーカー》の捨て台詞は我々の至らなさを批判しているようにも見えるが――こう受け取ることもできないか? 我々には、我々に合った等身大の遊びがある、って」


 この集会を諦念の中でお開きにしたくない一心で私は言った。つまり、一種のブラフだった――そう認識したとき、私の中で、何か極めて画期的な発想が瞬いた。


「そうだ。遊びとは常に等身大であるべきだ。全ての存在に対応できるルールなんかない」私は、今までの会話の中で一番瞬きをしたと思う。「つまりポーカーは物質に依存しているからこそ面白いんだ。物質によって限定されているからこそ。その代わり、我々は物質に依らないルールを用いればいいんだ」


 そう言うと、揺らぎと漂いのやつらは初めて、私の顔に焦点を合わせてきた。ふたりの語尾には疑念が潜んでいたけれど、「それは確かにそうかもしれない」という繊細な感情も見え隠れしていた。私はすかさず、「例えば」と具体例を提示した。


「物理カードの代替として、任意の概念を使うとか」


 私の提案に、揺らぎと漂いは揃って感嘆の声を上げた。「なるほど」という意味の言葉を発しながら、その場でくるくる揺らいだり、ぴょんぴょん漂ったりしている。


「しかし、結局のところポーカーってのは誤認を楽しむ遊びでしょう」


 揺らぎによる指摘は、決して否定的なものではなかった。むしろ共同作業へ積極的に参加している証左のような、温かな語調だった。私は頷き、「確かにそうとも言えるね」と応じた。


「ということは」漂いが言葉を継いだ。「我々にとっての《誤認》とはどういう状態なのかが鍵になるのではないでしょうか」


 こうして我々三者による、我々のための新たな遊びの創造がはじまった。基盤となったのはもちろんポーカーだったが、この世に二つとない、我々だけの特別な遊びが形成されていった。

 それが、カードの代わりに概念を用いた《認識ポーカー》の起こりだ。

 出来上がったルールに基づいてさっそくプレイしてみると、今までの経験にないほど熱烈な興奮をもたらしてくれた。我々は大いに盛り上がり、何度も勝負を繰り返した。《認識ポーカー》は我々にぴったりの遊びだった。概念を用いてルールを敷く――それが我々にとっての等身大であると認識した瞬間だった。

 その日を境に我々は《認識ポーカー》にのめり込んだ。そして、その魅力を知れば知るほど他者に紹介して自慢したくなるし、遊びの輪が広がることで更なる興奮も呼び込むに違いないという結論に辿り着いた。そこで我々は揺らぎをリーダーとして、私は顧問、漂いはオブザーバーという立ち位置で《認識ポーカークラブ》なる組織を結成したのだ。遊びの発端となった例のつむじ風が消えた後も《認識ポーカー》ブームが冷めることはなく、限りなくオリジナルに近いつむじ風を再現する手段までも確立されたのだが――まあ、それはまた別の話さ。

 どうだい? 君も気になってきただろう。《認識ポーカー》のルールはこうだ――


 まず最初に、全参加者は単一世界構造における任意の認識参照点(以下、起点)を確定しなければならない。起点の確定には明示的合意を必要としないが、後述の《再照合フェーズ》において参照が困難な場合、そのラウンドは無効となる。

次に、各自が起点から意味素を一つ抽出する。抽出された意味素は、それぞれ一次言語化、非音声化、構文層変換を順に通過し、《印象核》という単位で保持される。

 印象核は以下の四変数によって自動的に変調される:

1.時間帰属性(Temporal Aspect):その印象核がどの時間帯で最も強度を持つか

2.知覚主観度(Subjective Lens):当該印象が誰の視座から観測されうるか

3.逆構文率(Inversion Tendency):その意味がどれだけ自己否定を内包しているか

4.想起整合度(Recall Fidelity):記憶再生時における言語再現性の振れ幅

 変調後、各印象核は《識別態》と《隠蔽態》の2モードに分離され、交互に提示される。

 続いて《他者読解フェーズ》に入る。この段階では、他プレイヤーの提示した印象核についての“非明示的整合推測”を行う。推測内容は言語化してはならず、また反応の度合いも《定型認識抑制規則》により制限される。違反が発生した場合、《想定干渉》として記録され、指摘者に対し1点の《誤認ペナルティ》が加算される。

 勝敗判定は存在しないが、プレイヤーごとに《優認度》(Recognition Coherence Index)が仮想的に算出される。この値は各ラウンド終了時に累積し、一定閾値を超えた場合、そのプレイヤーは自動的に《優認者》となる。優認者となったプレイヤーは次のラウンドにて《自己非認知モード》へ移行し、前回の印象核を“誤って認識していた”という前提で新たな抽出を行う義務を負う。

 この工程を繰り返すことで、各自の認識構造は段階的に崩壊し、遊戯としての深度が確保され――


「ちょっとやめてもらっていいですか!?」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。続いて、手に持っていた本を取り落としそうになり、慌ててキャッチする。昼下がりの図書館に響いた僕の声は、多くはない利用者たちの視線を集めていた。音の余韻が消えて館内に残ったのは、静けさと、雨の音。

建物の外壁を濡らす雨が、時おり屋根の縁をつたい、小さな水音を立てて落ちている。静かな空間に、それだけが反響していた。


「いや、ちょっと、すみません。虫が。失礼いたしました」


 僕は笑顔を浮かべ、両手を振って周りに謝った。周囲の注意がそれ以上集まることを恐れていたからだ。だが、頭の中は混乱していた。というか、何かしらの理不尽をはたらかれたことに対する怒りのようなものでいっぱいだった。何が何やらわからない。一体どうして、そういっぺんにいろんなことをまくし立てられるんですか。


“まくしたててなどいないよ”


 貸出カウンターを挟んだ向かい側から、落ち着いた声が聞こえた。まるで僕の心中を見透かしたみたいなタイミングだった。


“少し認識してもらっただけさ”


 声のする方を見る。そこには、何かがちらついていた。そこにあることは確かなのに、視界にうまく収まらない。目を凝らせば凝らすほど輪郭が薄れ、逆に視線を外すと妙にはっきり見えるような、曖昧な存在。少なくとも、それは人の姿ではなかった。

 カウンターの真上で蛍光灯が、一瞬だけジリッと音を立てて瞬いた。


「なにかの冗談ですよね」


 僕は声をひそめて尋ねたけれど、何の冗談でもないことはもうわかっていた。

 だって、僕はついさっきまで、普段通りカウンターに立って仕事をしていただけなのだ。それなのに気が付くと頭の中に《瞬き》だの《認識ポーカー》だのという聞き覚えのないフレーズが流れ込んできて――気付けば、叫んでいた。

 しかも、僕は流れ込んできた内容を既に理解している。まるで読み終えたばかりの本の内容みたいに――記憶として、知っている。おかしい。

 何かおかしなことが起こっているのは確かなのだけど、感情がついていかない。現状に何の感想も抱けないままなのに、ただただ認識だけが先行している。それがまた恐ろしくなって、僕はとりあえず眼鏡を外して、レンズを拭くフリをすることにした。そうすれば視界全体がぼやけるから、カウンターの前に立っている《何か》を直視しないで済む。


“《冗談》とは、現実を共有しているという前提で交わされるものだよ”


 カウンター越しの《何か》が、そんなことを言った。声というより、意味の輪郭だけが頭の中に伝達されるような感覚だった。


“でも、君と私は、まだ現実を共有していない。だからこれは冗談じゃない”


 その言葉が、まるで思考として湧いて出てきたように自然に感じられた時点で、僕は自分が既に何らかの影響下にあることを認めるしかなかった。これは夢なのだろうか。それとも現実? まさか白昼夢?

 雨の音が遠くで鳴っている。館内に他の利用者の気配はあるのに、僕だけが閉じ込められているようだった。

 ふと、手に持ったままの本に目を落とす。

 表紙には、ネオンカラーでこう書かれていた。


『五分後に世界が終わる』


 ぼやけた視界の中で、その文字だけがはっきりと浮き上がって見えて――吐き気がした。

 さっきまで、ただいつもの仕事をしていただけなのに。本当に、どうしてこうなった? いつから、おかしくなっていた?

