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第1話


 目の前が暗闇に覆われたのを覚えている。

 あれは、生まれて初めて感じた痛みの最中だった。

 それを目にした時、私の胸に激しい衝撃が走り、痛みに耐えきれず崩れ落ちた。

 雨の日。

 冷たさは感じない。

 どうでもいい。

 そんな事は、どうでもいいのだ。

 痛む胸を必死に抑え、暗闇の中独り地面に伏す。

 嘘だと。

 誰か、嘘だと言って。

 苦しみは容赦なく彼女を襲う。

 嫌。

 嫌よ、嫌。

 そんな筈ない。何かの間違いよ。

 あの人が、私以外の女を選ぶなんて——。

「この世は理不尽に満ちている。我儘で、自分勝手で、残酷なものさ。本当に可笑しな話だと思わないかい? あの女より、君の方が彼にお似合いだというのに。そうだろう? 彼は騙されているのさ。あの女にね。そうでなければ、彼の隣に居るのは君。いいのかい? このままでは——彼、あの女と結婚しちゃうよ?」

 その囁きだけが耳に届く。

 嫌、嫌、嫌。

 そんな事、許されない。

「そうさ。許されない事だ。あぁ、可哀想な君。でも、どうするんだい? どうやって、彼を手に入れるんだい?」

 囁きは優しく問う。

 そ、それは——……

 その問いかけに、ふと頭に浮かんだ。口にしてはいけない言葉。

 最後の理性とでも言えば聞こえがいい。私は、分からないとだけ呟いたのだ。

「ふふ——。嘘をつくのはおやめよ。分かっている筈さ。邪魔なあの女さえ居なくれば、彼は君のものだ。ほら、簡単だろう? そもそも、悪いのはあの女さ。君の大切な彼を誑かし、弄び、騙しているのだから」

 で、でも——。

「大丈夫。綺麗な君の白い手が汚れる事はないよ。そう。君はただ願うだけでいい。あの女をこの世から消してと。ほら、簡単だろう?」

 あぁ——なんて——

 

 あまりに甘い。

 甘くて、甘くて。

 その言葉を口にした瞬間に、胸の痛みは弾けて消えていて。

 陽光の中に居るかのような錯覚。

 私に向けて差し出されたその手は、暖かく。微笑みは優しく。まるで——。


 2

 

「駄作に過ぎるけど。まぁ、いっか。役者は揃ったし、さぁ始めなよ。楽しい喜劇をさ」

 殺伐とした空気の中に響く声は享楽を孕んでいた。

「ほら早く始めなよ、結婚式。念願だったんでしょ? 彼と結婚するの。その為に、僕にお願いしたんだから。邪魔なあの女を消してって。ねぇ」

 そう言い放つと、くすりと笑う。

「ふふ。いいね、その顔」

 唐突に突き付けられた真相。

 怒りと、悲しみと、恐怖の入り混じった表情を浮かべる新郎へ、言葉を続ける。

「そう。あんたの愛する彼女を消してと、僕に言ったのは、今隣に居るこの女。あんたとどうしても結婚したかったんだってさ。可笑しな話だろう? あんたとは友達でも、知人でもなんでもないのにさ」

 震える体。強く握りしめられた拳。言葉は出ない。

「でもさ、僕この女と契約しちゃったから仕方ないんだ。願いを叶えないと、報酬が貰えない。あんた達はお似合いだったよ。この女よりもずっとね。あんなに愛し合って幸せそうだったのに、御愁傷様」

 言い放った瞬間、男は堰を切ったように感情をぶつけた。

 当然の罵り。

 涙と嗚咽が入り混じり、見ていられない。違う。こんな筈じゃなかった。

 こんな筈じゃ——。

「こんな筈じゃなかった——ねぇ。それ、聞き飽きたんだよね。毎回毎回馬鹿の一つ覚え。自分の欲しい言葉を貰い、自分の欲しい環境を手にいれ、己の欲望のままに僕を使った。優しい誘惑に負けて、自分をも売って、全部自業自得さ。それなのに、こんな筈じゃって。笑い話にも程があるんじゃない? あんたは、今日ここで彼と結婚する。それが願いだろ? あんたの願いに、続きはなかった。みんなからの祝福が欲しいもなかった。彼に真相を知られたくないもなかった。あんたの様に、その場での感情だけで願うから、こうなるのさ。身に染みただろ? 迂闊に公爵と契約すると、どうなるかを」

