第五章 ― 月下の図書館 ―

夜の帳が降り、月が静かに街を照らしていた。

その光は、どこかで誰かが灯した本のページのように柔らかかった。


その晩、灯は不思議な夢を見た。

広い空の下に、白い図書館が立っている。

屋根は月光を反射し、壁は透明な硝子でできている。

風も音もない。あるのは、無数の本が開く音だけ。


――ぱら、ぱら、ぱら。


まるで世界中の“想い出”が紙の上を流れているようだった。

灯は裸足でその床を歩く。

足元には、光の文字が流れていく。


「ここ……どこだろう。」


声が響いた。

「ようこそ、月下の図書館へ。」


振り向くと、そこに立っていたのは――あの人だった。

星渡書店の店主。

けれど、今の彼はあの時のような“人間”ではなかった。

全身が淡い光に包まれ、瞳は月のように静かに輝いている。


「……店長さん?」

「いや、ここでは“司書”と呼んでほしい。」

「司書さん……?」

「この図書館は、世界中の“記憶の欠片”を集める場所。本は、人が生きた証であり、想いの記録でもある。」


灯は見渡した。

壁いっぱいに並ぶ本の中には、どれも見覚えのある表紙があった。

――『星の舟と空の国』

――『影を喰らう森』

そして、まだ見ぬ数々の物語たち。


「これ……全部、私たちが読んだ本?」

「そう。そして君たちが“これから読む”物語でもある。」

「これから……?」

「そうだ。物語とは、過去にも未来にも存在する。君が思い出した瞬間、それはまた“始まり”になる。」


灯の胸に、かすかな痛みが走る。

「ねぇ……私たちが、ここに呼ばれた理由って、あるの?」

司書は少し黙ってから答えた。


「君と結人は、“物語を忘れた世界”に生きている。」

「忘れた世界……?」

「人は、心を守るために忘れることを選ぶ。けれど、忘れすぎた世界では、誰も夢を見なくなる。《星渡書店》は、そんな心を繋ぎ止めるために存在する。」


灯は息を呑む。

「……だから、私たちは見つけられたの?」

司書は頷いた。

「そう。君たちは、まだ“物語”を信じていた。」


その時、どこからか小さな鈴の音がした。

灯が振り向くと、遠くの棚の上にひとつの本が光っていた。

その表紙には、銀の月と、二つの影が描かれている。

タイトルは――


『忘れられた兄妹』


灯は手を伸ばした。

触れた瞬間、ページがひとりでに開く。

そこにはこう書かれていた。


「彼らは、ある事故で両親を失い、心を閉ざした。 けれど、星を読む本屋に出会い、再び生きる意味を見つける――」


灯の指が止まる。

「……これ、私たちの話……?」

司書は静かに微笑んだ。

「物語は、いつも誰かの“心”を映す鏡なんだよ。」


「じゃあ……この先も、もう決まってるの?」

「いいや。」

司書は首を横に振る。

「“決まっていない”からこそ、物語は生きる。君たちが選ぶ道こそが、次のページを紡ぐんだ。」


灯は本を抱きしめた。

「……お兄ちゃんと一緒に、最後まで読みたい。」

「そう思えるうちは、君たちの物語は終わらない。」


司書が微笑み、手を伸ばす。

その掌から一枚の小さな栞が落ちて、灯の手に舞い降りた。

そこには、銀色の文字で書かれていた。


「物語は、月が照らす場所に生まれる。」


灯が目を上げたとき、司書の姿はもう消えていた。

図書館の天井から月光が降り注ぎ、本たちが静かに光を放っている。

その光が灯の瞳を包み、世界がゆっくりと溶けていく――。


「……あかり。……灯。」


結人の声で、灯は目を覚ました。

朝の光がカーテンの隙間から差し込む。

「お兄ちゃん……」

「夢見てたのか?」

「うん……本の夢。大きな図書館で……司書さんがいた。」


結人は少し驚いたように黙り込み、やがて小さく頷いた。

「……俺も、見た。月の下で、本を読んでた。」

「え?」

「同じ夢だったのかもな。」


二人は顔を見合わせ、微笑んだ。

夢のようで、夢じゃない。

――あの図書館は、きっと現実のどこかに存在している。


灯は枕元に何かが落ちているのに気づいた。

拾い上げると、それは銀色の栞。

昨夜、夢で受け取ったものと同じだった。


「物語は、月が照らす場所に生まれる。」


結人が小さく息をのんだ。

「……やっぱり、夢じゃないんだな。」

灯は笑った。

「うん。きっと、また呼ばれるよ。」


「次は、どんな本の世界だろうな。」

「きっと、今度は“私たち自身”の物語だよ。」


二人の声が、朝の光に溶けていった。

窓の外には、薄い月がまだ消えずに残っていた。

その月は、まるで次の章への扉のように輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る