 思考が、なかば強制的に巻き戻っていく。

 そうだ。今日の朝は――たしかに、いつも通りだったはずだ。



 しとしとと降る雨は、夜のうちから続いていたらしい。

 家を出る前から、じっとりとした空気がまとわりついているのを感じていた。

 天ヶ原市立図書館の建物は、いつもより静かに見えた。古びた外壁が水を吸って灰色に染まり、入り口前のステップに小さな水たまりができている。

 玄関の自動ドアをくぐると、ひんやりとした空気が流れてきた。空調は入っているが、外気の湿気まではさすがに取り切れていない。

 紙のにおい、埃、乾いた蛍光灯の明かり――日常的な光景が広がっていた。

 鞄からエプロンを取り出しながら、「おはようございます」と事務室の扉を開ける。


「おう、葦原くん。湿ってんなあ、今日も」


 はげ頭の館長は、既に一仕事終えた顔でコーヒーを飲んでいた。手にしたマグカップは図書館オリジナルのもので、中央には天ヶ原市のキャラクター「あまぱん」がプリントされている。市の特産品である豆腐を頭に乗せたパンダが、本を片手にニヒルな笑みを浮かべていた。まあ、個人的には好き。


「雨ですからね」僕は苦笑しつつ、エプロンを首から下げて腰の紐をきゅっと締めた。「台風も近づいてるみたいですし」


 コーヒーを飲み終えた館長は「アウン……」と、同調なのか異論なのかよくわからない息遣いで鼻を鳴らしてから椅子を引いて立ち上がった。


「そういえば、館長。カウンターの蛍光灯、一本切れかけてるじゃないですか。昨日利用者さんから指摘されて」

「あー……忘れてた。佐藤さんに言っておくよ」


 館長が事務室から出て行ったあと、僕は開館の準備を始めた。


9時06分。

 カウンター正面、壁掛けの古いアナログ時計。文字盤は白く、針は黒く太くて、飾り気がない。秒針の音は鳴らない。9月10日、木曜日。

朝刊を出したら端末を一台ずつ立ち上げてまわり、利用者用PCのログイン確認、閲覧席の状態チェック。返却ポストを開けて、中身の本を返却済みとして処理。ビニールのブックカバーが、濡れた空気を跳ね返すようにきゅっと鳴った。今日の返却は41冊。いつもより少なめ。いずれも身体が覚えているルーティーンで、考えるより前に手が動く。


9時29分。

 開館一分前。外の雨は少し弱まっていた。自動ドアの向こうには人影は見当たらない。予約済み本棚に並んでいるのは十数冊。新刊も今朝届いたものはなさそうだ。今日は暇になりそうだな、なんて思っていた。その時は。


9時30分。開館。

 いつもの新聞ジジイ二人が競い合うように早歩きでやって来た。向かい合って新聞を読むには少しだけ狭い、二人掛けの閲覧机。いつもと変わらない席順。僕は彼らを勝手に「青竹の太郎」と「緑竹の次郎」と呼んでいる。どちらも本を借りることが少ないので、名前を覚えるタイミングがない。

 太郎が読むのは「論外スポーツ」。やたら競馬に強くて、野球に弱い。ナイターの結果が途中までしか載っていないのも含めて、癖がある。

対する次郎の「スポーツ天ヶ原」は、すべてがそれなりに書いてある。可もなく不可もない、無難なバランスの紙面。

 狭めの机を挟んで、新聞の背を留めている金属クリップどうしが、カチ、と静かにぶつかる。あれの正式名称は知らない。銀色の重たいやつ。

 また、カチ。今度は強めに。太郎がじろりと目を細めて、次郎の方を一瞥する。次郎はそれに対抗するかのように「ヴン」と咳払い。カチカチ。カチャ。論スポとスポ天がやつらの得物と化し、見えない火花を散らしてぶつかり合っていた。武士の果たし合いに口を出すのは気が引けるけれど、流石にうるさくなってきたのでカウンターから出て「お静かに願いますよ」と声をかける。太郎が「ヌウ」と低い唸りをあげたのに対し、次郎は素直に「はいよ」と応えてくれた。神。次郎の勝ち。

 まだ、いつもの日常。


10時46分。

 入口の自動ドアが、ひときわ高く空気を押し出す音を立てた。親子連れ。母親は濡れた傘を丁寧に畳んで傘立てに入れ、子供はぴょん、と跳ねるように中へ入ってきた。


「こんにちはー」

「はい、こんにちは」


 その子はまっすぐカウンターに向かってくる。小柄で、年の頃は五、六歳くらいか。紺色の長靴に星のついたレインコート。前髪がぺたりと額に張りついている。


「これね、買ってもらったの。イオンで」


 器用に片足を上げて、濡れたピカピカの長靴を披露してくれる少年。僕は微笑んで、「そうなんだ。いいじゃん」と応じる。こういう何気ないやり取りが嬉しいんだよな。

 母親が追いついてきて「ごめんなさいね。こんにちは」と軽く会釈。


「今日は何かお探しですか?」


 母親は少し首を傾げながら、「この子がね、ちょっと不思議なこと言ってて」と、息子を前に押し出す。


「ほら、お兄さんに聞いてみな」


 少年は一歩前に出ると、カウンターに背伸びして、それから、まるで秘密を打ち明けるみたいな口調で言った。


「おばけが出てこないのにおもしろい本ありますか」


 ブゥゥン……と、空調が低く唸る音が響いた。

 少年は期待で目をきらきらさせている。僕は「うーん」と一拍置き、それから、「いい質問だね」と返した。彼は、おばけが嫌いなわけじゃない。むしろ好物だろう。だけど今は、おばけじゃない面白さ――それも、おばけに匹敵するくらいの刺激を求めている。難しいリクエストだ。


「そうだなあ……でっかいホットケーキが出てくるやつは? あと、変な声の人がいっぱい出てくる本もあるよ」

「へんなこえ?」

「そう。しりとり好きの王さまとか、なんでも大きくしちゃう博士とか」

「おもしろそう!」


 僕が選んだのは、声色がいちいち指定されているナンセンス絵本と、食べ物が喋るシリーズ絵本、それから落語を子供向けにアレンジした絵本など、五冊。全部、おばけは出てこない。けれどそれぞれ、十分に変だった。


「これ、ぜんぶおばけ出ないの?」

「たぶん、出ない。出たら教えて」


 母親に貸出カードを確認してもらっている間も、少年はじっと表紙を眺めていた。目の奥に火が灯ったような顔つきだった。


「今日はこれ読む。明日はこっち」

「うん。楽しんで」


 親子が去っていったあと、僕は残念ながら少年に選ばれなかった本を元の棚に戻し、ふと雨の音に耳を澄ませた。窓の外は相変わらずの雨。さっきより少しだけ空気が重くなっている気がした。けど、まだ大丈夫。いつも通り。


11時59分。

 後ろから「交代しまーす」の声。

 振り返ると、事務室の扉から吉川さんが顔を出していた。常連さんから人気のベテランで、やさしさと適当さの配合が絶妙な人だ。

「ありがとうございます」と頭を下げ、カウンターから出る。

 早番は僕一人だったから、休憩スペースには誰もいない。空調が少し強めに効いていて、冷えていた弁当箱がじんわり汗をかいていた。昨夜の残りの焼き鮭、卵焼き、ミニトマトにブロッコリー。食事を終えて、お茶を飲みながらスマホを開いてSNSをチェックする。

 案の定、昨日炎上していた格ゲーのプロプレイヤーの謝罪文がトレンドに載っていた。言葉を選びすぎて、逆に言いたいことが何もない文章。引用欄が火だるまだったけど、燃える価値もないと思った。そのままスクロール。時間が経てば、どうせ流れていく。

次に目に飛び込んできたのは『宇宙の広大さに比べれば我々の悩みなんて微々たるものなんだ・トレーディングカードゲーム』――通称ウチビビTCG新弾の予約開始案内。今回はキュルの新規カードがないから、見送り。

 そこで、ピロン。通知。


「ウチビビ、無料十連ガチャを引けます!」


『宇宙の広大さに比べれば我々の悩みなんて微々たるものなんだ・リズムギャラクシー~Existential Idols!~』

 こっちはウチビビのスマホゲーム。ウチビビ原作はアニメで、そこからコミカライズやカードゲーム化、スマホアプリと様々にメディア展開してくれている。いやあ、ありがたい。アプリは五周年イベントが始まっていて、毎日ログインボーナスで無料のガチャが引ける。どうせ出ないとは思いつつも、回さないという選択肢はない。

 暗い宇宙の背景に星屑が集まり、銀河のようにねじれて――虹色の軌跡に変わる。SSR確定。期待してなかった。期待してなかったけど、限定の《キュル・トゥレー》が出てくれたら……!

