第4話 霊薬の聖域と絶対防衛線
壁に掛けられた依頼ボードの前で、ギルドマスター・ガウルは息を荒げていた。
その胸板は岩のように厚く、怒りで震えている。
ボードには、東の森にかけられた【緊急依頼】の札が、風もないのにゆらりと揺れた。
「……バカな。誰も戻らん、だと……?」
重低音のような声が、静まり返ったギルド内に響く。
テラスの街の者なら誰もが恐れながらも尊敬する男――“鋼腕”のガウル。
そんな彼が、今は眉間に皺を寄せていた。
「ガウルさん、落ち着いてください……!」
そう声をかけたのは、鑑定士のヒューゴ。
細身の青年で、分厚い丸眼鏡をずらしながら怯えた目を向けている。
彼の手には、ひびの入った通信魔石があった。
「ですが……最後の通信映像を、もう一度ご覧ください」
魔石が淡く光り、ぼやけた像が浮かび上がる。
映っているのは、森――いや、“異様に輝く森”だった。
木々の葉が青白く光り、風がないのに揺れている。
画面の奥では、黒い影が何かに追われていた。
『クソッ、なんだこいつら! コボルトの群れだ! いや、違う、目が――!』
音が途切れた。
「……まさか、コボルト?」
ガウルは腕を組み、唸る。
「雑魚中の雑魚だぞ。うちの新人でも狩れる相手だ!」
「それが……違うんです」
ヒューゴは声を震わせ、記録紙を広げた。
「彼らの全身が青白い魔力で覆われていました。戦闘力はAランク冒険者クラス……。しかも、目的が“戦うこと”ではないんです」
「……何だと?」
「“森の素材を一つたりとも外へ出させない”。――彼らはそれを徹底していたんです。奪われた薬草を追って、死を恐れずに……」
ガウルの拳が机を叩いた。
音がギルド中に鳴り響き、壁のランプが揺れる。
「そんな真似、普通の魔物にできるか! まるで――“守護者”だ」
「ええ。報告では、彼らは“聖域の守護者”と呼ばれていました」
沈黙。
外の風の音が聞こえた気がした。
テラスの街を包む冷たい夜風が、嵐の前のように重く吹く。
森の入口近く――夕闇の中、泥にまみれた女が這っていた。
白いローブは血と土で茶色に染まり、指先には霜が降りている。
「……は、はぁ……リーダー……ゴードン……みんな……」
『鉄槌(ハンマー)』総数8名。
テラスの街 最強のAランクパーティの回復術師、メリア。
彼女だけが、あの森から逃げ出した。
息は荒く、足取りは重い。それでも、街の灯りを見つけた瞬間――
「――生きて、帰れた……!」
そう呟き、涙を流した。
「おい! 誰か倒れてるぞ!」
門番が駆け寄り、肩を抱き起こす。
「た、助けて……あの森、もう……あそこは……!」
「大丈夫だ、今すぐギルドへ――」
その時だった。
メリアの腰に下げていたポーチが、不気味にガサガサと揺れた。
「……え?」
彼女は青ざめながら、ゆっくりと開けた。
中には、淡く発光する葉――霊薬草が数枚。
微かな風が、背後の森から吹き抜けた。
いや、それは“風”ではない。唸り声だった。
――ゴオォォォォォ……
「ひっ……いや、嘘でしょ……!」
森の闇から、二体のコボルトが姿を現した。
目は光のように青く、口元からは蒸気が漏れている。
メリアはその場に凍り付いた。
「ま、待って……来ないで……お願いっ!」
返事はない。
一体が地を蹴った――
まるで“音”すら置き去りにして、目の前まで飛び込む。
バシィッ!
