私は婚約解消になり、妹は修道院に入った
乃木太郎
前
妹が修道院に入った。――この話はまたたく間に社交界に広まり、そして、主に年ごろの男性たちを落胆させた。ヴァインベルク伯爵家の至宝とも言われ、妹に求婚しようと画策する貴族家は多かったから。
そんな妹がどうして修道院に入ることになったか。
結論から言うと、私の婚約破棄の一因となってしまったからである。
私、エレノア・ヴァインベルクには、幼いころに決まった婚約者がいる。
エドワード・マーカス侯爵子息様。
艶のある黒髪に、理知的な光を宿す深い青の瞳。マーカス侯爵家の正統な嫡男として育てられ、明晰な頭脳と洗練された立ち居振る舞いで、他の貴族令嬢たちの憧れの的になっている。マーカス侯爵家の新規事業に当家も関係することになり、ごくごくふつうの政略結婚だ。
次期侯爵として申し分のない彼との婚約は、伯爵家に生まれた私の人生において、最も順当で輝かしい道筋だと誰もが言った。私自身も、そう思っていた。
彼との間に情熱的な愛はないかもしれない。けれど、そこには穏やかな信頼と、互いの家に対する敬意があった。貴族の結婚とは、そういうものだ。私たちは、決められた道の上を、定められた速度で正確に進む馬車のようなものだった。少なくとも、あの日までは。
我がヴァインベルク家には、私を含めて三人の子息子女がいる。五つ年上でエドワード様と同い年である跡継ぎの兄と、そしてもう一人、社交界の注目を集め天使の美貌を持つと噂される、私の三つ下の妹、アリーシャだ。
陽光を溶かしたような金の髪、春の空を映したような青い澄んだ瞳、そして薔薇の蕾のような唇。神が気まぐれに最高傑作を創り上げたのだとしたら、それはきっとアリーシャのような姿をしているのだろう。その美貌ゆえに、数多の貴族子息たちから熱烈な視線を送られているが、彼女はいつもはにかむばかりで、誰の手も取ろうとしない。
実を言うと、マーカス侯爵家は、アリーシャとエドワード様との婚約を望んでいた。アリーシャの輝くばかりの美しさを見れば、どうにかして迎えたいと考えるのは至極当然のことである。私とて、貴族令嬢として恥ずかしくない教育も所作も身につけているつもりだけれど、そんなものは神の最高傑作の前では霞である。妬み嫉みなど持ちようがない。絶対に叶わない存在を前にすると、人間はただ畏怖し、ひれ伏すしかないのだ。
そんなマーカス侯爵家の申し出を、伯爵である父は強気に突っぱね、私との婚約を提案した。貴族の慣例から、長女から婚約を決めるべきだと論破したようだが、実際はアリーシャをもっと高位の貴族に嫁がせたい狙いがあるのだろう。さらに言えば、マーカス侯爵家は新規事業にかなりの金額を投資しており、当家の援助がなければどうなるか、という瀬戸際でもあったので、父の提案を呑まざるを得なかったようだ。
いろんな事情を抱えて、私とエドワード様の婚約は結ばれた。
マーカス侯爵も侯爵夫人も、未来の義娘として表面上は人当たりよく接してくれるけれど、どこかよそよそしく、物事の分別がついていくにつれ、もしかしてあまり歓迎されていないのでは、と感じることがあった。最初はそのことに落ち込んだり悲しんだりしたものだが、酔った父がうっかり婚約の事情を漏らしたことで、逆に私は割り切ることができたのである。
むしろ、マーカス侯爵家にも父にも感謝している。私のような何の取り柄もない伯爵令嬢が侯爵家と婚約を結ぶことができたことは望外の誉れだ。それに、マーカス侯爵家の皆さまも、基本的には貴族としての体面を保ち、私のことを伯爵令嬢として、嫡男の婚約者として、通り一辺倒の扱いはしてくれている。ふとした瞬間に垣間見える本心など、直接罵られ冷遇されるよりははるかにいい。
それに、エドワード様も、笑顔は嘘くさいが、婚約者として丁重に私を扱ってくれている。周囲の貴族令嬢から陰口を叩かれることはあるが、そんなものは有名税みたいなものと思えばなんともなかったし、散々妹と比較されてきた私にとっては小鳥の囁きのようなものだ。
こうして、妹のおかげで鋼の精神を身につけた私は、エドワード様ともマーカス侯爵家とも平穏な関係を構築していたのである。