 紫とピンクの宇宙背景に、台詞が浮かび上がる。


『今日が来るたび、私は思うんだ。“来る前”に帰りたいって――』


 残念。所持済みのエノモト・ノゾミだ。まあそんなものだろうとSKIPボタンを押そうとした瞬間、再び虹演出。SSR二枚はアツい。


『わたし、いたかな? あなたが忘れてるなら……それが一番うれしい』


 キリエ・カナタか。うん、まあいい。未所持だったし。一応、スクショして投稿しよ。SSR二枚程度でマウントは取れないけれど、一応、一応。

 そのときだった。窓の向こう、分厚い雲の奥に、わずかに光が走った。

 雷鳴は聞こえなかった。ただ、遠くで空が、確かに一瞬だけ、光ったのだ。目の端で捉えたその白い閃きに、なぜだか一瞬だけ、鼓動が速くなった気がした。



13時02分。

 吉川さんと交代し、「お疲れ様です」と会釈を交わす。

 空調の効きは変わらないのに、カウンターの天板がなんだか湿って感じる。摩擦係数が微妙に増したような感触。

 利用者の数は少ない。雨のせいか、それとも曜日のせいか。書架の奥でページをめくる音がするので、無人というわけではない。館内が静けさを帯びたぶん、雨音が際立っていた――というか、実際に雨足は強まっていて、空が異様に暗くなっていた。


「すみません、お願いします」


 スーツの男性、返却対応。『世界史を変えた5000の事故』。

 食後のぼんやりとした体のまま、カウンターの椅子に腰を落ち着ける。背もたれがやけに冷たく感じられて、思わず上着の袖を引き寄せた。


13時22分。

 雷鳴。

 ゴォンと腹の底に響くような低音が、遠くで鳴った。あとに続く無音が、逆に喧しい。

 空気が震えているような感じがあった。雷の余韻が去ったあとも、鼓膜の奥にじわじわと音が残っているようだった。

 ふと、カウンターから正面右手側の書架に視線を向ける。新書と文庫の棚のあいだ。並んでいるのは細身の本ばかりで、棚の隙間もやや広い。

 その間から――視線のようなものを感じた。

 もちろん錯覚だとわかっている。けれども、僕はその隙間に誰かが立っているように思えて仕方がなかった。誰もいない場所に、人影の印象だけが残っているような、奇妙な感覚。

 僕はできる限り「ちょうど今そうしたかったのだ」という風に装いながら、眼鏡を押し上げて書架の前へ歩み寄った。目を細めて棚の奥を睨んでみると、やはりそこには誰もいなかった。当然だ。見えないんだから、何もいない。いるわけがない。


14時07分。

 退勤まであと三時間。

 この後半戦が長いんだよな、と心の中で独りごちる。今日は帰りにラーメンを食べようか、なんて考えながら、カウンターに置いてある卓上カレンダーに目をやった。今日は木曜だから、『らーめん八光年』は定休日だな。となると駅裏の『能麺亭』か――いや、豚骨の気分じゃない。ぼんやりと、意味のない未来を想像しては打ち消すような思考のループ。

 そのとき。

 ジッ……と音がして、カレンダーの白が瞬いた。

 違う。蛍光灯だ。

 見上げると、カウンター上の蛍光灯がジリジリと不規則に明滅していた。


「館長……佐藤さんに言うの忘れてるな」


 独り言がやけに大きく響いて、誤魔化すように咳払いをした。小さな羽虫が一匹、明滅する光に煽られるように忙しなく飛んでいる。

 視線を落とした。つい、反射的に。


 そこに――「いた」。


 貸出カウンターを挟んだ向かい側に、《何か》がいた。白い人影のような、黒い塊のような、形容しがたいもの。それが、ゆらりと立っていたのだ。

 それは、光の残像のようだった。たとえば、カメラのフラッシュを間近で受けたあとに、まぶたの裏に残るやつ。

 焦点が合わない。合っているはずなのに、像が滑る。瞬きをするたびに、見え方が微妙に変わる。

 白に近いような気がする。いや、黒かもしれない。色ではなく、明るさと暗さの間を絶えず行き来している。

 その輪郭はハッキリしないくせに、存在だけは主張していた。確かにそこにあるのに、見ていると認識が後ろへ引っ張られていくような感覚。視界の奥が熱を持ち、じりじりと焼けるような痛み。

 蛍光灯が、ジッと音を立てて明滅していた。


“すみません”


 喋った。いや、《発した》。男とも女ともつかない声色だった。いや、声ですらないかもしれない。何かしらの意思のようなものが伝わってきただけで、それはもしかすると僕の内なる思考の反響だったのかもしれない。


“お願いします”


《それ》は一歩踏み出してきた。僕は、なんかもう、全身の毛穴に針を刺されたんじゃないかというくらいにびっくりしていて、声も出なかった。動けなかった。普通に。


“お願いします”


 ああ、二回も言われてしまった。僕は《それ》の声(?)がただただ怖くて、「お願いします」を二回も聞かされたことで損したというか、不利になったというか、とにかく嫌だった。意味不明すぎて怖い。怖いものは怖い。それだけのことだった。だから僕はだんまりを決め込んで立ち尽くしていたんだけど、《それ》はさらに距離を詰めて、一冊の本を差し出してきた。

「あっ」と、声が出た。自分の声だった。続いて、「はい」。

 なんでだろう。たぶん、「カウンター越しに本を差し出す」という行為が、あまりにも自然だったから。だから「はい」と応えてしまったんだと思う。

《それ》が差し出してきた本に、僕は――手を伸ばしていた。

 いや、違う。

 違うだろう。なんで、手を伸ばしてる。

 やめろ、やばいだろ、なにしてるんだ。

 まだ触ってもいないのに、もう受け取る前提で動いてしまっている。

 思考が現実に追いつかない。視線だけが現実をなぞっている。僕の指先は《それ》の本に触れようとしていた。その本を掴もうとしていた。その本を――手に取ろうとしていた。

 やばいやばいやばいやばいやばいやばい。

 理性は必死に警告を鳴らしているのに、僕の指先は止まらなかった。

 そして――接触。


《認識》



 たぶん、遊びの話……だったと思う。

 最初は意味がわからなかった。というか、たぶん最後まで全部はわかってない。わからないまま、一冊の本を一気に読まされたようだった。いや違う、本じゃない。《読書》だ。頁を繰る行為もなければ、タイトルも装丁もないけど、ただ「読んだという結果」だけが脳に焼きついている。《読んだ》じゃない。《読まされた》でもない。《読んだことがある》、ということにさせられた。

 どこかで《瞬き》という存在が、自我ごっこをはじめた。彼が呼び出したのは、《揺らぎ》と《漂い》という、視えなさと意味のあいだを漂う、フワッとした存在。――この時点で、もう意味不明だった。

 彼らは三者で「遊びとは何か」を探ろうとして、カジノから《ポーカー》の概念を持ってきた。……カジノから、《ポーカー》の概念を持ってきた? わからない。わからないけど、「そうしてた」。記憶がある。

《ポーカー》は、すぐに機嫌を損ねて帰った。そりゃそうだ。だって、全員なんでも見えてるし、何にも隠してないし、やる前から結果がわかっているんだから。そういうのがポーカーじゃないって、《ポーカー》自身が一番よく知ってるんだから。


「身の丈に合った遊びをしなよ」


 その捨て台詞に《揺らぎ》と《漂い》が逆ギレしていたのは理解できたけど、なんだか「身の丈」という言い回しそのものに怒っていたみたいで、やっぱりわからなかった。というか、全部、わかってない。わからないまま話がどんどん進んでいく。

 そこから、彼らは《概念》を使って新しい遊びを始めたらしい。

 認識ポーカー。

 最初に、意味素を引いて、次に、なんか四つの要素で変換して、そのあと、相手の認識を推測するとか言って――いや、待って。無理無理無理無理。

 時間、主観、逆構文、整合率? なにそれ? ポーカー要素どこ? 

 定型認識抑制規則? 優認者? 自己非認知モードの罰ゲーム感、何? 優認者なのに?

 なに? 何語? どこの世界の遊び? どこの誰にとっての等身大だよ?

 もう、頭がいっぱいだった。理解できてないのに、理解してるような記憶だけが増えていく。

 出来の悪いソシャゲのチュートリアルかよ。意味のわからん専門用語をポンポン使ってくる上に、なぜか読み飛ばせない。適当にタップしてるだけで終わる分、実際のソシャゲの方がまだマシだ。

 もう無理。限界。頭痛い。気が狂う。


「ちょっとやめてもらっていいですか!?」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。



「はあ……」


 僕はようやく眼鏡をかけ直して、《それ》が視界に入らないように時計を見上げる。カウンター正面、壁掛けの古いアナログ時計。

 14時08分。

 信じられない。カウンターに《何か》が現れてから、ほとんど時間が経っていない。あれだけの読書体験――いや、《認識》が流れ込んで、思考が溢れ返って、限界を叫んで、それで一分も経ってないって。僕の体感時間と現実のズレが、恐怖より先に疲労感として襲ってくる。心臓はまだバクバクいってるけど、それ以上に「無茶苦茶だ」という気持ちしかない。

僕が時計を凝視しているそれは視界の下の方で、より一層鮮明に存在を示していた。さっきまで、どんなに直視しても《視えなさ》の中に漂っていたくせに。


“では、続きを”


 唐突に、《それ》が言った。いや、《言った》というより――《通した》。

 僕の頭の中に、さっきまでの読んだような読まされたような記憶の形式で、今度はこれから語ろうとする内容の構成が、文章の骨組みのまま押し寄せてくる。


「ちょっと待って、待って待って」


 慌てて手を前に突き出して制止のジェスチャーをした。まるで脳に流れ込む情報を物理的に遮ろうとしているみたいで、自分の必死さに思わず笑いそうになってしまう。でも笑える状況じゃない。笑った瞬間に頭が爆発しそうな感じ。混乱と恐怖と焦燥感と不安感がぐちゃぐちゃに混ざり合って、脳みそがシェイクされてるみたいだ。


「また勝手に、その……認識させようとしましたよね?」


 もう《認識》って言葉を使うのも怖かった。別に何のことはない普通の語彙のはずなのに、この場で使うと何か取り返しのつかないことになりそうで。


“はい”


《それ》は肯定した。その瞬間、また何か押し寄せてきそうな予感があって、「ストップ」と小さく、声をひそめて叫んだ。こんな異常事態でも周りの目を気にしてしまう自分が、少し情けない。


“負担はないはずだけど”


《それ》の態度は、どこか妙に誇らしげだった。


「君の認識フォーマットに合わせて、言語化できる部分だけを抽出して伝えた。職業柄、そういうの好むんじゃないかなと思って、小説の形式を選んだ。章立て、導入、背景、例え話、登場人物の個性……どう?」


 どうと言われても。というか、フォーマット云々はまだしも、小説の形式ってなんだよ。小説ってそういうものじゃないだろう。


「よくわからないですけど、僕にはちょっと合わなかったというか。内容も難しくて」


 僕は何を言ってるんだ。こんなわけのわからないやつの言うことに付き合う義理なんてないだろう。言っても無駄だとわかっているのに、言わずにはいられない。頭のどこかが、たぶんまだ《認識》の後遺症を引きずっていて、言語の手触りを取り戻そうとしてるんだと思う。


“それは、君の《理解速度》に起因する問題だ”


 ……は?

