第2話 気ままな観光と、無自覚の【万物創造】
――国境の
白い石の壁が空に伸び、外敵を寄せつけぬ要塞のように屹立していた。
魔王領とは逆方向にあるこの街は、平和とは言えないまでも、前線基地のようなピリピリした空気とは無縁だ。
クロノ・ルミナスは、久々に感じる人々の賑わいに、思わず深く息を吸い込んだ。
「……ああ、自由の匂いがする。最高だ」
クロノは軽快な足取りで街の門をくぐった。
湿った土の匂い。焼き立てパンの香り。市場の喧騒。
かつて勇者アルクの後ろをついて歩いていた頃は、こんな空気を楽しむ暇すらなかった。
今、背中には軽いポーチと観光案内図だけ。
もう誰の荷物も背負わない。誰にも文句を言われない。
「雑用係」から解放された彼は、まさに自由人の顔をしていた。
「よし、観光だ。まずは、事前に入手した情報通り、『テラス焼き』から行くぞ」
大通りを進むと、香ばしい匂いに誘われて立ち止まる。
そこには、小さな石造りの菓子屋――可愛らしい木製の看板に「本日焼きたて!テラス焼き」の文字。
「いらっしゃい! 今日は出来がいいよ!」
店主の朗らかな声に迎えられ、クロノは迷わず一つ注文した。
テラス焼きとは、焼きたてのパン生地に甘いチーズと特製の香草が練り込まれた、この街の名物だ。
一口噛みしめると、チーズの濃厚な風味と香草の爽やかさが口の中に広がる。
「……うまい」
この感動こそが、クロノが求めていたものだった。
勇者パーティ時代は、栄養重視の戦場メシばかり。味わう余裕などなかった。
「そんなに美味しそうに食べてくれると嬉しいねえ」
店主は優しく笑う。
「これ、本当に絶品です。……ここに来て正解でした」
「ありがと。けど、兄さん、旅の人かい?悪いことは言わないけど、日が暮れる前に出た方がいいよ」
パンを食べる手が止まる。
「……どういう意味です?何か、危ないことでも?」
店主は周囲を見回し、声を潜めた。
「魔物だよ。魔王討伐のために精鋭が抜けてから、この辺りの魔物の活動が活発になってな。特に、うちの街を支えている『防壁』が、もう限界なんだ」
店主が指差す先。
この街を何百年も守ってきた巨大な石壁だった。――しかし、よく見ると、南側の区画の一部が異様に黒ずみ、ひび割れているのがわかる。
「あれは、巨大な魔物の攻撃を受けた跡でね。ギルドは高額な修復依頼を出しているが、構造自体が崩壊寸前で、誰も手が出せない。いつ崩れてもおかしくないんだ」
店主の顔には、この街の住民共通の不安が刻まれていた。
クロノは、手に持っていたテラス焼きを一口で食べ終えた。
「誰も修復できないのか?」
「ギルドが何度も試したけど、魔法も効かない。石が古すぎて、触るだけで崩れるんだってさ」
女将の顔には、心底の不安が浮かんでいた。
「……なるほど。崩壊寸前、ね」
放っておいてもいい話だ。
けれど――「せっかく観光するなら、安心して歩ける場所がいい」。
それがクロノ流スローライフの哲学だった。
「ふむ……少し見てくることにします」
「え?兄さん、危ないよ!」
店主の制止を背に、クロノはひび割れた防壁へと向かった。
防壁の前に立つと、改めてそのひび割れの深さに息を呑んだ。
ひび割れは深く、まるで巨大なナイフで切り裂かれたようだ。専門家が触れないというのも納得できる。
普通の人なら、諦めるだろう。
「ふむ……じゃ、軽くやるか」
クロノは右手をかざす。
「【影の力(ドミナンス)】……いや、今回は地味にいこう。
――【万物創造(イノベーション)】、対象“修復・強化”に限定」
淡い青光が彼の掌に灯る。
だが派手な魔法陣も詠唱もない。
ただ、指先が石壁に触れた瞬間――
“コォン”という小さな音とともに、ひび割れの奥から光が満ちていった。
「構造組み換え開始。……鉄分、石英、魔素比率を最適化。
地脈エーテルを流し込み、融合……はい、完成」
言葉というより、職人の独り言のように。
そして――
壁は静かに輝きを収め、まるで新品のように滑らかに整った。