 ……あぁ……

 なんて、愚かな……

 後悔は既に遅く、あの日の自分を呪う。なぜ、私は——。

 でも、もう遅い。何もかもが。

 目の前が暗闇に覆われた。

「はぁ。本当つまらない」

 そう言うと、鋭い切先が彼の喉元を切り裂く手前で止まる。

「ほら、早く。僕を飽きさせないでくれる」

 一瞬で命を奪う大きく湾曲した鎌が鈍色に光る。

「神父さん。ほら、ぼさっとしない」

「公爵か——」

「そう。階級はね」

 静観していた神父の声が、二人きりの式場に響く。

「その鎌。噂に聞く公爵級が手にしていた武器であるなば、名はフェレスか」

「噂か。——そうだと言ったら?」

「私のような一端の神父では、公爵どころか伯爵にも遠く及ばない」

 怯える様子もなく、ただ淡々と紡ぐ。

「とはいえ、これでも年相応の知識はある。メフィスとフェレスは双子である事は、私たちの世界では常識だ。双子なのだから、メフィスもフェレスと同じ容姿なのだろうと。一卵性とはいかずとも、似通っているに違いない。そう誰しもが思うだろう。だが、その実双子ではあっても、姿形はまるで別人」

「……へぇ。それで?」

「極東の国に」

「極東……続けろ」

「噂話程度でよければだが。ただし——彼女との契約を破棄する事。二人の命を永劫取らない事を条件とする」

「はぁ——。何を言うかと思えば噂話程度でしょ? 嘘だった時、どうなるか想像つかないわけないでしょうに」

「無論」

「最低二人だ。嘘だった時は、お前とその男。あとはその時の気分次第。神父が賭けるにしては、重過ぎる代償過ぎるでしょ。契約破棄したところで、その女は第一級犯罪者だから、捕まれば即処刑だし。お前がこの後で、あいつらに全部言ったら追尾がかかる。僕にとって都合の悪い事ばかりだ」

「そうか。ならば仕方あるまい」

 神父は隠し持っていた短剣を己が首へと向ける。

「ここで私が死ねば、噂話程度の情報すら手に入らない」

 手に力を込める。

「待て——」

 声を張り、その行動を止める。

「分かったよ。あんたの言うとおりにする」

 神父はそれでも尚、刃を下さない。条件を完遂するのを待っているのだ。

 仕方ない。

 不本意ながらも、女との契約を自ら破棄し手にしていた身の丈以上ある鎌を手放す。それから両手を上げ、危害を加える意思がないことを示す。

 神父は、最後まで刃を下す事はなかった。油断ならぬ相手故に。

 噂話を聞き終えた後、少しばかり思案するそぶりを見せ、大人しく何もせずに出て行った。

 そこで初めて、神父は短剣を下ろし、安堵の息を吐く。後は、噂話が真実である事を願う。

 冷や汗が頬を伝った。

 嵐の様に現れた、公爵の階級を持つフェレス。

 人が一番弱っている時に現れ、言葉巧みに誘惑し、命を代償に契約をする。

 少年の姿をした、凶悪な悪。

 近年頻繁に活動している所為か、その名はよく耳にする。人の血肉は己の力に直結する。これほどまでに急いているかのような行動は、先程の言動からも予想ができる。

 フェレスは己が片割れを探しているのは事実。だが、あの目——。

 己より上の階級、大公であるメフィスへ追いつく為か、はたまた——。


 3

 

 暗闇。

 私は、三度目の暗闇に沈んだ。

 最後に見えたのは、崩れゆく私の体。醜く肥えた体はあっけなく。

 あの日、あの少年が言った通り。

 これが、私の最期。

 たった一度、優しくされたのが嬉しくて。その瞬間、私はあの人に恋をして。

 追いかけて追いかけて愛に変わって。

 愛しくて、愛しくて、私は彼の妻になるのだと信じて、信じて信じ込んだ。

 彼の妻になるのは私。

 だって、彼は私を愛しているんだもの。

 だから——。

 あの女、私から彼を奪うあの女が許せなかった。

 許せなかったの。

 許せなかった……

 でも、優しかった彼は変わってしまった。

 あの日を境に、私は憎まれた。憎悪の感情が私を貫き、荒れ果てた先で、彼は自ら命を絶った。

 あぁ……なんて悲劇だろう。

 彼があの女の所へ逝ってしまうなんて。

 でも、大丈夫。

 私も今そちらへ——。

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