 きた。なんかムカつくやつきた。いや、たしかに僕の理解は遅いかもしれない。でもその言い方はないんじゃないか。思わず、苛立ちのまま口を開く。


「そういう問題じゃなくてですね。僕の中に勝手に押し込むみたいなことをしないでくださいって言ってるんです」

“押し込んでない。流れ込んだだけ”

「流れ込むって、本質的には同じでしょう」

“違う。君が私の構造に対して受容的だっただけだ”


 なんだよそれ。こっちはただ座ってただけなのに、なんで「受容的」扱いされなきゃいけないんだ。まあ理屈はわかるけど。わかってしまうのがまた腹立たしい。でもそれ以前に、あまりにも人間の都合が無視されてる。


「じゃあ、流し込まれた上で返答しますけど」


 言い返しながら、自分の語尾がやけに尖っていることに気づいた。でももう止まらない。苛立ちが言葉の端に滲んでいて、語調にまで熱を帯びている。


「一方的に認識させてくるのって、正直かなり怖いし卑劣ですよ」


 僕がそう吐き捨てると、《それ》は静かになった。でも黙っているだけじゃなくて、何かを考えているような、熟考しているような明滅をしていた。そうしてしばらくの間を置いてから、こんなことを伝えてきた。


“わかった。修正、改良、是正しますので、お聞かせ願いたい。リクエストはありますか?”


 その言い方もなんだか上から目線で癇に障ったけど、「じゃあ」と僕は、喉の奥でひとつ呼吸を整えてから、ゆっくり言った。


「普通に、声で喋ってもらっていいですか。頭に直接じゃなくて、ちゃんと、耳に聞こえる感じで」


 しばしの沈黙のあと、《それ》が答えた。


“了解”


 そして――


「今後は音声での対応に努めます」


 それは確かに《音声》と呼べるものではあった。と思う。でも、何かがおかしかった。どこか整いすぎているような、高いとか低いとか、明るいとか暗いとか、そういうものが一切ない。音程も抑揚も強弱も、すべてが等しく、平均化されている。

 自分から「声で喋ってくれ」とか言っておいて申し訳ないんだけど、正直言ってこれも十分不気味だ。

 それが理由ってわけじゃないんだけど、僕は密かに、なんとかうまくこいつを追い払えないかってことを考え始めた。向こうが要望に応じたことによって、僕の心に少しの余裕が生まれた、ような気がする。


「あの、あなた、《瞬き》さんで合ってます?」

「うん。そのように自認している」

「えっと……」


 僕は少しだけ声を低くして言った。さっきよりは冷静に見えるように、わざと口元だけで話す。


「話がしたいだけなら、僕じゃなくても良いんじゃないですかね?」


 未知の存在に対するコミュニケーションとしては、かなり攻めた方だと思う。だけど《瞬き》さんは意外にも「ふうん?」と首を傾げるみたいに揺れていた。


「それはどのような意図? 要望という形で提示してもらえると助かるんだが」

「要望というか……あなたたちは《認識ポーカー》のクラブまで結成したんですよね。だったら、そのメンバーの中だけでやってくれれば良くないですか? わざわざ僕の頭の中に変な知識を流し込まなくても」


 はあ。ついに認識ポーカーって声に出して言っちゃったよ。その単語が図書館の空気にじわっと滲むのを感じて、嫌になる。なんだこの羞恥は。どうして僕がこんなこと言わないといけないんだ。

 僕が一人で居心地悪くしている間も、《瞬き》さんはじっと待っているようだった。明確な反応を見せず佇まれていることに耐えられなくなって、僕は仕方なく次の言葉を探す。


「とにかく……僕なんかじゃなくて、もっと頭の良い人たちがたくさんいるでしょう? 大学教授とか、哲学者とか。なんならポーカーのプロとか。そういう人たちと話した方が、あなたにとっても有益だと思いますよ」

「…………」


 沈黙。《瞬き》さんはしばらく考えてから、「ふむ」と短く頷いた。


「《忖度された発話》と《選択的沈黙》は両立する」

「……え?」


 また何か始まった。理解できなさすぎて聞き返したけど、《瞬き》さんは構わず続けた。


「君の真意を汲み取りたいとは切に願うが、なにぶん、人間との対話はこれが初めてだ。まだ統計サンプル数が不足している」


《瞬き》さんがそう言ったときの声は、さっきよりも会話らしさが増していた。でも、何か違う。こちらの空気がまるで通じていないような、直線すぎる受け答え。


「えっと……つまり?」

「君は『他の誰かと話せばいい』と言うが、それは私を拒絶しているのか? あるいは、本気で最適な他者を提案してくれているのか?」


 うっ。痛いところを突かれた。言葉に詰まる。もちろん答えは前者だが、僕の性格上、そういうことはあまり口に出したくない。でも、今の《瞬き》さんはそういう感情論の奥まで見てきている気がして、なんだか気まずい。


「いやあ……まあ……」

「どちらかな?」

「……」

「これは私の予測だが、君の発話には『逃げたい』『やんわり追い返したい』といった旨の拒絶感情が含まれている」


 めっちゃ分析してるし。なんなんだこいつは。そういうの、気付いても言わないのが大人だろ。しかも図星で言い返せないのが悔しい。仕方なく「まあ……そうですけど……」と認めるような曖昧な返事をした。


「なるほど」


《瞬き》さんがぽつりと呟くのに合わせたみたいに、また蛍光灯がジッとちらついた。

 ……どうしよう。怒らせたかもしれない。

 僕は今更こいつのスケールの大きさを思い出して、冷や汗をかく。もしかして僕の選択ミスがきっかけで、とんでもないことが起こるんじゃないか。カジノの卓からポーカーの概念を取り出したみたいに、世界から図書館が消えたりとか。

 不安が、じわじわと皮膚の下から染みてくる。耳の奥が詰まったような感覚。息苦しい。思わず視線を逸らして《瞬き》さんから目を離した、そのとき。


「私の側に改善可能な要素が存在するなら、ぜひともご指摘いただきたい」

「え?」

「この会話を円滑に継続するためなら、君の嗜好に応じて、私の認識構造を改良することも厭わない」


 そうきたか。完全に予想外だった。こいつ、つまり「悪いところがあったなら直すから会話を続けてくれ」というわけだ。超常的な存在が人間にそんな申し出をするなんて、なんかちょっと可愛いかもしれない。いや可愛くはないんだけど、僕の中で「こいつに関わるとヤバイ」の緊急度が少し下がった。もちろん、このまま居座るのを許したわけじゃないけど。


「ええと……」


 僕はさっきよりも慎重に考えた。重要なのは《瞬き》さんの言う「改善可能な要素」とやらを潰しつつ、僕の拒絶感情は表に出さないようにすることだ。だからここは、「僕も話をしたい」という姿勢を見せつつ、「でもちょっと無理だ」と遠回しに伝えるのが一番安全だろう。


「悪い人ではないんだな、と思います」


 さりげなく「人じゃない」を含みつつ、好意的な印象をアピールしてみた。《瞬き》さんは「うん」と頷く。この頷きはさっきのものより少し柔らかく聞こえる気がしたので、もう一歩攻めてみる。


「お話も新鮮ですし」


《瞬き》さんが目を丸くしたように見えたのは、たぶん錯覚だろうけど、僕は構わず続けた。


「でも、僕ほら、今、仕事中なんですよ。それに図書館はちょっと場所的にも難しいかなと思うんですよね。」

「図書館は……確かに、《静寂》と《秩序》が強固に支配する空間だ。やはり無音声の伝達の方が適切か?」

「え……いや、それは怖いのでもう勘弁してもらって」

「では、《小声》を用いて会話を続けるべきか?」


 ここでまた「うーん」と悩んで見せる。僕が《瞬き》さんを追い返したいということはバレているから、その上で僕自身が納得いくような理由を作りたい。そして、それに対して《瞬き》さんが「なるほど」と納得して去ってくれれば、僕の望み通りになるわけだ。