「ふう。これで百年は持つだろ。……強度テストはパス」
クロノは満足げに手を払った。
誰もいない、静かな通り。
誰も、この一瞬を見ていない。
そして本人も、どれほどとんでもないことをやったかを気付いていなかった。
「さて、次は……“居酒屋・ドワーフの斧”だったな」
観光案内図を片手に、クロノは足取り軽く歩き出した。
――その背後で、街の守護壁は静かに光を帯び、以後一切の損傷を受けなくなった。
夕刻。
木製の梁に吊るされたランプが、琥珀色の光を放っている。
中は人、人、人。冒険者、商人、兵士、そして酔っぱらい。
「すみません、席、ひとつ空いてます?」
「奥の隅なら空いてるよ! 飲み物は?」
「“ドワーフの血”を」
「お、おう……強いの行くねぇ!」
真っ赤な酒が出され、クロノはそれをゆっくり傾けた。
「……くぅー、効くな。これ、強すぎだろ」
酒を楽しみながら、クロノは周囲の会話に耳を傾ける。国境の街は、王都の噂や前線の情報が錯綜する、最高の「情報収集地」だった。
しばらくすると、隣のテーブルの男たちの会話から、聞き覚えのあることが飛び込んできた。
「なあ聞いたか? “光の剣”が撤退したって」
「なんだと!?勇者アルクのパーティか?魔王城へ向かう途中でか?」
隣のテーブルで、二人のゴツイ冒険者が声を潜めて話している。
クロノは、酒杯を持つ手がピタリと止まった。
「ああ、それどころじゃないらしい。魔王領手前の『闇の慟哭洞窟』で、ただの魔物の群れに壊滅寸前まで追い込まれたって話だ」
「嘘だろ! Sランクパーティが!? あいつら、魔王討伐目前だったはずだろ!」
「なんでも、“ホーリー・スラッシュ”の威力が激減してたって話だ。
聖女リゼットの回復魔法も効かず、騎士ガレオンは瀕死で帰還したらしい」
「……そりゃ大事件だな」
クロノは酒を一口。
喉を通る熱が、妙に甘く感じた。
(あーあ……もう、俺いないからな)
心の奥で苦笑が漏れる。
アルクの剣が鈍るのも当然。
彼の剣筋には、常にクロノの【影の支援】が乗っていた。
リゼットの回復効率が落ちたのも当然。
クロノが無意識に“魔力の流れ”を整えていたからこそ、彼女は聖女の名に値したのだ。
そしてガレオン――。
防御支援のないただの騎士が、強敵に耐えられるはずもない。
「……ふむ。ま、当然の結果か」
クロノはため息をつきながらも、どこか優越感を隠せなかった。
「自業自得だな」
「え、兄ちゃん今なんか言った?」と店主が声をかける。
「いえ、ただの独り言です」
「ははっ、酔ってきたか。で、もう一杯どうする?」
「……いや、その前に聞きたい。
この近くで、一番景色がいい場所って、どこです?」
「景色? 変わった客だね。……そうだな、東へ二日行ったところに“エメラルド・レイク”がある。
陽が昇る時の湖面が、まるで宝石みたいに光るって評判さ」
「なるほど。いいですね。じゃあ、明日はそこに行ってみます」
勇者パーティーが崩壊しようと、魔王が動こうと――そんなことはもう関係ない。
クロノにとって大事なのは、“明日の風景”と“美味い酒”だった。
勘定を済ませ、立ち上がる。
「ごちそうさまでした。……ああ、そうだ、テラス焼き、あの店の向かいにあった石壁。しばらくは安心していいですよ」
「へ? なんの話?」
「いや、気のせいです」
軽く笑って、扉を開けた。
外の夜風が、酒気を吹き飛ばしていく。
「……自由って、いいもんだな」
空を見上げ、クロノは小さく呟いた。
その背後、テラスの街では――。
夜半、突然鳴り響いた鐘の音に、住民たちは目を覚ました。
「おい、壁が……!」
「修復されてる!? しかも、なんか光ってるぞ!?」
「神の奇跡か!?」
街中が歓喜に包まれた。
だが、その“奇跡の立役者”はもういない。
静かに旅路を進み、次の酒場と絶景を目指して歩いていた。
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