第12話報告書と葛藤
夜が明けきる前、淡い光が研究室の窓から差し込み始めていた。
静かな寝息が混ざる室内で、フィオナはゆっくりと目を覚ました。
柔らかい布団の感触。
そして、すぐ隣から伝わる、温かくて、頼もしい体温。
「……あ……また……」
薄く開いた瞳の先で、エドガーの胸の上に自分の手が置かれているのを見て、
フィオナはそっと息を詰めた。
まるで自然に吸い寄せられるように、彼の方へ寄り添っていたらしい。
いつものように。
寝相が悪いと自覚してはいた。
けれど一人で寝ていた頃は、それを意識することもなかった。
彼と同じ寝台を使うようになってから、自分がどれほど無防備なのかを思い知らされる。
「……申し訳ございません、エドガー様……」
小声で呟く。
けれど、彼の腕はゆるむどころか、逆にわずかに強く抱き寄せるように動いた。
その仕草が、あまりにも自然で、胸の鼓動が跳ねる。
(もう少しだけ、このまま……)
そう思ってしまう自分を叱りたくなる。
それでも離れられず、しばし彼の鼓動に耳を傾けた。
その音が、まるで心を落ち着かせる子守唄のように感じられて。
けれど、朝の光が少しずつ強まるにつれて、
ようやくフィオナは名残惜しそうにそっと抜け出した。
寝台を離れ、机の上の書類を整える。
昨夜まで徹夜でまとめていた、再利用核の安定化実験報告書。
魔力を失い、光を落とした核に再び魔力を宿らせる――
その成功は、辺境だけでなく王国全体にとって大きな発見となるはずだった。
(……これを報告すれば、きっと王都の学術院が動く)
けれど、報告すれば間違いなく、王都から呼び出しがかかるだろう。
辺境での研究どころか、エドガーのもとを離れなければならない。
「……でも……」
ペン先が紙の上を止まる。
指先がわずかに震えて、インクがひとしずく滲んだ。
「これを国のために使わないのは……間違い……」
正しいことをしようとするたびに、胸が痛む。
彼の隣にいるだけで満たされるのに、
それが『義務』によって壊れてしまうのが、怖かった。
「……フィオナ」
低く響く声に、肩が跳ねた。
振り向くと、寝台に腰をかけたエドガーが、寝起きのままこちらを見ていた。
乱れた黒髪が、朝の光を浴びて少し金色を帯びて見える。
「お、おはようございます、エドガー様……! あの、もう少しで整理が終わりますので……!」
「朝から働きすぎだ」
「ですが、報告を早めに出した方が――」
エドガーはゆっくりと立ち上がり、彼女のそばまで歩み寄った。
机に広げられた報告書に目を落とす。
数枚を手に取り、読み込んだ瞬間、わずかに眉を寄せた。
「……これを王都に送るつもりか?」
「……はい。再利用可能な核が確認できれば、きっと多くの人を助けられます。
貧民街でも照明や暖房の代わりに……」
そこまで言って、言葉が止まる。
彼の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
その金の光に射抜かれるようで、息を呑んだ。
「――だが、お前が王都に取られるのは困る」
「……え?」
彼はゆっくりと書類を机に戻し、フィオナの手を取った。
その手のひらに熱が宿る。
「報告すれば、きっとお前は王都の学者に呼び戻される。
そうなれば、この屋敷にも……俺のそばにもいられなくなるだろう」
「……わたくし、そんなつもりでは……」
「分かっている。お前が国のためを思っているのも知っている。
けれど……」
彼の手がそっと頬に触れた。
熱い掌が、肌を包み込むように。
視線が絡み合い、時間が止まったかのようだった。
「……俺は、お前を手放したくない」
静かな声なのに、その言葉は深く胸に響いた。
フィオナの頬が赤く染まり、唇が震える。
「……エドガー様……」
「もう少し、ここで研究を続けろ。お前の納得がいくまで。
報告はその後でも遅くはない」
「……はい……」
自然と頷いていた。
心の奥の不安が、彼の言葉一つで溶けていくようだった。
エドガーはそっと彼女の頭を撫でる。
「……少し、休め。昨夜もほとんど寝ていないんだろう?」
「で、ですが……」
「命令だ」
不意に優しく引き寄せられ、胸元に顔を押し付けられる。
香りと鼓動に包まれて、フィオナの瞼が自然と落ちた。
「……少しだけ……」
そう言いながら、彼の胸に身を預ける。
穏やかな息が重なり、温かい空気が満ちていく。
エドガーの腕がゆっくりと彼女の背を撫でるたび、
静かな幸福が胸を満たしていった。
「……ほんとうに、あなたと過ごす時間が……一番、落ち着くんです」
「……俺もだ」
彼の返事を聞いたのかどうか、もう分からなかった。
フィオナはそのまま彼の胸の中で静かに眠りについた。
外では鳥が囀り始め、辺境の朝がゆっくりと訪れる。
けれど二人の時間だけは、まだ夜の静けさのまま――。
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