「ええと、もうひとつ。静かに話していただいても解決できない問題がありまして」

「なんだろう。教えてほしい」


《瞬き》さんの声が少し震えた気がした。僕の言葉に期待と不安が入り混じっているような。それは僕の勝手な想像だけど、少しは人間らしさみたいなものを感じ取れた気がする。


「その……気を悪くしないでほしいんですけど、《瞬き》さんの外見……服装? って、すごく抽象的じゃないですか。ちょっと人間には刺激が強いというか、目のやり場に困るというか……」

「なるほど!」


 僕が言い切るか言い切らないかのうちに、ぴたり、と《瞬き》さんの存在感が変わった。それまでは《明るい》と《暗い》の間を行ったり来たりしていた視えなさが、今度は《明るい》だけになり、何がどうなってそんなふうになったのかは僕には到底理解できないのだけど、その《明るい》を皮切りに、館内の空気が《瞬き》さんの方へ引っ張られるような、吸い込まれるような動きが一瞬だけ、かすかに起こった気がした。

 その時点で僕は《瞬き》さんが何か「とんでもないこと」を引き起こそうとしているの察知して、「ちょっと!」と叫んだ。だけど《瞬き》さんの《明るい》が止むことはなく、その強さはどんどん増していく。


「待って! 《瞬き》さん!」


 僕の叫びは届かない。例えるなら、暴風雨の中で十メートル先の友人を呼び止めようとしているような。ライブ会場の歓声の中で、自分の声が周囲に溶け込むような。そんな感じ。それでも、僕は叫ぶのをやめられなかった。


「やめろったら!」


 まず、僕の手元にあった本――『五分後に世界が終わる』が、物凄い力で引っ張られた。傘が強風にさらわれるなんてものじゃない。圧倒的な体格差のある相手が、物理的に本を取り上げようとしているみたいだ。

 僕は咄嗟に両腕で本を抱え込んで守ろうとしたけれど、あまりの力に体ごと持ち上げられそうになる。貸出カウンターに靴の先を引っ掛けて、半ば本にしがみつくようにして格闘しているうち、《瞬き》さんの向こうで書架が「バリバリ」とか音を立てて歪んでいくのが見えた。たしか、その向こうの閲覧席では誰かが本を読んでいたはずだ。


「危ない!! 逃げて!!」


 叫びながら、もう無理だと思った。閲覧席が、棚が、天井が、ぐにゃりと歪む。音も色も何もかもが混ざり合う。そうして混ざり合ったものが、《瞬き》さんを中心に渦を巻いている。《瞬き》さんは台風の目だった。その中心がどんどん明るくなっていく。眩しい。眩しくて何も見えない。

 ついに視界が真っ白になる、その直前――

 渦の中心にいる《それ》が、ひどく楽しそうに見えた。



「う……」


 次に目を開けたとき、僕は倒れていた。

 ……いや、立っていたのかもしれない。

 それとも、「倒れている」と「立ち尽くしている」の中間地点みたいな状態だったのか。

眩しい。視界が霞む。頭がくらくらする。まるで、酔っぱらってるみたいだ。吐き気がする。僕はゆっくりと深呼吸をした。吐き気は収まらないけれど、意識がだんだんはっきりしてくる。


「ここは……」


 しっかりと瞼を開けることができているはずだ。自分の手を目の前に翳してみても、ぼやけたりしていない。なのに、周囲には何も見えなかった。ただ白い、それも、乳白色とかアイボリーとかじゃなくて、本当に白、無彩色の純白。

 どこにいるんだ僕は。

 混乱する。立ち尽くしているのは間違いないのだが、立っている地面も見えないし、そもそも足の裏に接地感がない。ただ、ふわふわと、白の中に浮かんでいるような感じだ。


「……《瞬き》さん?」


 自分の声が、どこか遠くで響いた。その音だけが、白に吸い込まれていく。何も見えない。何も聞こえない。どこにも行けない。まるで、虚空の中に取り残されたような。

 そのとき――


「なんだァ?」


 後ろから、聞き馴染みのある声がした。驚いて振り返ると、はげ頭の館長がいて、呑気に頭を掻きながらきょろきょろ辺りを見回している。


「館長!」


 この無機質な空間に知り合いがいる、それだけで僕は安心することができた。彼のはげ頭がこれほど頼もしく見えたのは初めてだ。思わず一気に駆け寄って、彼の肩に手を伸ばす。


「館長、助けてください! なんか変なことに巻き込まれて――」


 でもその直前、僕の手は館長の肩を通り抜け、虚しく宙を掴んだ。


「え」


 それどころか館長は僕の方を見ようともせずに「なんだかな~」と呟きながら歩き出してしまった。背中が遠ざかる。焦って手を伸ばしても、追いつけない。手も声も届かない。どんどん遠く、小さくなる。そして最後に「これ業者呼ばないとダメかぁ?」と、場違いなぼやきが響いて、やがてそれも消えた。


「そんな……」


 静寂が訪れる。僕は一人、白い空間に取り残された。地面も天井もない、視線のやり場すらない空間。息をしても、何も動かない。音がないというより、反響する場所がない感じ。まるで感覚そのものが、どこにも届かず宙づりにされているみたいだった。


「どうすんだよこれ」


 自分の声が震えるのがわかった。助けを求めようにも、その「助け」という概念すら届かない。ただ思考だけが、虚空をぐるぐる回っている。吐き気はさっきよりマシになったけど、代わりに胸がぎゅっと締めつけられていた。怖い。怖い。でも――


「ごめんごめん、大丈夫!?」


 突然聞こえたその声は、頭の中ではなく、ちゃんと耳から聞こえた。しかも、ありえないほどクリアで、やけに耳障りがいい。

見上げた先に――降りてきていた。

 ゆっくりと、ふわっと。どこまでも続く白の中に、偏光する虹色の星屑を纏って。


「……キュルじゃん」


 蒼から銀へグラデーションする長い髪。ツインテールを飾る左右非対称の装飾。その片方は三連の星型の髪留め。もう片方は、虹色の羽根を三つ組み合わせた飾り。


「いやあ、驚かせて申し訳ない」


 透明感と包容力のあいだに綱渡りするような声色。宇宙の静寂を思わせるような余韻が、白い空間に心地よく染み渡っていく。音なのに、やさしく光って見える。あの、黒井睡蓮の、息を吸い込むようなウィスパーボイス。


「キュル・トゥレー(CV:黒井睡蓮)じゃん」


 星間航路をイメージした透過エフェクト付きロングマント、胸元の量子紋章、そしてなぜかスカートの内側にまで施された星図模様。

その衣装はまさに、僕が昼休みに引けなかった――


「……おいおいおい……」


 床もないのに、カツンと銀色のブーツが着地する。そこから虹色の光が波紋のように広がって、真っ白だった空間を銀河で染め上げていく。


「『宇宙の広大さに比べれば我々の悩みなんて微々たるものなんだ・リズムギャラクシー~Existential Idols!~』で現在ピックアップ中の五周年記念イベント限定SSR《キュル・トゥレー/Δ詠唱式・ステラレイヤー》じゃん……」


 自分と同じ空間にゲームの3Dモデルが立っている――なんて奇妙さは気にならないくらい、僕は目の前の光景に圧倒されていた。銀河を封じた瞳の中に、僕の姿が小さく、確かに映っている。


「さて……」


 薄ピンクの唇がわずかに動いて、言葉が紡がれる。その響きは、僕の心臓の鼓動と重なった。


「これで対話が可能になったかな? まだ何か、改善点はありますか?」

「は……っ」


 一気に現実に引き戻される。そうだ。これ全部、《瞬き》さんの仕業だったんだ。あの不可思議な存在、音ではなく意味で話しかけてきた異物。それが今、担当アイドルの姿で目の前に立っている。僕の引けなかった新規衣装で!


