月夜のとなりで君が猫になる

かわまる

第1話 「月と泪と、君の名前」

春の午後。 緩波若市(かんぱにゃし)の空はどこまでも澄み渡り、田んぼに吹く風がぬるく頬をなでていた。

地方都市といえど、少し歩けば山の稜線が近くに見える。そんな郊外の路地の一角に、昭和の香りを残す小さな駄菓子屋がある。

その名は――「駄菓子屋 くろちゃん」。

「俺の名前は黒崎 速人(くろさき はやと)。この春、緩波若(かんぱにゃ)高校に入学したばかりの一年生だ」

頭の中でそう自己紹介を繰り返しながら、俺は通い慣れた道を歩いていた。

空手部所属、段位は三段。 小さい頃から祖父にしごかれた成果で、技の正確さには自信がある。

だが、そんな俺も――幼いころ、両親を交通事故で失い、父方の祖父母に引き取られて以来、この駄菓子屋が唯一の帰る場所になった。

「おい、クロ!」 背後から聞き慣れた声。 振り返ると、少し背が高くて細身の男――岬 京吾(みさき けいご)が手を振っていた。

「おう、サキ。どうした?」 「部活、今日は休みだってよ。道場の畳が交換中だと」

「マジかよ。せっかくやる気出してたのに……」 「ま、あの部長、口ばっかだからな」

サキは同じ空手部で、俺の幼馴染。 気が合う奴で、俺のことを「クロ」と呼ぶ。俺も彼のことを「サキ」と呼んでいた。

「今日はじいちゃんに店番頼まれてんだ。ちょうど良かった」 「じゃ、また明日なー」

手を振って別れたあと、いつもの帰り道を歩く。

その途中だった。

小さな空き地の向こうで、騒がしい声が聞こえた。

「おい、そっちだ! 逃げるなよ、コラ!」 「つかまえろ、このクソ猫!」

茂みの向こうに、白くて小さな影が駆けているのが見えた。

(猫……?)

足が自然と動いていた。 空き地に足を踏み入れると、三人の高校生風の少年たちが猫を追い詰めているところだった。

「おい、お前ら!」

思わず声を上げた。

「なんだよ、てめぇ。関係ねぇだろ」

「そんな小さな猫しか相手にできないとは、ずいぶん小物なんだな」

少年たちがこちらに睨みを利かせる。

「面白れぇ、やるかコラ!」

リーダー格の一人が殴りかかろうとする。 俺はゆっくりと足を広げ、呼吸を整え、型に入った。

空手の型、『征遠鎮(せいえんちん)』。

腰を落とし、視線を鋭く、全身に気を満たす。

「せいやっ!」

威嚇のように型を見せると、その正確な構えと鋭い目つきに、リーダーの拳が空中で止まった。

「どうする? まだ続ける?」

沈黙。

「……くそっ、行くぞ!」

やがて、三人は舌打ちしてその場を立ち去った。

白い子猫が、そっと茂みから顔を覗かせた。

「もう大丈夫だ」

猫は、ゆっくりと俺に近づき、足元に体をすり寄せてきた。

「おまえ……人の顔、よく見てるな」

その瞳はまっすぐに俺を見つめていて、どこか人間のような理知的な光を宿していた。

(なんだろう、この感じ……)

「怖かったよな。もう大丈夫だ。……けど、もう、捕まるなよ」

猫は一歩下がって、ぺこりと頭を下げたように見えた。 その仕草に、思わず息を呑む。

「……やっぱり、ただの猫じゃないのか?」

「にゃあ」

一声鳴いて、林の中に消えていった。

――夕方。

「ただいまー」 「おかえり、速人。じいちゃん、町内会行ってるから、ちょっと店番頼むよ」

祖母の声が響く。

いつも通り、駄菓子屋は近所の子供たちでにぎわっていた。

「速人くん、うまい棒三本ちょうだい!」 「はいはい、30円だよ」

まるでコミュニティスペースのような店内。 この風景が、俺は好きだった。

日が沈み、子供たちの足が途絶えたころ。 「よし、片付けるか……」

店先の扉を閉めようとした時。

「ミャー」

耳慣れた声が、足元からした。

「おまえ……!」

あの白猫だった。 店先で小さく丸まり、こちらをじっと見上げていた。 その目は、どこか泣いているようにも見える。

「……帰る家、ないのか」

「ミャー……」

速人は白猫を抱きかかえ、祖父母の元へやってきた。

「なあ、じいちゃん、ばあちゃん。この猫、飼ってもいいかな?」

祖父母は顔を見合わせ、少し微笑んで言った。

「これは縁だな。面倒、見てやりなさい」

その夜。

俺の部屋の布団の上で、白猫は満足そうに丸まっていた。

「おまえ、メス猫か。なんて美人顔だ……名前、そうだな……」

白い毛並み、夜の静けさに寄り添う存在。

「月の夜に、俺のそばに来てくれたお前には――『美弥(みや)』って名前がいいかもな」

「……美しい、月夜の“弥生”のような猫。なんとなく、そんな感じがする」

「今日からお前は『美弥』。よろしくな」

そっと手を添えると、猫は喉を鳴らしながら俺の胸元に寄り添ってきた。

布団に入ると、美弥もぴょんと飛び乗り、俺の胸元に丸まって眠りはじめた。

「ふふ……女の子だったら、もっとドキドキしてたかもな……」

「温かいな……おやすみ、美弥」

――翌朝。

目覚ましの音で目を覚ます。

「ん……?」

何か柔らかいものが、隣に――

「……えっ」

布団の中で、銀色の髪がまぶしく光った。

「おはようございます……速人さん」

そこには、昨夜まで猫だったはずの――

下着姿の少女が、俺を見つめていた。

(つづく)

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