その腕が、ポーチを正確に掴み取る。
メリアの肌をかすめるが、攻撃の意思は微塵もない。
ただ、“奪い返した”のだ。
「や、やめ――っ!」
もう一体が確認するように霊薬を覗き込み、短く鳴いた。
――「ケルル」
次の瞬間、二体はまるで風に溶けるように消えた。
残されたのは、ただ震えるメリアと、地に転がったポーチの紐。
「……全部……奪われた……」
その声は夜に溶け、静かに消えた。
そして、彼女は意識を失い、倒れた。
ギルドに担ぎ込まれたメリアの手は、未だ震えていた。
ヒューゴが回復魔法を施しながら、小声で問う。
「メリアさん……“聖域”って……見たんですね?」
「ええ……森の奥に……白い光が、泉のように湧いてた……。
それを囲むように、青いコボルトたちが……まるで祈ってたの……。
私たちは……それを、踏み荒らしてしまったのかもしれない……」
涙が一筋、頬を伝う。
「リーダーが……最後に言ってた。
“この森、もう俺たちの世界じゃねぇ”って……」
ヒューゴは言葉を失った。
ただ、震える手でガウルを見た。
「……どうしますか、マスター」
ガウルは長く息を吐き、机の上の地図を広げた。
そこには、王都と魔王領を隔てる“東の森”が赤く印されている。
「……もう、我々の手には負えん」
低い声が、雷鳴のように響く。
「この情報は、王都へ送る。勇者アルクたちが動くだろう」
彼は分厚い羊皮紙を引き寄せ、鋼鉄の羽ペンを取った。
その筆先が走る。
『報告書:東の森にて、異常魔力現象発生。
霊薬の生成地帯は完全防衛状態に移行。
素材採取者を自動追跡し、奪還行動を実施。
森は“絶対防衛領域”と化した。』
「……“魔王軍”という言葉は使うな」
ガウルはぼそりと呟いた。
「奴らとは、性質が違う。これは……もっと根の深い、“何か”だ」
ヒューゴが唾を飲む。
「まさか……神聖結界の暴走、ですか?」
「あるいは、“誰か”が……無自覚に起こした奇跡だ」
静かな時間が流れた。
窓の外では、森の方角で小さく光が瞬いた。
それはまるで、世界そのものが“聖域”を護ろうとしているようだった。
すべての報告書を書き終え、封蝋を押した。
それを運ぶ伝令兵に、ガウルは静かに告げる。
「命懸けで走れ。これは“国家級の報告”だ」
「了解!」
兵が駆け出す。
扉が閉まった後、ガウルは一人残り、窓の外を見つめた。
森の彼方――そこに、淡い青の光。
「……勇者アルクよ。お前たちがどう動くか、見せてもらおう。
これが、真のSランク依頼ってやつだ」
彼の横顔に、僅かな笑みが浮かんだ。
恐怖と、興奮が入り混じった笑みだった。
――静寂。
森の奥、白い光が泉のように湧き立つ場所。
そこに、青く光るコボルトたちが集っていた。
「……ケル。侵入者、排除、完了」
言葉ではなく、魔力の波で意思が伝わる。
群れの中心には、一本の霊薬の根。
淡く揺れるその根に、小さな影が触れた。
それが、全ての始まりだった。
森はそれを“核”として再構成され、
魔物たちは意思なきまま“守護者”へと変わった。
だがその中心、泉の奥底では、まだ何かが眠っている。
まるで、次なる命令を待つように。
テラスの街に朝日が昇る。
ガウルはギルドのバルコニーから森を見た。
その光はまだ、淡く揺れている。
「……静かすぎる」
ヒューゴが背後から言った。
「でも、きっともう、誰もあそこには近づかないでしょう」
「いいや、近づくさ」
ガウルは笑った。
「“勇者”ってのは、危険と聞くと目を輝かせる生き物だ。
……あいつらが来れば、この世界がどう動くか分かる」
そして呟く。
「――その引き金を引いたのが、誰かの“無自覚な奇跡”なら……
神か悪魔か、見極めてやるさ」
その声を包むように、森の風が吹いた。
青い光が一瞬、強く瞬く。
まるで、“意思”を持ったかのように。
その報告書は、1日後に王都へ届く。
勇者アルクたちは“聖域”討伐を命じられ、
世界は静かに、新たな戦いへと舵を切ることになる。
――誰も知らない。
その“聖域”が生まれた理由が、
一人の少年、クロノの“ちょっとした採取”だったことを。
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