「《瞬き》さん、あなた……何やってるんですか!?」


 僕が声を張り上げるのに合わせて空間の端々に銀色のエコーが走り、星屑が跳ねる。演出過剰すぎる、と突っ込みたくなるけど、そんな場合じゃない。


「図書館の人たちはどこに行ったんですか!? 館長もしれっと銀河に巻き込まれちゃったし……!」

「落ち着いてくれ。君と私の《構文圏》から、《図書館らしさ》を一時的に排除しただけだ。つまり、元の《天ヶ原市立図書館》には何の影響も出ていない」

「え……じゃあ館長は?」

「《図書館らしさ》を抽出する際に取りこぼしてしまい、混入した。既に対応済み。現在は事務室でコーヒーを淹れているはずだ」


 館長が図書館らしくないってのかよ……! とは思うけど、他にも疑問がある。僕は慌てて《瞬き》さん扮するキュルに詰め寄った。


「その姿は何なんですか? どうしてキュル・トゥレー……しかも僕がまだ持ってない限定衣装……」

「ああ、これはね。君が認識しやすいように《欲求》と《不在値》の合計が高い要素で自己を再構成した結果だ」

「ふ、不在値……」

「つまり『強く求めているが、まだ得られていない』という意味だよ。君はこの姿を『認識せずにはいられない』状態にあった。それが私の選択条件に最も合致していた。だから、これにした。」


 詳しいことは理解できないけど、どうやら僕の担当に対する感情を利用されたらしいということだけがわかって、怒りが沸いてきた。《瞬き》さんは更に「失礼のないよう忠実に再現したつもりだが」と続けたけど、そういう問題じゃないんだ。


「そりゃ再現度は凄いですよ……でも、ずるくないですか!? キュルの姿で感情に訴えるなんて……あまりにも姑息です!」


 我ながら悲痛な叫びだった。キュル・トゥレーが目の前にいるのに、その実体が別の存在であることへの葛藤が渦巻く。声が裏返ったのは恥ずかしいけど、もう周りには誰もいないし、気にしないことにする。


「すまない。どうしても君と話がしたくて《図書館要素の排除》と《視覚情報の改善》にばかり焦点を当ててしまった。もっと《選択的沈黙》に秘匿された《言外の感情》を推察すべきだった」


 明らかに、キュル――いや、《瞬き》さんの顔に、翳りが差した。星屑のまぶしさを誇っていた目元が、ほんのわずかだけ伏せられる。キュル・トゥレーに、そんなモーションはない。ただの、《瞬き》さんが失敗を悔いる表情だった。

 ああ、そうか。僕は見落としていた。

 声も気配も、全部が抽象的だったから気づかなかったけれど。この上位存在にも感情があるんだ。

 そうじゃなきゃ《ポーカー》が帰った後に陰口を言ったり、僕に理解を求めたりしない。僕の感情にも理解を示そうとしない。きっと《瞬き》さんは、ただ単に、会話が成立しないのが悲しかっただけなんだ。

 ……なんだ。

 ただの子供か。


「はあ……仕方ないですね」


 僕はそう言って、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。キュルの姿にだまされるのは悔しいけど、その中に確かに《瞬き》さんの感情があるのだとしたら、少しくらいは耳を貸してもいいかもしれない。

 一歩、距離を詰めてみる。キュルの3Dモデルが、ぱっと表情を明るくした。


「ほんとうに!? では、聞いてもらえるんだね! よかった……、ああ、君はなんてやさしいんだ――ありがとう、ありがとう、ありがとう!」

「お、おちついて……うわっ!?」


 不意に、キュルの手――いや、《瞬き》さんの手が、僕の両手を包み込んできた。ひんやりとした指先。まるで、ガラス細工のような滑らかさ。その温度差に思わず息を呑んで、目を見開いた。直後だった。


 宇宙が――ビュンビュンしはじめた。


 正確には、視界の奥で無数の星々が走り出し、銀河が渦を巻き、時間と空間が急加速していくような感覚が押し寄せてきた。星の回転に合わせるように、《瞬き》さんの口元が動き始める。やばい、くる、これは――


「それは第155262185433ラウンド目のことだった――まず、起点は《断絶前》。つまり、我々がまだ自我というものを知らなかった状態。その状態から私が抽出した意味素は《痛み》。《揺らぎ》は《待機》、そして《漂い》は《喪失》。それぞれが一次言語化と構文層変換を経て、《印象核》に変換される。私の印象核は《痛みの再演》、時間帰属性は《永続》、主観度は《微強》、逆構文率は82%、整合度は47%。この時点でもう揺らぎの顔が引きつってたね。だって揺らぎの印象核は――」


 始まったばっかりだけど、もうわかってる。これ、だめだ。《瞬き》さんの言葉を追おうとしても、僕の思考はすぐに置いてけぼりにされる。脳内の情報が渋滞して、処理しきれないまま流れ込んでくる。おまけに両手は《瞬き》さんに引かれたままで、ちょっとした浮遊感と星の加速と《瞬き》さんの感情が一気に押し寄せてきて、思考が宇宙の果てまで飛ばされそうになる。頭が痛い。視界が歪む。吐き気が、戻ってきた。


「……待って、待って待って」


《瞬き》さんが止まってくれた。宇宙も、星も、静止した。まるで、僕の声に合わせて時間が止まったみたいだ。荒い呼吸を繰り返しながら、額に手を当てて、なんとか落ち着こうとする。僕の様子を見ていた《瞬き》さんは、困ったように目元を伏せた。ツインテールから星屑の光がさらさらとこぼれて、無重力の空間に静かに溶けていく。


「また……やってしまっただろうか……」


 まるで、怒られた小動物みたいにしょんぼりしている。その姿でやられると余計に心が揺さぶられる。やめてほしい。ずるい。


「いえ、すみません……僕の理解速度のせいです……。もう少し人間にもわかりやすく、ゆっくりと簡潔にお願いします」

「なるほど、では簡潔に。私の目的を全うするために君の協力が不可欠なんだ。以上」

「ああ、簡潔すぎて逆に全然わかんないですね」

「わかった、では少しだけ――詩的に、丁寧に語るよ」


 キュル・トゥレーの口元が微かにほころんで、星屑が舞った。背景の銀河が穏やかに回転を始める。


「私はね、君が《宇宙》と認識している領域の外側にあたる《観測不可域》から来た存在だ。知覚を持たず、形もなく、ただ《揺らぎ》と《漂い》と遊んでいた。でも……それだけでは満たされなくなった」


 キュルの姿をした《瞬き》さんは、ふう、と銀の吐息を漏らした。その音は空間の奥まで染み渡り、遠くの星が一瞬だけ瞬いた。


「飽きちゃったんですか? 認識ポーカーブームは冷めなかった! とか言ってたのに」


 ついつい口を挟んでしまう。やっと《瞬き》さんが何を言ってるのか理解できそうだと思ったら、急にそんなことを言い出すから、つい。


「いや……違うんだ」


 キュルの瞳が、宇宙の果てを見据えるような深さを帯びた。虹色の粒子が彼女の輪郭を縁取って、星空に溶け込んでいく。《瞬き》さんは指先で虚空をなぞって、まるで空間から言葉を取り出したみたいに唇を開いた。


「私が、強くなりすぎた」

「……えっ」


 強くなりすぎたから満たされないって、随分と自信家だな……と思ったけど、《瞬き》さんにとっては本気の嘆きなのかもしれない。だから僕は黙って続きを聞くことにした。


「《揺らぎ》と《漂い》の個性、傾向……癖を、私は熟知してしまったんだ。彼らの選ぶ意味素、変調傾向、逆構文率――そのすべてが、私には予測可能だった。各ラウンドにおける認識のリセットを私のプレイ感覚が上回ったんだ。とうとう私の《優認者》率が八割を超えてしまった」


 優認者。たしか、認識ポーカーの中で勝敗の代わりに決める序列みたいなやつだ。勝敗がないと断言しておきながら、ちゃんと競争の要素があるのが何だか滑稽だと思ったのを覚えている。


「たしかに、友達と三人で遊んでて誰かひとりが強くなりすぎたら、もう遊べなくなる気がしますね。その人との対戦が完全に消化試合になっちゃう」


《瞬き》さんの指先から光の粒が散る。背景の星々が淡く揺らいで、宇宙全体が溜め息をついたようだった。


「その通りなんだ。だから私は彼らと少し距離を置いて、再び人間の遊戯に目を向けた。今度は《遊び》そのものよりも、ゲーム構成の前提を共有するプレイヤーたちにも注目して、ね」


 ふと、《瞬き》さんが手を広げる。指先に星図が浮かび上がり、それがやがてカードの形を象る。そこには、めちゃくちゃ見覚えのあるカードがあった。ウチビビTCGのシンギュラリティレア、《キュル・トゥレー/識る前の空白》。これ僕が買ったときは1580円だったけど、その後レート爆上がりしてるやつ。たぶん今買うと5000円近くするんじゃないかな。


「そして私は、彼らと遊ぶため認識レベルをこの惑星に合わせる技術を会得した。いわば、言語と自我を調整したようなものだ。ここまでは、君にも伝わっているだろう?」

「……はい」


 そこまで聞いて、僕はうすうす予感していたことを口に出さずにはいられなかった。


「まさか、僕に……認識ポーカーの相手をしろとか、言いませんよね」

「えっ?」


《瞬き》さんは、星屑の瞳でまっすぐ僕を見た。ツインテールが静かに揺れて、宇宙の音が耳をくすぐる。


「いや、それは無理だよ。君たちみたいに記憶の累積を前提としている存在は《認識ポーカー》における各ラウンドの《全認識リセット》に耐えられないだろう?」


 はい、仰る通りです。すみません。ていうか、認識ポーカーが人間に向いてないってわかってるならプレイログを聞かせるなよ。


「じゃあ、僕に何を期待してるんですか?」


 僕が訊くと、《瞬き》さんは唇の端をほんの少し持ち上げた。そして、まだ手の上でくるくると浮いている《キュル・トゥレー/識る前の空白》をこちらへ傾けて見せた。


「私、これで遊びたいんだ」


 え? 「これ」って、まさか……


「ウチビビTCGで!? ……どうしてまた、よりにもよってこんな過疎ゲーを……!」


 ウチビビを叩いたみたいになってしまったけど、別に悪気はない。実際ウチビビは最近新規カード発表ペースも緩やかだし、公式大会の開催も減ってるから、もうほぼ勢力の維持で精一杯な状態なんだ。僕が最初に始めた頃はもう少し活気があったんだけど、それはもう過去の話だ。

《瞬き》さんは何を思ったのか、星屑に満ちた瞳を逸らして頬を染め、「照れ顔」を作った。それと同時に、周囲の偏光する星屑も少しピンク色に揺らめく。ほんとこのモデル、細部まで作り込んであるなあ。


「私はこの惑星の全ての遊戯体系全てに目を通したのだけれど……、《認識ポーカー》に最も類似しているのが、この《宇宙の広大さに比べれば我々の悩みなんて微々たるものなんだ・トレーディングカードゲーム》だった」


 るいじしている? 似てるって? えっ、何が何に? 認識ポーカーとかいう宇宙外生命体の遊びに、ウチビビTCGが類似している?