その日、ヴァインベルク家の陽光が差し込むテラスでは、兄オリヴァーと私の婚約者であるエドワード様が、領地の経営について穏やかに語らっていた。すでに婚約者となって数年経過しており、エドワード様はすっかり家族として受け入れられ、同い年の兄も交えてお茶会をすることも少なくない。私は二人の会話に耳を傾けながら、エドワード様から贈られた柑橘系の紅茶を口に運ぶ。さわやかな味わいに舌鼓を打っていると、ふと視線を感じて私は顔を上げた。
――ああ、まただわ。
少し離れた柱の陰から、アリーシャがじっとこちらを見つめていた。その瞳は潤み、頬は上気している。その熱のこもった視線は、一点に――兄とエドワード様が並び立つその光景に――注がれていた。
――また、あの子の悪癖が出たようね。
私は小さくため息をつき、妹の様子には気づかないふりをする。
アリーシャの視線は、あまりにも濃密で、複雑な色をしていた。それはまるで、極上の芸術品を前にした蒐集家のような、あるいは未知の生物を観察する研究者のような、一種の陶酔と探求心に満ちた眼差しである。
神の最高傑作と呼ばれるほど恵まれた妹だが、実はどうしようもない悪癖を抱えていた。家族は誰も知らないし、私も直接本人を問いただしたことはない。しかし、おそらく妹は……。
だからといって、問題が起こっているわけではないし、妹を溺愛している両親に訴えても聞き入れてはもらえないだろう。きっと一過性のはしかのようなものだと、私は軽く考えていたのだった。
エドワード様がお帰りになると、アリーシャはいそいそと私に近づいてくる。
「お姉様お姉様」
「あら、どうしたの、アリーシャ」
妹は薄桃色に染まったほほを手でおさえ、上目遣いで私を見つめる。きっと家族以外の人が見たら、男性でも女性でも妹の虜になってしまうだろう。
「お兄様とエドワード様は、何のお話をしていたの?」
いつもこうだ。お茶会があると、アリーシャは必ずこの質問をしてくる。私は少し呆れながらも答えた。
「いつも通り、領地経営や政治のお話よ」
「ふうん……」
妹は視線を宙にそらし、唇をふるふると震わせている。
「それがどうしたの?そんなに気になるなら、あなたも参加すればいいのに」
「そんなこと……!できないわ」
アリーシャは恥ずかしそうに視線を伏せ、甘い吐息をもらす。
「だって、恥ずかしいもの」
「大丈夫よ。私も一緒にいるでしょう」
「もしかして、お姉様は味方してくださるの?」
「変な言い方はやめてちょうだい。あなたの味方をするつもりはないわ。でも、陰でこそこそ見ているくらいなら、いっそその場にいてくれたほうがすっきりするわ」
「ええ……いいのかしら……」
そう言いつつも、どこかうれしそうな妹の様子に、私は心のなかで盛大なため息をついたのだった。
その日を境に、アリーシャも私たちと行動をともにすることが増えた。
夜会や茶会など、これまであまり社交の場を好まなかったはずの妹が、エドワード様とオリヴァーが参加すると聞けば、必ず一緒に参加するようになったのである。
そして、決まって少し離れた場所から、熱心に二人を見つめている。
兄オリヴァーがエドワード様に話しかけ、エドワード様がそれに応える。ただそれだけの光景に、アリーシャはうっとりと目を細め、時には扇で口元を隠し、小さく身を震わせている。その様は、敬虔な信者が奇跡の瞬間を目の当たりにしたかのようだった。
聡明なエドワード様が、その異常なまでの熱視線に気づかぬはずはない。
最初は、社交界の華であるアリーシャ嬢からの、他の令息たちと同じような賞賛の視線だと受け流していたのだろう。だが、その視線が執拗なまでに自分に向けられることに、彼も次第に気づき始めた。
私と二人きりで話しているときでさえ、エドワードの意識はどこか上の空だった。彼の青い瞳が、会話の合間に鋭く室内を窺い、アリーシャの姿を探していることに私は気づいていた。
さすがにまずいと考えたが、私は両親になんと打ち明けるか、逡巡してしまう。アリーシャの悪癖を白日のもとにさらしてしまうかもしれないし、かと言って、正直に言ったところで信じてもらうことは難しいだろう。しかし、このまま放置していては、この婚約も危ぶまれる。婚約が解消になれば、私だってどうなることか。
何もいい案が浮かばず、かと言って誰かに相談することもできず、いたずらに時間だけが過ぎていく。
そして、事件は起こった。
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