第二章 ― 星の舟と約束の国 ―
風が頬を撫でた。
金色の海に星が流れ、空は深い群青に染まっていた。
結人は手を伸ばし、光る粒を掴もうとしたが、指先をすり抜けていった。
その一粒が灯の髪に触れ、やわらかく輝く。
「きれい……ねぇ、お兄ちゃん。これ、星なの?」
「たぶん……でも、どこかで見た気がする。夢の中で……」
彼らが立つ船の甲板は透明な水晶のように光っていた。
空の底から、星々の歌が聞こえてくる。
やがて、船の舵に立つ店主――否、この世界では“船長”と呼ばれる男が、振り返った。
「ようこそ、『約束の国』へ。」
男の声は風と混じり合い、波紋のように広がる。
「約束の国……?」
結人が問うと、船長は微笑んだ。
「人が忘れた約束が流れ着く場所さ。叶えられなかった想い、言えなかった言葉、交わしたのに果たせなかった約束……それらが星の欠片になって、この海に沈むんだ。」
灯が小さく息を呑んだ。
「じゃあ、この星たちは……?」
「誰かの約束の記憶だよ。」
灯はそっと星の一粒を掌にのせた。
小さな光がふわりと浮かび、声が聞こえた。
――「また明日も、ここで遊ぼうね」
幼い笑い声。やがて光は消え、波に溶けていった。
灯の瞳に涙が滲む。
「……誰かの約束、なのに……もう、叶わなかったんだね」
「でも、覚えている誰かがいる限り、その約束は生き続ける。」
船長は穏やかに言った。
結人は空を見上げた。
自分の胸にも、思い出せない「約束」がひとつある気がした。
母の笑顔、父の背中、そして――灯に言えなかった一言。
あの夜、彼は妹を守れなかった。
それが胸に刺さったまま、ずっと抜けない。
「お兄ちゃん?」
灯がのぞき込む。結人は少し笑ってごまかした。
「なんでもない。」
そのとき、船の先端から光が走った。
海の向こうに、浮かぶ島が見える。
白い塔がそびえ、周囲には無数の星の花が咲いていた。
「着いたようだね。」
船長が帆を下ろすと、船はゆっくりと島へ滑り込んでいった。
島の空気は柔らかく、足元の砂は銀色に光っていた。
遠くで鈴のような音がする。
灯が駆け出すと、そこには背中に小さな羽をもつ子どもたちがいた。
彼らは星の粉を集めて、空に放っている。
そのたびに空の端で星が生まれた。
「こんにちは!」
灯が手を振ると、羽の子どもたちは嬉しそうに微笑んだ。
「人間の子が来た!」「珍しいね!」
「君たちは?」
「“約束の守り手”だよ!」
声が重なって、笑い声が響いた。
灯は彼らに導かれて、島の中央にある大樹へ向かった。
大樹の幹は透き通る水晶で、内部を光が流れている。
その根元に、一冊の大きな本が置かれていた。
「これは……?」
「この国の“記録書”さ。」
いつの間にか、船長が隣に立っていた。
「ここには、果たされなかった約束が記されている。けれど、君たちがその約束を“覚えてあげる”だけで、約束は光に変わるんだ。」
灯がページを開くと、無数の光が宙に舞い上がる。
その中に――見覚えのある文字があった。
『結人へ また、星を見に行こうね。 母より』
結人の呼吸が止まった。
「……これ……母さんの……」
指先が震える。
灯は兄の袖を掴んだ。
「お兄ちゃん……」
「そんなはず……だって、これは本の中の世界で……」
「でも、もしかしたら……お母さんの“約束”がここに届いたのかもしれない。」
涙が一粒、灯の頬を滑り落ちた。
結人は静かに目を閉じた。
あの日、母が笑って言った言葉が蘇る。
――「今度の夏、みんなで星を見に行こうね。」
けれど、その“今度”は訪れなかった。
船長が静かに言った。
「約束は、叶わなくても無駄にはならない。それを思い出し、誰かに渡す者がいれば、形を変えて続いていく。」
灯が顔を上げる。
「じゃあ……私たちが、お母さんの約束を叶えればいいんだよね。」
「……灯。」
「お母さんの分まで、星を見に行こう。約束しよ。」
結人の胸が熱くなる。
自分が閉ざしていた心の奥で、何かが少しずつほどけていく。
「……ああ、約束だ。」
二人が手を重ねた瞬間、本のページから金の光が溢れた。
星が降り注ぎ、風が笑い、空の海がきらめく。
約束が、再び生き始めたのだ。
気づけば、二人は再び書店の中に立っていた。
窓の外には、夕焼けの街。
手には、まだ温もりの残る一冊の本。
「夢……だったの?」
灯が呟く。
結人は静かに首を振る。
「違う。ちゃんと、行ってたよ。」
カウンターの向こうで、店主が微笑んだ。
「お帰り。少しは“星”を見つけられたかい?」
結人は頷いた。
「……まだ見つけ始めたところです。」
「それでいい。物語はいつでも、続きのページを待っている。」
灯が笑う。
その笑顔に、結人は初めて「明日」という言葉を信じられる気がした。
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