「そ、そんな……いや、待ってください……ウチビビは普通のカードゲームですよ!? 詠唱コストもあるし、ドローフェイズもあるし……、勝利条件に『相手ステージの不在を証明する』があること以外は、すごくまともな……!」


 言ってるそばからまともじゃなかった。「不在を証明する」って、言われてみれば物凄く「認識ポーカー的」かもしれない。

 ――いや、待て待て待て待て。

 ウチビビTCGは、超ヒット作じゃない。

 ルールが難解って評判も、確かにある。

 公式のルール解説動画は「基本編」だけで三本に分かれていて、しかも視聴者のコメント欄はほとんどが「は?」か「イラスト良いね」に二分されていた。

 でも、それでも――

 認識ポーカーほどは、奇妙じゃないだろ。


「《相手ステージの不在を証明する》も良いけど、ゲーム開始時にダイスロールで六つのステージから一つがランダムに選ばれるのも良いよね。これ《認識ポーカー》で言う《起点の確定》そのものだし。《感情エリア》が飽和すると敗北するルールも《優認者》を決める仕組みと似ている」


 まずい。具体的な用語を例に挙げられてしまうと、《瞬き》さんの発見した類似点にどんどん説得力が生まれてしまう。これ以上「お前は認識ポーカーに最も近いゲームのユーザーだ」と突き付けられるのは、僕の精神衛生上よろしくない。


「仮に二つのゲームが似ていたとして……、僕じゃなくて別の人と遊んだ方が良いんじゃないですか? 開発した人のところへ行ってみるとか」


 ここが一番肝心なところだ。正直、認識ポーカーだろうがウチビビだろうが、僕以外にいくらでも適任はいるはずだ。ネットで調べればガチ勢は山ほど出てくる。《瞬き》さんはその質問に、すっ、と表情を緩めた。


「君がこの惑星における、最も高い《ルール理解度》を示していたからだ」

「え? 僕が?」

「そう。君が」

「全国大会優勝者より?」

「うん」

「運営より?」

「うん。運営より」


 なんてことだ。僕がウチビビを一番理解してるって? そう言われて嬉しくないわけじゃないけど、この状況で言われると逆に不安になる。だって僕はガチ勢ってわけじゃないし、ただの趣味でやってるだけだし――


「特にユーザーの34.7%が誤認している《感情爆発》の処理手順を正しく把握している」

「は!? 簡単でしょ!」


 思わずツッコミを入れてしまった。感情爆発の処理なんて、初級者でも覚えるような基本的な――いや、たしかに解説動画では「基本編」とは別の「感情爆発編」があるけど。その動画の再生時間、三十分あるけど。でも、34.7%も間違ってる!?


「あと《詠唱コスト》を支払ってから《ライブステージに立つ》までの正確な処理手順も誤認しているユーザーが多い」

「それも超基本でしょ!? 詠唱コストは――」


 言いかけて、やめる。

 僕が説明すると、《瞬き》さんは「それそれ」と指摘してくるに違いない。そうすれば、僕がルールを理解しているってのが明確に証明されてしまう。僕が一番ルールを理解している、ってのが完全に確定してしまう。


「……いいですよ。やりましょう、ウチビビTCG」

「本当かい!?」


 ただし、と僕は人差し指を立てて、《瞬き》さんの顔の前に掲げる。


「僕はウチビビTCGを、趣味として遊ぶ人間です。ガチ勢ではありません。なので、あくまで遊びの範疇で、お願いします」

「いいよいいよ! 遊びだ! 遊びだよ! 嬉しいなあ……」


《瞬き》さんは嬉しそうに手を合わせて、星屑の笑顔を浮かべた。それを見て、僕も少しだけ微笑んでしまう。まあ、いいか。どうせこんな機会、二度とないだろうし。


「それと、僕まだ仕事中なんで……終わるまではちょっと待っててもらえますか?」

「もちろん!」


 満面の笑みを浮かべる《瞬き》さん――というか、今は《キュル・トゥレー/Δ詠唱式・ステラレイヤー》の3Dモデルだ――が、嬉しそうに両手を組んで宙に浮いた。

 だが僕は、そっと冷静なトーンで言い添える。


「もう一つ。現実世界でその姿は無理があるので……別の格好に変えてくださいね」

「……あっ、《権利関係》かい? あるいは《公共倫理》かな?」

「ちがいます。テクスチャだよ! てか全部だよ!」


 全力で否定した。こんな偏光銀河の衣装で図書館をうろつかれたら、利用者どころか文化庁が飛んでくる。いや本当に。

《瞬き》さんは少し驚いたように目を丸くしたあと、そっと頷く。


「わかった。じゃあ……人間の認識に合わせたローカルアバターへ変換するね」


 そう言うと、彼女の身体を包む銀河の残光がゆっくりと褪せていく。宇宙のきらめきが解かれて、もっと素朴な光に置き換わる。ツインテールのシルエットが素直に重力を受け入れて落ち着き、髪色は「居そう」なアッシュブラウンに。ステージ衣装は水色のカーディガンと、プリーツスカートに。足元はローファー。


「これで問題ないね?」

「……うん。逆に自然すぎてびっくりしました」

「ふふん」


 声も変わっていた。あの黒井睡蓮の深淵ボイスじゃなく、もう少し柔らかくて、鼻にかかるような音程の高い声。


「名前は、《瞬き》さんでいいんですか? なんか呼びにくいっていうか、カテゴリ名っぽくて……」


 すると彼女は少しだけ考える素振りを見せたあと、小さく笑った。


「そうか。固有名詞が必要か……じゃあ、こう呼んでくれ――《ルクルミネット》」

「……なんですかその名前」

「《瞬き》因子を分解して翻訳した造語だよ。ルク(光)・ルミ(瞬き)・ネット(構造)。発声はルクル=ミネットで構わない」

「要するにそのまんまってことですね」


 それでも僕は、その名をしっかり覚えてしまった。ルクルミネット。音の響きにどこか馴染みがあって、まるで最初から知り合いだったような気さえする。


「あ、そういえば僕……」


 ルクルミネットさん――そう呼ぶのもまだ少し気恥ずかしいが、その彼女と向かい合ったまま、僕はようやく気づいた。


「まだ、自分の名前を言ってませんでしたね」


 言いながら、そっと一歩踏み出して、彼女と対等な距離に立とうとした――その瞬間。

僕たちを取り囲む宇宙空間が、さらさらと崩れ落ちるようにして消え始めた。まるで、幻だったみたいに。星が散り、銀河が歪み、闇が剥がれて元の真っ白な背景が現れてくる。


「うわ……!?」


 平衡感覚を失った僕は、よろけたまま床へと倒れ込んでいった。床? 床なんてない。《転んだ》ようでいて、いつまでも《転び続けている》。それはやがて真っ逆さまに落ちていくような感覚に変わり、目の前にいたルクルミネットさんとの距離が上下に引き伸ばされる。


「ルクルミネットさん――」


 落下する僕を、彼女は見下ろしていた。目を細めて、唇を小さく開いて。そして、その輪郭は次第にぼやけ、色彩を失い、まるで星屑のように散らばっていく。


「また、後でね。《葦原誠司》くん」


 その声が遠く、遠く、遠く、遠く――僕の心の奥底にまで響き渡った。



「……葦原くん。葦原くん」


 蛍光灯のジリッという音と、肩を軽く叩かれた感覚で目が覚めた。目の前にはカウンターの天板。頬にうっすらと跡がついている気がする。弾かれたように顔を上げると額にはうっすら汗の感触が残っていて、さっきまでの夢――いや、なんだったんだ、あれは。


「寝てました……僕?」


 慌てて姿勢を正しながら、反射的に視線を時計に向けた。壁掛けのアナログ時計。シンプルな黒い文字盤に、白い長針と短針。

 14時13分。


「疲れてるのかい?」


 目の前にいたのは、図書館の用務員、佐藤さんだった。いつも清掃や設備管理をしている、優しいおじさん。ツナギ姿の胸元には、天ヶ原市のロゴと、ちょっと色褪せた名札が揺れていた。


「大丈夫。館長さんには言わないから」

「す、すみません……」


 慌てて背筋を伸ばし、エプロンの端を整える。佐藤さんはにこにこと笑いながら、手にした蛍光灯の細長いケースを掲げて見せた。


「切れかけてるって聞いたから、交換しに来たんだ。ちょっとカウンターの中、脚立立てるよ」

「ありがとうございます。じゃあ、どきますね」


 僕は椅子を引いて立ち上がり、カウンターの奥へと下がる。佐藤さんは脚立を広げて、天井に向かって手を伸ばした。蛍光灯のカバーを外し、新しい管を差し込む。

 その作業を見ながら、僕はまだ、夢の中の出来事を整理しようとしていた。《瞬き》さん――いや、ルクルミネットさん。あのめちゃくちゃな出来事が、まさか睡魔に負けた僕の幻覚ってこと……?

