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42
第1話
1
目の前が暗闇に覆われたのを覚えている。
あれは、生まれて初めて感じた痛みの最中だった。
それを目にした時、私の胸に激しい衝撃が走り、痛みに耐えきれず崩れ落ちた。
雨の日。
冷たさは感じない。
どうでもいい。
そんな事は、どうでもいいのだ。
痛む胸を必死に抑え、暗闇の中独り地面に伏す。
嘘だと。
誰か、嘘だと言って。
苦しみは容赦なく彼女を襲う。
嫌。
嫌よ、嫌。
そんな筈ない。何かの間違いよ。
あの人が、私以外の女を選ぶなんて——。
「この世は理不尽に満ちている。我儘で、自分勝手で、残酷なものさ。本当に可笑しな話だと思わないかい? あの女より、君の方が彼にお似合いだというのに。そうだろう? 彼は騙されているのさ。あの女にね。そうでなければ、彼の隣に居るのは君。いいのかい? このままでは——彼、あの女と結婚しちゃうよ?」
その囁きだけが耳に届く。
嫌、嫌、嫌。
そんな事、許されない。
「そうさ。許されない事だ。あぁ、可哀想な君。でも、どうするんだい? どうやって、彼を手に入れるんだい?」
囁きは優しく問う。
そ、それは——……
その問いかけに、ふと頭に浮かんだ。口にしてはいけない言葉。
最後の理性とでも言えば聞こえがいい。私は、分からないとだけ呟いたのだ。
「ふふ——。嘘をつくのはおやめよ。分かっている筈さ。邪魔なあの女さえ居なくれば、彼は君のものだ。ほら、簡単だろう? そもそも、悪いのはあの女さ。君の大切な彼を誑かし、弄び、騙しているのだから」
で、でも——。
「大丈夫。綺麗な君の白い手が汚れる事はないよ。そう。君はただ願うだけでいい。あの女をこの世から消してと。ほら、簡単だろう?」
あぁ——なんて——
あまりに甘い。
甘くて、甘くて。
その言葉を口にした瞬間に、胸の痛みは弾けて消えていて。
陽光の中に居るかのような錯覚。
私に向けて差し出されたその手は、暖かく。微笑みは優しく。まるで——。
2
「駄作に過ぎるけど。まぁ、いっか。役者は揃ったし、さぁ始めなよ。楽しい喜劇をさ」
殺伐とした空気の中に響く声は享楽を孕んでいた。
「ほら早く始めなよ、結婚式。念願だったんでしょ? 彼と結婚するの。その為に、僕にお願いしたんだから。邪魔なあの女を消してって。ねぇ」
そう言い放つと、くすりと笑う。
「ふふ。いいね、その顔」
唐突に突き付けられた真相。
怒りと、悲しみと、恐怖の入り混じった表情を浮かべる新郎へ、言葉を続ける。
「そう。あんたの愛する彼女を消してと、僕に言ったのは、今隣に居るこの女。あんたとどうしても結婚したかったんだってさ。可笑しな話だろう? あんたとは友達でも、知人でもなんでもないのにさ」
震える体。強く握りしめられた拳。言葉は出ない。
「でもさ、僕この女と契約しちゃったから仕方ないんだ。願いを叶えないと、報酬が貰えない。あんた達はお似合いだったよ。この女よりもずっとね。あんなに愛し合って幸せそうだったのに、御愁傷様」
言い放った瞬間、男は堰を切ったように感情をぶつけた。
当然の罵り。
涙と嗚咽が入り混じり、見ていられない。違う。こんな筈じゃなかった。
こんな筈じゃ——。
「こんな筈じゃなかった——ねぇ。それ、聞き飽きたんだよね。毎回毎回馬鹿の一つ覚え。自分の欲しい言葉を貰い、自分の欲しい環境を手にいれ、己の欲望のままに僕を使った。優しい誘惑に負けて、自分をも売って、全部自業自得さ。それなのに、こんな筈じゃって。笑い話にも程があるんじゃない? あんたは、今日ここで彼と結婚する。それが願いだろ? あんたの願いに、続きはなかった。みんなからの祝福が欲しいもなかった。彼に真相を知られたくないもなかった。あんたの様に、その場での感情だけで願うから、こうなるのさ。身に染みただろ? 迂闊に公爵と契約すると、どうなるかを」
……あぁ……
なんて、愚かな……