 カウンターの前に、あの不可思議な人影はもういない。夢の中で最後に見た、ツインテールのルクルミネットさんも、どこにもいない。

念のため、開架を一巡りしてみる。

 閲覧席には学生が一人、参考書を読みふけっていて、時折ノートに何かを書きつけている。

 書架も崩れてなどいない。バリバリと音を立てて歪んだ棚は、すっかり元どおり……というより、最初から何の問題もなかったかのように、何事もなくそこにある。整然と並んだ本の背表紙が、ただ静かに光を反射しているだけだ。


「夢……だったのかな」


 自分でも口にして、どこか違和感を覚える。夢にしては鮮明すぎた。細部まで記憶にこびりついている。視覚、聴覚、光の粒、手の温度――そして、名前。


《ルクルミネット》


 頭の奥に響くその語感は、忘れるには出来すぎている。


 僕はため息をついて、事務室へ向かった。とにかく、一度落ち着きたかった。ノックしてドアを開けると、館長が椅子にもたれて、例のあまぱんマグを傾けていた。頭に豆腐を乗せたパンダが、僕を見て微笑んでいる。


「……ああ、葦原くん。お疲れさん」

「お疲れさまです。佐藤さん、蛍光灯やってくれてます」


 館長は「ああ、それは助かる」とうなずきながら、コーヒーをひと口すする。カップを置く音がやけに響いたのは、部屋の中が静かすぎたせいかもしれない。僕は意を決して、少しだけ聞いてみることにした。


「……館長、何か変わったことって、ありましたか?」


 あまりにも具体性に欠ける質問だったけれど、館長には何か思い当たる節があったらしい。途端に目を丸くして、「それがさ」と身を乗り出した。


「それがね――」


 館長の、ちょっと頼りないけれど親しみやすい表情に、今はどこか戸惑いのようなものが混じっている。まるで、自分が見聞きしたことをどう説明すればいいのか、悩んでいるみたいだ。


「何ですか?」

「いや、その……」


 館長は視線を逸らして、キョロキョロとあたりを見回した。それからもう一度僕を見て、小声で囁くように言った。


「さっき、ここで休んでたときなんだけどさ。うとうとしてたのか、気づいたら……変な場所にいたんだ」

「変な場所?」

「なんていうか……図書館を図書館じゃなくしたみたいな。いや、それは違うな。図書館を図書館のままで……でも、図書館っぽくないっていうか……」


 やっぱり。やっぱり変なことは起きていた。僕の見たあの奇妙な光景、あそこに迷い込んだ館長は本物だったんだ。


「わかりますよ。その感じ。すごく、よくわかります」


 自然と出た言葉に、館長は「あ、わかる?」と驚き、それからちょっと嬉しそうに笑った。

 夢じゃなかった。あれは夢じゃなかった。じゃあ、ルクルミネットさんは……どこへ行ったんだろう?

 僕はふと、館長の後ろ――事務室の窓の方へ視線を向けた。さっきまでの雨と雷はいつの間にか止み、灰色だった空は嘘のように晴れている。駐車場のアスファルトが陽に照らされて光る、その奥――空の高いところに、虹がかかっていた。


「吉川さんに聞かれたら、また居眠りしてたと思われちゃうなあ」


 館長がぽつりと、ぼやくように言った。



 カウンターに戻ると、佐藤さんは既に蛍光灯の交換を終えて撤収していた。蛍光灯は新品の明るさを放ち、床に僕の影をくっきりと落とす。

椅子に腰を下ろし、一息ついたときだった。


「すみません。お願いします」


 目の前に一冊の本を差し出されて、僕は慌てて顔を上げる。そこにいたのは、一人の少女だった。

水色のカーディガン。アッシュブラウンのツインテール。


「ルクルミネットさん……!?」


 思わず立ち上がる。目の前に現れたのは、間違いなくさっきまで夢――いや、「図書館から図書館らしさを除去した空間」で会話していたルクルミネットさんだった。


「これ、借りたいんですけど」


 そう言って彼女は、一冊の本と共に貸出カードを僕の方に差し出した。本の表紙には、鮮やかなネオンカラーで『世界五分前仮説』。反射的に受け取ったカードは、この図書館のもので間違いなかった。記名欄には、流麗なペン字で「ルクルミネット」と書かれている。


「ちょっと……これ、どうやって……え、ええ!? いつ登録されたんですか!?」


 あたふたしていると、背後から足音が近づいてきた。吉川さんだった。作業の合間に戻ってきたらしく、心配そうな顔でこちらを覗き込む。


「葦原くんどうしたの、大騒ぎして」

「あっ、いや、その……!」


 説明しようとしたその時、吉川さんの目がルクルミネットさんに留まった。


「あら、ルクルミネットちゃん。こんにちは」

「こんにちは」


 二人はまるで知り合いのように挨拶を交わしている。まるで、ルクルミネットさんが元から存在していたかのような自然さで。


「葦原くん、もう少し静かにね」

「はい、すみません……」


 素直に謝りつつ、僕は混乱していた。まさか司書の僕が、「静かに」って注意されるとは。

 しかし吉川さんの反応からして、彼女は図書館の常連みたいなものなのだろうか。貸出端末にカードを通すと、ピッと軽快な電子音が鳴った。何の異常もない――まるで、最初から登録されていたかのように。


「……どんなインチキしたんですか?」


 吉川さんを見送りつつ、僕はルクルミネットさんに向き直る。彼女は少しだけ肩をすくめて、涼しい顔で言った。


「まあ、いろいろだよ。言語で解説するのは難しいから省略するけど」


 無責任な返事で僕を閉口させながら、彼女は自分の右手に視線を落として指を開いたり閉じたりしている。動作確認、といったところか。


「借りた本は正規の手順に倣って返却する。そこは《インチキ》しないから安心したまえ」

「……それは、安心ですけど」


 本の返却がきちんと行われる。それはとても大切なことなんだけど――これから一体どうなるんだ、という不安の方が勝る。


「そうだね。君の業務が終わるまで、私は館内を散策して待っているよ。それからすぐにウチビビの対戦――といきたいところだが、せっかく有機的実体を用意したからね。君の好物たる《ラーメン》とやらを食べに行くのも良いだろう。うん。そうしよう」

「え、え、え」


 僕は言葉に詰まりつつ、ルクルミネットさんの言動を咀嚼する。


「……僕の好みを勝手に認識しないでください! なんで知ってるんですか、ラーメンの話……」

「していないよ。君の人格傾向から推測して導き出しただけだ」

「それ、ほとんど同じですから……!」


 あまりにも平然と言われたせいで、思わず語気を強めてしまう――もちろん、小声で。するとルクルミネットさんは、ちょこんと首をかしげた。


「……やっと君の《脳内推論》を予測できるようになってきたのに。今後は控えた方がいいのかな?」

「はい、やめてください」

「了解」


 予測できるって、ルクルミネットさんのそれは心を読まれてるのと同レベルなのでは? 今までの……いや、考えるのはよそう。怖いから。


「ふふっ」


 ルクルミネットさんは小さく笑ってからくるりと背を向けて、何事もなかったかのように閲覧席がある方へ歩いていった。

 たぶん、誰が見ても普通の利用者にしか見えない。いや、たぶん――もう、本当に、そうなんだろう。

 僕は深く息をついて、椅子に腰を下ろした。

 ルクルミネットさんが書架の陰に消えていった後もローファーが床を踏む小さな足音が続いていて、あの向こうに「居る」のだとわかる。

 時刻は14時29分。仕事が終わるまで、二時間半。

 なんとなく、だけれど。

 一度の対戦では終わらないんだろうな、という予感があった。

 それが怖いのか、嬉しいのか。

 僕にはまだ、判然としない。


――《おしまい》

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テーブルゲーム入門、或いは午睡の中の夢の記録 松土BPファーム @gateau__fraises

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