後悔は既に遅く、あの日の自分を呪う。なぜ、私は——。
でも、もう遅い。何もかもが。
目の前が暗闇に覆われた。
「はぁ。本当つまらない」
そう言うと、鋭い切先が彼の喉元を切り裂く手前で止まる。
「ほら、早く。僕を飽きさせないでくれる」
一瞬で命を奪う大きく湾曲した鎌が鈍色に光る。
「神父さん。ほら、ぼさっとしない」
「公爵か——」
「そう。階級はね」
静観していた神父の声が、二人きりの式場に響く。
「その鎌。噂に聞く公爵級が手にしていた武器であるなば、名はフェレスか」
「噂か。——そうだと言ったら?」
「私のような一端の神父では、公爵どころか伯爵にも遠く及ばない」
怯える様子もなく、ただ淡々と紡ぐ。
「とはいえ、これでも年相応の知識はある。メフィスとフェレスは双子である事は、私たちの世界では常識だ。双子なのだから、メフィスもフェレスと同じ容姿なのだろうと。一卵性とはいかずとも、似通っているに違いない。そう誰しもが思うだろう。だが、その実双子ではあっても、姿形はまるで別人」
「……へぇ。それで?」
「極東の国に」
「極東……続けろ」
「噂話程度でよければだが。ただし——彼女との契約を破棄する事。二人の命を永劫取らない事を条件とする」
「はぁ——。何を言うかと思えば噂話程度でしょ? 嘘だった時、どうなるか想像つかないわけないでしょうに」
「無論」
「最低二人だ。嘘だった時は、お前とその男。あとはその時の気分次第。神父が賭けるにしては、重過ぎる代償過ぎるでしょ。契約破棄したところで、その女は第一級犯罪者だから、捕まれば即処刑だし。お前がこの後で、あいつらに全部言ったら追尾がかかる。僕にとって都合の悪い事ばかりだ」
「そうか。ならば仕方あるまい」
神父は隠し持っていた短剣を己が首へと向ける。
「ここで私が死ねば、噂話程度の情報すら手に入らない」
手に力を込める。
「待て——」
声を張り、その行動を止める。
「分かったよ。あんたの言うとおりにする」
神父はそれでも尚、刃を下さない。条件を完遂するのを待っているのだ。
仕方ない。
不本意ながらも、女との契約を自ら破棄し手にしていた身の丈以上ある鎌を手放す。それから両手を上げ、危害を加える意思がないことを示す。
神父は、最後まで刃を下す事はなかった。油断ならぬ相手故に。
噂話を聞き終えた後、少しばかり思案するそぶりを見せ、大人しく何もせずに出て行った。
そこで初めて、神父は短剣を下ろし、安堵の息を吐く。後は、噂話が真実である事を願う。
冷や汗が頬を伝った。
嵐の様に現れた、公爵の階級を持つフェレス。
人が一番弱っている時に現れ、言葉巧みに誘惑し、命を代償に契約をする。
少年の姿をした、凶悪な悪。
近年頻繁に活動している所為か、その名はよく耳にする。人の血肉は己の力に直結する。これほどまでに急いているかのような行動は、先程の言動からも予想ができる。
フェレスは己が片割れを探しているのは事実。だが、あの目——。
己より上の階級、大公であるメフィスへ追いつく為か、はたまた——。
3
暗闇。
私は、三度目の暗闇に沈んだ。
最後に見えたのは、崩れゆく私の体。醜く肥えた体はあっけなく。
あの日、あの少年が言った通り。
これが、私の最期。
たった一度、優しくされたのが嬉しくて。その瞬間、私はあの人に恋をして。
追いかけて追いかけて愛に変わって。
愛しくて、愛しくて、私は彼の妻になるのだと信じて、信じて信じ込んだ。
彼の妻になるのは私。
だって、彼は私を愛しているんだもの。
だから——。
あの女、私から彼を奪うあの女が許せなかった。
許せなかったの。
許せなかった……
でも、優しかった彼は変わってしまった。
あの日を境に、私は憎まれた。憎悪の感情が私を貫き、荒れ果てた先で、彼は自ら命を絶った。
あぁ……なんて悲劇だろう。
彼があの女の所へ逝ってしまうなんて。
でも、大丈夫。
私も今そちらへ——。
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